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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

蒙古襲来~博多湾の元寇防塁(石築地)をみてきた

博多湾元寇防塁。蒙古襲来に備えて鎌倉幕府がつくった石築地(いしついじ)をみてきた。ちなみに、「元寇」という言葉は水戸光圀の時代から使われはじめたものなので、最近の教科書では「蒙古襲来」という言葉に置き換えられているらしい。これ豆な。

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蒙古襲来前夜

まず、蒙古襲来前夜のお話から。元が日本に攻めてくる発端をつくったのは、高麗人の官吏・趙彝(ちょうい)が、日本との通交を進言したことからはじまる。すでにフビライマルコポーロの「東方見聞録」で「黄金の国ジパング」に関心をもっており、さっそく招諭使を派遣してきた。この招諭使が、元への冊封を求める不遜なものであったことは、みなも知っての通りじゃ。 

フビライからの国書の内容や、鎌倉幕府の対応については、以前にも書いたので詳しくはそれを読んでもらうとして、時宗公は元の高飛車な要求を突っぱねた。そして、異国降伏の祈祷を寺社に命ずる一方、九州に所領がある東国御家人に下向を命じ、筑前肥前博多湾沿岸の警固にあたらせた(異国警固番役)。また同時に幕府内の反乱分子を抑え、統制を強化するために庶兄・北条時輔殿を粛清し、この国難に備えたのじゃ。

誤解だらけの「文永の役

フビライハーン

フビライハーン(Wikipedia)

文永11年10月、元・高麗連合軍は2万8千の兵と900艘の軍船で襲来した。これが文永の役じゃ。

元・高麗軍は、対馬壱岐を制圧すると肥前沿岸に攻め込み、松浦党の根拠地を蹂躙した。そして博多湾に侵入すると、百道浜から上陸し、赤坂・鳥飼野近辺で日本軍と激戦になった。蒙古兵は、馬によく乗り豪盛勇猛、銅鑼をじゃんじゃん鳴らして鬨の声をあげて攻めてきたという。

巷間、文永の役で日本軍は蒙古兵に大苦戦し、神風(台風)が吹いてなんとか救われたとされる。じゃが、この話は八幡神の霊験を喧伝する「八幡愚童訓」をもとに後年語りつがれたもの。同時代の信頼できる史料によれば、実際の戦闘はかなり異なることがわかる。

例えば、鎌倉武士の一騎討ち戦法が蒙古兵の集団戦法の餌食になったという話。しかし、「高麗史・金方慶伝」によれば、日本の武士達は騎馬を主体として結束し、密集戦法を仕掛けてきたとある。

「やーやー我こそは!」と名乗りを上げている内に弓矢で射られてしまう場面がよく描かれるが、じっさいの武士たちはそんな間抜けではなかったんじゃよ。

「てつはう」についてもそうじゃ。たしかに、「蒙古襲来絵詞」には、竹崎季長の馬が「てつはう」の破裂に肝を冷やす場面が描かれている。じゃが、「てつはう」は4kgもあり、手で投げるには大して飛距離が出ない。投石機を使用したにしても連続攻撃ができないので、騎馬と長弓で戦う日本兵にどこまで有効だったかは疑わしい。

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そして日本は「神風」に救われたという話。学校では、元・高麗軍は戦況を優位に進めていたが、夜になって船に引き揚げたところ、とつぜんの暴風雨に遭い元の船はことごとく沈没したと教わったはず。じゃが、これは「神州日本」を喧伝するため、後世に誇張されたものにすぎないん。

「高麗史・金方慶伝」によれば、元・高麗軍は武士たちの頑強な抵抗にあい、軍議の結果、撤退を決めている。そして暴風雨に遭遇したのは帰路の途上である。つまり、日本の武士たちは実力で元軍の侵攻を阻んだというわけじゃ。

もっとも、文永の役は威力偵察だったという史家もおる。あるいはフビライは、ガツンと一発かましてやったから、日本は容易に屈すると考えていたのかもしれない。その後も使者を日本に送ってきた。じゃが、時宗公は元の要求を拒否し、それどころか使者を斬首にしてしまったのじゃ。

