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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

諸説ある明智光秀の出自について〜ほんとうに土岐氏の系譜なのか

来年の大河ドラマは明智光秀を描く『麒麟がくる』。すでに撮影もスタートし、主要キャストも発表されている。脚本は、あの名作『太平記』を手がけた池端俊策さん! 自ずと期待感が高まるではないか。そして長谷川博巳さんがどんな光秀を演じてくれるのか、今から楽しみじゃ。ということで、今回は明智光秀のこと。

明智光秀

明智光秀(Wikipedia)

『明智軍記』にみる明智光秀の出自

『麒麟がくる』では、当然のことながら明智光秀の前半生に光があてられることになる。

明智光秀は清和源氏の土岐氏の流れをくむ東美濃の明智城主・明智光綱の子。光綱は父・光継とともに斎藤道三に仕えていた。道三の正室・小見の方は光綱の娘であり、後に信長の正室となる濃姫(帰蝶)を生んだ。つまり光秀と濃姫はいとこ同士ということになる。

光継死去のとき、嫡男の光秀はまだ若年じゃった。そこで、成人するまでは叔父・明智光安が後見することになる。じゃが、道三が息子・斎藤義龍との争いに敗れると、明智城も義龍に攻められて落城。光安は自害し、光秀は光春(秀満)らとともに明智家再興を目指して城を抜け出す。そして光秀は諸国を遍歴し、やがて越前の朝倉義景に仕える。

その後、三好三人衆に追われた足利義昭が義景を頼って越前にやってくると、光秀は細川藤孝と協力し、織田信長との間をとりもつ。その才を発揮した光秀は、信長に認められ、家臣として仕えるようになる。

世間一般に知られる光秀の前半生はだいたいこうじゃろう。これは元禄年間に書かれた『明智軍記』をベースにしたもの。司馬遼太郎さんの『国盗り物語』がこれを世間に広めたことで一般にも流布している。じゃが、歴史家の高柳光寿氏に言わせれば、『明智軍記』は「誤謬充満の悪書」であり、史料的価値に乏しく、とても信用できるものではないという。

光秀に関する一次史料は、永禄12年4月14日付、賀茂荘中宛の木下秀吉との連署状(「沢房次氏所蔵文書」)がはじめて。 つまり、それ以前の光秀については、確たることは何もわかっていないんじゃよ。

五十五年の夢…明智光秀の生年は享禄元年?

たとえば明智光秀の生年についても諸説ある。一般的には「享禄元年(1528)」とされているが、もちろん確実なものではない。

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順逆二門無し
大道心源に徹す 五十五年の夢
覚め来れば一元に帰す
心しらぬ人は何とも言はばいへ
身をも惜まじ 名をも惜まじ

これは『明智軍記』に記されている光秀の辞世。光秀が本能寺の変を起こし、山崎の戦いに敗れ、小栗栖で土民に殺されたとき、家臣の溝尾庄兵衛に披露したという。

光秀が没したのは天正10年(1582)6月14日。じゃから、逆算すると享禄元年生まれになるというわけじゃ。ただ、光秀の死後100年も経ってから、突然この辞世が出てくるなんて、どう考えたっておかしいじゃろう。「お前、見たんか!」と作者にツッコミの一つもいれたくなるわな。

寛永年間頃に成立したとされる史書『当代記』では、光秀の没年齢を67歳としているので、これによれば生年は永正13年(1516)になる。ただ、67歳だとと、本能寺の変の時の光秀はかなりのおじいちゃんになってしまう。嫡男・光慶はこのとき13歳じゃから、さすがに高齢すぎるような気がする。

けっきょく、光秀の生年についてはわからない。ただ、興味深いのは、どちらも子年ということ。『明智軍記』には、信長が馬が鼠に腹を食い破られて死ぬ夢をみる逸話が出てくる。

信長は午年生まれ、光秀は子年生まれで、これは本能寺の変を予知夢であったとする。もちろんこの逸話は創作じゃろうが、類似の話は香川正矩の『陰徳記』にもあり、昔の人は光秀を子年生まれと認識していたのかもしれぬな。

明智光秀は「ときの随分衆」?

