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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

沙也可〜文禄・慶長の役で朝鮮軍に降って戦った日本の武将

先日、肥前名護屋城跡を訪れたのをきっかけに文禄・慶長の役について書いたけれど、それと関連して今回は「沙也可」という人物について書かせてもらおう。

沙也可

沙也可

沙也可とは

「沙也可(さやか)って誰ぞ?」という人も多いじゃろう。もちろん松田聖子さんと神田正輝さんのお嬢さんのことではない。

沙也可は、豊臣秀吉朝鮮出兵に参戦したものの、投降して朝鮮軍に加わった人物で、韓国の英雄じゃ。朝鮮では金忠善(キム・チュンソン)と呼ばれ、慕夏堂と号した。

『慕夏堂文集』によれば、沙也可は文禄の役加藤清正の配下として釜山に上陸した。じゃが、この出兵に大義がないとして、3000人の兵とともに朝鮮軍に加わる。そして、弓矢中心だった朝鮮軍に鉄砲の技術を教えて日本軍と戦い、和議交渉の場などにも登場する。日本軍が撤退した後は女真族と戦って武功を挙げるなど、朝鮮王族のために尽くした。朝鮮軍に降った日本人は「降倭」と呼ばれて蔑まれたが、沙也可は正二位まで昇進した。

沙也可は釜山に上陸してわずか3日で朝鮮に降った。戦況が悪化して投降したのではなく、その理由として、「平素の所願であった朝鮮の礼義文物を慕い、礼儀の国で聖人の百姓になりたい」と記している。ちなみに現在でも韓国の大邱市郊外の友鹿里(ウロンニ)というところには、沙也可の子孫が暮らしているという。

達城韓日友好館

Googleストリートビューより、達城韓日友好館(韓国大邱広域市・友鹿里)

沙也可の出自

もっとも、今日伝わる沙也可の事績にはかなり怪しいところがある。「沙也可」という降倭がいたことは、朝鮮の信憑性が高い史料にも記載があることから、ほぼ間違いないようじゃが、日本側の史料にはそうした人物は見当たらない。

1万人の加藤清正軍から3000人もの兵が降るようなことがあれば当然、日本側の記録にも残るじゃろう。もちろん、みっともないから隠蔽したということも考えられるが、まったく痕跡がないというのは不自然じゃろう。

本人が書いたといわれていた『慕夏堂文集』も、その記述がきわめて儒教的で日本人らしくないという。そんなこともあって、『慕夏堂文集』は子孫が沙也可を顕彰するために書き記したという説もある。

とはいえ、完全な創作とは言い切れないと思う。かなりの潤色で英雄視されているかもしれんが、さすがに実在すべてを否定することはできないじゃろう。

慕夏堂文集

慕夏堂文集. 巻之1-3 / 金忠善 [撰](早稲田大学図書館)

ちなみに、沙也可の出自、素性については、蔚山城の戦いで朝鮮側の使者として和議交渉に登場した降倭で・岡本越後守(阿蘇宮越後守)とする説がある。岡本越後守は加藤清正の旧臣じゃが、九州征伐で秀吉に斬首された阿蘇惟光の縁に連なる人物で、その恨みから離反したというわけじゃ。

また、作家の神坂次郎や司馬遼太郎は雑賀党の出とする説を提起している。沙也可は鉄砲の使い手じゃし、雑賀党は文禄・慶長の役に参陣しており、音も似ているしな。和歌山市紀州東照宮には沙也可の顕彰碑があり、除幕式には子孫も来日している。

この他にもいくつか出自に関する説があるようじゃが、いずれも裏付けとなる証拠はなく、謎めいた人物であることは確かじゃ。

 『黒南風の海』

わしが沙也可の存在を初めて知ったのは、伊東潤さんの小説「黒南風の海」を読んだときじゃ。この小説では、加藤清正配下の鉄砲隊の武将・佐屋嘉兵衛忠善という架空の人物を沙也可としている。

また、まったく反対の立場で日本軍に降った朝鮮人の金宦(良甫鑑)という人物も登場する。金宦は実在の朝鮮人で、文禄・慶長の役の後、加藤清正により日本に連れて来られた。清正に仕えて200石を宛てられ、日本人の妻を娶り、清正が没すると殉死している。よほど清正に心酔していたんじゃな。現在は、熊本城の近くにある加藤神社で、清正とともに祀られている。

運命に翻弄され、祖国を裏切ることになってしまった二人の男の生き様が交錯する物語。作中で金宦はこう心の中で嘉兵衛に叫ぶ。

「われらの生は交錯し、そして入れ替わったのだな。しかし、もはや生まれた国などどうでもよい。一度、この大地に生を享けた者は、この大地に恩返しすればよいのだ」( 伊東潤著『黒南風の海 「文禄・慶長の役」異聞』(PHP研究所) 

韓国にはイラッとすることはあるし(相手もそうじゃろう)、北はまた飛翔体ぶっ放したりして、なんともきな臭い昨今じゃが、ちょっと考えさせられるのう。

国のメンツとかどうでもよいなんてことは言わないけれど、戦争という悲惨な極限状態を目の当たりにすると、こういう思いになるんじゃろうな。「もう国交断絶じゃ!」とか、そういうことは言ってはいかんな。