現代の感覚からは野蛮な行為に感じるし、なにも首をとらなくてもとは思う。じゃが、ダラダラと交渉しているうちに攻めてくるのは元のやり口。宋から逃げてきた無学祖元らの助言もあったじゃろう。時宗公は国をまとめるため、断固たる意思を内外に示した。かくして弘安の役が始まるのじゃ。

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弘安の役」は日本の完勝

弘安4年(1281)、元は再び襲来した。その数は東路軍4万と旧南宋の江南軍10万。フビライの本気度が伺える大船団じゃ。

まず先にやってきたのは東路軍。合浦を出発すると対馬壱岐を攻撃、一部は長門にも侵攻したという。元軍は志賀島に来襲し、博多湾への上陸を試みる。じゃが、これを阻んだのが元寇防塁と呼ばれる石築地じゃ。

元寇防塁は西の今津から東の香椎浜までの約20kmにわたって築かれ、現在、市内7箇所の遺構が国の史跡に指定されている。わしが訪れた「生の松原」地区の石築地は肥後国御家人たちが担当して築造、警備にあたった。

蒙古襲来絵詞」には、ここ生の松原地区の石築地の前を東へ進む竹崎季長の姿が描かれている。防塁の上には、菊池武房ら肥後武将が臨戦態勢で海上を睨みつけている。

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蒙古襲来絵詞

蒙古襲来絵詞

石築地は高さ2.5メートルほど。前面海側に石を積み上げて敵の侵入を防ぎ、陸側は土で傾斜を持たせることで、身を隠しつつ、いつでも騎乗しながら駆け上がり、敵兵に攻め込める構造となっている。

また、伊予御家人河野通有は、石築地を背に船を置き、海上の元軍を迎え撃つ陣を張った。これは「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ、その武勇を讃えられたという。

さらに竹崎季長河野通有らは小舟で元の大船に切り込みをかけるなど、東路軍は2カ月に渡って博多湾への上陸を阻止され、肥前鷹島へと一旦兵を退いた。

そこころ、元の主力である江南軍が到着、東路軍と合流し、鷹島から一挙に博多湾に押し入る態勢を整えた。ところが7月30日夜半、台風が吹き荒れ、元軍は大損害を被った。

閏7月5日、日本軍は伊万里湾海上に残存した元船に攻撃を仕掛け、さらには鷹島に籠っていた元軍の掃討戦を敢行。かくして弘安の役は日本軍の大勝利に終わり、高麗の記録には、元軍約10万、高麗軍7000余人が帰らざる人となったとある。

国難を乗り越えて

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こちらは石築地からの武士目線。もちろん現地には柵があってこんなには近付けない。せめて雰囲気だけでもと望遠で撮ったものがこれじゃ。この視線の先に元・高麗の大船団がひしめき合っていたと思うと戦慄するではないか。鎮西の武士たちの奮闘に感謝じゃ。でも恩賞はあまり出せないけど。

この後、フビライは3度目の日本侵略を企てている。一方、日本も異国警固番役を強化し防備を固めるだけでなく、なんとこちらから高麗へ遠征する計画もあったというから驚きじゃ。そうした緊張感の中、執権・時宗公は過労がたたり3年後の弘安7年に病没。フビライも3度目の日本侵攻を実現することなく死亡した。

石築地の前に佇み、玄界灘を眺めていると、嫌が応にも「国防」について考えさせられる。ここから北朝鮮に拉致された被害者もいるわけじゃしな。そうした感覚は、鎌倉の海では感じられないので、実に不思議な感覚というか、貴重な体験となった。いくら神仏に願っても、平和!戦争反対!と唱えていても、それだけで平和は守れない。やはり国防、有事への備えは大事じゃ。

とはいえ、今の時代、相手は核兵器もミサイルももっておる。元寇防塁は、現代でいえばさしずめ「イージス弾道ミサイル防衛システム」じゃろうか。でもこれ、かなり金がかかりそうじゃし、どこまで防げるのか、心配ではあるが……

現代は鎌倉時代とは違う。さすがに時宗公のような外交は通用しないし、あんまり勇ましすぎるのは、いかがなものかとも思う。酔っ払って「北方領土を戦争で取り返す」と発言したバカ国会議員など言語道断の夜郎自大じゃ。

まあ、今後、やたらと時宗公を讃え、政治利用する人物が出てきたとしたら、それはそれで危険な兆候なのかもしれん。