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明智光秀は通説では土岐氏の一族とされている。実際、明智の家紋は「水色桔梗」じゃし、本能寺の変の直前、有名な愛宕百韻の発句には、光秀が土岐一族として天下を統べる決意を詠みこんだとされる(解釈はいろいろあるようじゃが)。

ときは今 天が下知る 五月哉

光秀が土岐一族であることを伺わせる史料としては『立入左京亮入道隆佐記』がある。これは、禁裏御倉職をつとめ、織田信長と朝廷の間で働いた公家・立入宗継の日記じゃ。そこには天正7年(1579)、光秀が信長から丹波国を与えられたことについて、こんな記述がある。

美濃国住人ときの随分衆也。明智十兵衛尉。
其後従上様被仰出、惟任日向守になる。
名誉之大将也。弓取はせんじてのむへき事候

「ときの随分衆」とある以上、やはり光秀は土岐一族で、それなりの出自なように思う。ただ、光秀が土岐一族であることを自称し、立入宗継はそれを書き留めただけかもしれず、これは決定的証拠とはならない。

「こういう時は系図じゃ!」と、わしなどは思うが、それは素人の浅はかな考えで、歴史研究では系図は参考にはしても盲信しないというのが常識らしい。

光秀についても、江戸時代になって系図がいくつかつくられた。じゃが、もちろん信用できる代物ではない。たとえば光秀の父親の名前も、「光綱」「光隆」「光国」とバラバラ。それらの名前は一次史料にも出てこないから、実在すら疑わしいとか。

光秀は土岐明智氏の流れなのか

『尊卑分脈』には、土岐氏から派生した土岐明智氏の系図がある。土岐明智氏は室町幕府奉公衆をつとめた由緒ある家柄じゃ。鎌倉幕府末期から南北朝争乱の頃に活躍した土岐頼貞の孫・頼重が明智(明地)を名乗ったのをはじまりとする。ただ『尊卑分脈』には土岐明智氏が光秀につながる記述はない。

土岐明智氏に光秀をつなげている系図としては、例えば『続群書類従』の「明智系図」があり、そこには「頼典」→「光国」→「光秀」という系譜が記されている。谷口研語によれば、この系図にある「頼典」「頼明」までは、上野沼田藩の「土岐文書」に記載があり、その実在は確かだという。

続群書類従 明智系図

続群書類従 明智系図(Wiki)

「土岐文書」によれば、明智頼典は父・頼尚から義絶され、家督は弟の頼明が嗣いでいる。その家系が沼田藩土岐氏として幕末まで続くのじゃが、明智頼典の系譜は断絶し、どうなったかわからない。

そうしたことから谷口氏は、頼典に光秀の家系をつなげたのではないかと推測し、光秀を土岐明智氏の系譜上に位置づけることを疑問視している(『俊英明智光秀―才気迸る霹靂の智将』歴史群像シリーズ戦国セレクション)。研究者には「頼明=光継」とする人もいるが、もちろんこれも根拠はない。

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光秀研究の嚆矢ともいえる高柳光寿氏は、そうしたことから、光秀を土岐氏の庶流として位置づけ、こう結論づけている(『明智光秀』人物叢書 新装版)。

結局光秀はその父の名さえはっきりしないのである。ということは光秀の家は土岐家の庶流ではあったろうが、光秀の生まれた当時は文献に出てくるほどの家ではなく、光秀が立身したことによって明智氏の名が広く世に知られるに至ったのであり、そのことは同時に光秀は秀吉ほど微賤ではなかったとしても、とにかく低い身分から身を起したということでもあったのである。

同じく明智光秀研究の泰斗・桑田忠親氏はさらに手厳しい(『明智光秀』 講談社文庫)。

『時はいま』の『時』を明智氏の本姓『土岐』に暗示させたと解釈するのも、後世の何びとかのこじつけではなかろうか、と推測する。しかし、このこじつけのために光秀が土岐家の支族明智氏の子孫だということが、評判になったのである。(中略)光国、光隆、あるいは光継にしてもこのような名前を持つ人物の実在性が確実な文献資料である古文書によって立証されるわけでもない。

また、渡邊大門氏も史料を精査し、光秀の出自を美濃の土豪クラスと推定している(明智光秀と本能寺の変 (ちくま新書))。

光秀が明智を姓とした理由は不詳である。実際は、中途で家系が途絶えた名門の土岐明智氏の出身であると、光秀が勝手に名乗った可能性が高い。光秀は、美濃に本拠を置いた土豪クラス程度の出自ではなかったか。    

他家の家系を勝手に借用する例は珍しくなく、黒田家などもそうらしい。やはり光秀が美濃の名門を勝手に自称しただけなんじゃろうか。

族姓も知らぬ者? 諸説ある光秀の出自

光秀の出自に関しては雑説も含めればさまざまなものがある。

たとえば『若州観跡録』では、光秀は若狭小浜の刀鍛冶藤原冬広の二男とされている。幼少のころから光秀は鍛冶職を嫌って兵法を好み、やがて近江の六角氏に仕え、その後、織田信長の家臣になったとしている。

国学者・天野信景の『塩尻』は、光秀ははじめ「御門重兵衛」と名乗って明智光安に仕えていたとする。光秀が使者として織田信長のもとに遣わされたとき、その才覚を信長に気に入られ、「明智」を名乗って仕えるようになったという。

光秀に滅ぼされた波多野一族の興亡をまとめた『籾井家日記』では、信長が明智十兵衛という族姓も知らぬ者を武辺者といってだんだん取り立て、惟任日向守の名を与えたとある。波多野は光秀に滅ぼされたから、意趣返しじゃろうか。

『校合雑記』では、光秀は細川藤孝の徒(かち)のものであったとする。細川家を出て織田家に仕えると信長に気に入られ、知行を与えられて疲れ馬一匹の主となり云々とある。

細川藤孝

光秀が細川藤孝に仕えたという記述は、フロイスの『日本史』、英俊の『多聞院日記』にもみられる。いずれも身分は中間、足軽とされているが、のちの光秀と藤孝の関係を考えると、これはしっくりくる。

『光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚』には、足軽衆として「明智」の名がある。これまでこの史料は足利義輝の奉公衆を記したものとされてきたが、近年の研究で後半部は足利義昭の奉公衆を記したものであることがわかった。それにより、この「明智」は時代的にも光秀であるという見方が強まっている。ここに光秀と藤孝のつながりが見えてくるように思う。

ちなみに、細川家の正史『緜考輯録』(『細川家記』)には、そうした記述がない。これは謀反人・明智光秀と細川家の関係を喧伝することをためらったからかもしれない。そもそも『緜考輯録』の成立は江戸時代中期であり、『明智軍記』を下敷きに光秀のことを書いている。細川家の正史といえども信用はできないじゃろう。

明智城と明智光秀

けっきょく出自がよくわからない光秀じゃが、戦国史研究の第一人者で、『麒麟がゆく』の歴史考証を担当する小和田哲男氏は、光秀の出自を土岐氏の流れと推測している(『明智光秀 つくられた「謀反人」』PHP新書)。というのも、地誌『美濃国諸旧記』に、土岐明智氏とは別系統の明智氏の存在が記されているというのじゃ。

明智城というは土岐美濃守光衡より五代の嫡流土岐民部大輔頼清の二男、土岐明智次郎長山頼兼、光永元壬午年三月、是を初めて開築し、居城として存在し、子孫代々光秀迄これに住せり。

そして『美濃国諸旧記』は、頼兼の子が明智小太郎を称し、のちに長山遠江守光明と号し、その6代後が光継、光継の子が光綱、その子を光秀としている。つまり、「頼」を通字とする土岐明智氏とは別に「光」を通字とする明智氏が、明智城を治めてきたということになる。『尊卑分脈』にも「明地光高」「明知光重」「明地光兼」という人物も出てくる。これは無視することはできないというわけじゃな。

このあたりは『明智軍記』の記述と符合する。高柳光寿は同書を「誤謬充満の悪書」と切り捨てたが、小和田氏は「『明智軍記』の作者が、現在私たちが知りえない何らかの情報を握っていた可能性は皆無とは言えず」、記載内容を吟味する必要があるが、全く史料的側面がないわけではないとしている。

「ときは今…」の連歌ではないが、やはり光秀は土岐氏の出で、それが本能寺の変の動機に絡んでいるのかもしれない。土岐氏を自称しただけで、実はどこの馬の骨かわからないというのはロマンがなさすぎるではないか。

わしは研究者ではなく単なる歴ヲタなので、光秀を土岐一族の系譜にあると信じることにしたい。

明智城跡

明智城跡 (岐阜県可児市)

ちなみにこ「明智城」とは光秀所縁の城ということで、大河ドラマを前に大いに注目を集めている。では、明智城はどこにあったのか。候補としては、恵那市明智町と可児市広見・瀬田があげられており、現在、どちらもPR合戦に余念がない。

ただ、恵那市明智町は遠山明智氏、つまり遠山の金さんにつながる家系で土岐氏とは関係ないとされる。このため、今のところ、多くの専門家が可児市広見・瀬田に軍配を上げている。じっさい、可児市広見・瀬田あたりには、光秀股肱の家臣にまつわる伝承も多く、光秀との関係の深さを感じさせるではないか。

『美濃誌』もまた、光秀を土岐氏の出自としている。光秀は美濃国武儀郡中洞(岐阜県山県市美山町)で、美濃守護・土岐基頼と豪族・中洞源左衛門の娘・袋多との間に出生したというのじゃ。

同書によれば、袋多は身ごもったときに「三日でも天下を取る男子を」と祈ったという。基頼は土岐氏11代・成頼の庶子じゃったが、嫡男の政房と家督争いとなり、破れて自刃。そこで祖父の源左衛門は光秀を明智光綱にめあわせ、その才能をかわれて養子に迎え入れられる。

さらにこの話は続きがある。本能寺の変の後、秀吉に敗れた光秀は故郷の中洞に落ち延びて雌伏したらしい。その後、関ケ原の合戦に参戦しようとするが、その途中、藪川で溺死したというオチまである。さすがにできすぎた伝承じゃが、少なくとも大河ドラマの「紀行」ネタとしてはうってつけの素材にはなるな。

まあ、明智城の存在が一次史料に出てこないことは痛恨じゃが、ここは前にも書いた通り、ロマンを取ることにしたい。

明智光秀=進士藤延?

もう一つ、面白い話がある。『大日本史料』に収められている「明智氏一族宮城家相伝系図」は、光秀を石津郡多羅尾城主(大垣市上石津郡多良地区)・進士信周と明智城主・明智光隆(=光綱)の妹の子としている。

光隆は元来病弱だったので、光秀を養子に迎えて家督を継がせる。ちなみに進士氏は室町幕府奉公衆に名前があり、足利義輝が殺された永禄の変では、進士晴舎とその子・藤延も義輝とともに討死している。

これに関連して、小林正信氏は「進士藤延=明智光秀」説を唱えている(『明智光秀の乱―天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊』)。生き伸びた藤延は義輝と誼を通じていた織田信長に仕えたとする。信長は美濃統治をスムーズに進めるために、藤延に途絶えていた「明智」姓を名乗らせたというのじゃ。

小林氏は、光秀の家臣・進士貞連は藤延の実弟で、足利義輝の側室・小侍従は妹としている。永禄の変の当時、小侍従は義輝の子を身ごもっており、生きのびた小侍従は光秀の妻・妻木煕子となる。つまり嫡子・光慶は、将軍義輝のご落胤ということになる。

本能寺の変のとき、光秀は細川藤孝・忠興は味方してくれると信じて疑わなかった。光秀=藤延であれば当然じゃろう。この戦いは、義輝の血筋に天下を引き渡すためのものなんじゃから。もちろん秀吉が天下をとった時点で、この「事実」は歴史の闇に葬られる。

ちょっと荒唐無稽じゃが、この話もまた面白く、じつにロマンがある。

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閑話休題

縷々書き散らしてきたが、わしは専門家ではないので、何が真実なのか、定見などない。歴ヲタとして妄想しているだけじゃが、そんな矢先に、光秀の子・於隺丸の子孫を自称する明智健三郎氏の『光秀からの遺言』(河出書房新社)を読んだ。

詳細はネタバレになるから避けるが、本書によれば、光秀は土岐明智氏で連歌会の超大物・明智玄宣の流れであり、土岐頼純に仕えて斎藤道三と戦ったという。氏の「歴史捜査」は、研究者からはケチョンケチョンに叩かれており、いろんな意見があるようじゃが、少なくとも光秀の出自に関する捜査は納得の内容だと思うので、一読をお奨めするぞ。

ということで、光秀の出自は結局よくわからないままじゃが、この件については、『麒麟がくる』が始まったら、またあらためて書こうと思う。