仙台戊辰戦史所縁の地を歩いてみたシリーズその3は龍雲院。博徒を率いて新政府軍に30連勝した、あの「からす組」こと衝撃隊隊長・細谷十太夫直英のお墓に手を合わせてきたぞ。境内の細谷地蔵はハゲハゲじゃったけどな……
細谷からすと十六ささげ、なけりゃ官軍高枕
細谷十太夫は仙台藩の50石どりの番士の家に生まれた。幼くして両親を亡くし祖父に育てられたという。元服すると京都藩邸詰めとなったが、芝居見物で乱闘騒ぎを起こし、仙台へ戻されてしまう。なんでも演目が伊達家のお家騒動を描いたもので、その内容に腹を立てたらしい。十太夫は郷土愛が強い人物だったんじゃな。
戊辰戦争が始まると探索方となり、藩の隠密として活躍する。じゃが、白河で仙台藩が大敗するのをみて、あまりのふがいなさを嘆いて、自ら戦場に身を投じることにしたという。
十太夫が須賀川の女郎屋の店先に「仙台藩細谷十太夫本陣」と張り出すと、侠客や博徒、雲助、猟師、馬方などが続々と集まってきたらしい。隠密時代のネットワークと十太夫の人望なせるわざじゃろう。かくして通称「鴉(からす)組」こと「衝撃隊」の誕生じゃ。
命知らずの無頼者集団はとにかく強かったらしい。黒装束を身にまとい、カラスの隊旗を掲げて、最新装備の新政府軍に長脇差一本で夜襲を仕掛けていく。ドンとなれば五里も逃げていく「ドン五里」と蔑まれた藩の正規兵とはえらい違いじゃ。
細谷からすと十六ささげ、なけりゃ官軍高枕
その戦績は30余戦負け知らず。神出鬼没の鴉組を、新政府軍は大いに恐れたという。ちなみに、「十六ささげ」とは棚倉藩の部隊で、それ地にいては下記を読んでもらえればありがたい。
なぜ、「からす」なのか
博物館に展示されている十太夫の陣羽織の背中には、ド派手な「ヤタガラス」が描かれている。それにしても、なぜ、からすなんじゃろうか。
十太夫は実際にからすを飼っていたらしい。からすが人に懐くとはとても思えんのじゃが、本人が言っているのじゃから間違いない。十太夫は、からすにも愛されるキャラだったんじゃろう。だから隊旗もからすだったんじゃろう。
ただ、それだけじゃろうか。「ヤタガラス」は神武天皇ゆかりの霊鳥。サッカー日本代表のエンブレムでもおなじみじゃない。やや想像を逞しくすれば、薩長も勤皇を掲げているが、仙台もまた勤皇ということを言いたかったのではないか。すなわち戊辰戦争は「政見の異動のみ」。もっと言えば博徒や雲助だって勤皇だ!そんな思いが込められているんじゃろう。
鴉組はその後、藩の正規兵とともに旗巻峠の戦いなどで奮戦する。じゃが、時代の流れに抗うことはできず仙台藩は降伏を決定する。このとき十太夫は、武装解除を拒む額兵隊の星恂太郎の説得にあたったり、石巻で一戦交えようと気炎を上げていた榎本艦隊を退去させるなど、藩の降伏を実のあるものにするため、かなりめんどうな役回りを果たしている。
人望、実績ともにある十太夫しかできない役回りじゃ。十太夫は戊辰戦争で奮戦したが、さりとてゴリゴリカチカチの主戦派ではなかったんじゃよ。
にもかかわらず、十太夫はその後、明治新政府と藩庁から戦犯として指名手配を受けてしまう。十太夫は預かった大金を隊士に分け与えて鴉組を解散し、すぐさま逃走する。このとき、多くの人が十太夫の潜伏を助けたという。十太夫も元隠密だけあって、逃走劇はお手の物。この男には切腹は似合わない。ひたすら逃げのびて、大赦令が発令されるとひょっこり仙台へ帰ってくるのじゃ。
かくして、ここから細谷の人生第二幕が上がるのじゃ。
戊辰後は開拓に尽力、西南戦争、日清戦争にも従軍
仙台に帰ってきた十太夫は、北海道開拓庁の吏員となり、日高国沙流郡に渡るが、西南戦争がはじまると、川治利路が指揮する別動第三旅団に陸軍少尉として参戦している。「戊辰の仇討ち」とばかりに、西南戦争には奥羽諸藩の藩士が多数参戦している。
仙台藩士も約700人が警視庁巡査兵として出征した。十太夫も水俣方面で奮戦して負傷しているが、このとき郷里に手紙を書き送っている。
(巡査は)何レモ長刀ヲ帯ヒ昔日ノ仙台兵トハ月鼈ノ違ニテ、勇気湧カ如ク相見得、此外仙台ヨリ徴募ノ巡査兵、即葦名・伊達・鈴木ノ引率スル所モ追々戦地ニ向ヒ候処、何レモ壮猛、毎戦勝利ヲ得、実ニ戊辰ノ汚名ヲ雪クニ足ル。方今死傷ノ多クアルハ若松人ト仙台人ナリ。
「ドン五里」と薩長軍にバカにされた戊辰戦争とは雲泥の差だったようじゃな。
傷も癒えて帰仙した十太夫は、宮城県属になって牡鹿郡の大街道開墾長をつとめている。そして再び北海道に渡り、幕別の開拓に従事した。じゃが、日清戦争が始まると中国に渡り、軍夫千人隊長として物資輸送などを統括する。帰国後は石巻に住み、明治三陸大津波では、かつての仲間を率いて被災地の復旧に汗を流した。
弓矢とるむかしの身にはひきかえて、牡鹿の原を引き去りにける
石巻を去る時に十太夫が詠んだ歌じゃが、八面六臂の大活躍も、そろそろおしまい、という感じじゃろうか。
明治30年、十太夫は榴ヶ丘天満宮に額兵隊・見国隊戦死弔魂碑を建立している。そして戊辰戦争、日清戦争の戦没者を弔うために出家し、龍雲院の住職になる。龍雲院は林子平が葬られた寺じゃが、明治になって廃寺になっていたものを十太夫が引き継いだのじゃ。
明治40年、細谷十太夫没。63歳とも68歳とも言われる。法名は「龍雲院八世鴉仙直英和尚」。最後まで、からすにこだわったんじゃな。
ということで、龍雲院を訪ねてきた
龍雲院は仙台市青葉区子平町にある曹洞宗の寺院じゃ。「子平町」の町名は仙台藩士・林子平の名に由来する。林子平は高山彦九郎・蒲生君平とともに「寛政の三奇人」と言われた人物。もっとも「奇人」とは、必ずしも変なやつという意味ではなく、「優れた人物」という褒め言葉じゃ。
ちなみに「りんごの歌」の作曲家・万城目正の菩提所も、ここ龍雲院じゃ。
子平は黒船来航以前から海防の必要性を説いた先覚者で、その著書『海国兵談』はつとに知られておる。じゃが、当時は下々の者が幕政を語るのはご法度。著書は発禁処分、版木は没収され、子平は蟄居となる。
親も無し妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し
子平はこんな戯れ歌を残して寛政5年に没。享年56。十太夫が子平に私淑した理由がわかる気がするぞ。
龍雲院の境内には十太夫の顕彰碑や細谷地蔵があった。
この石碑は、戊辰戦争から60年の昭和3年に建てられたもの。その内容は十太夫の生涯を記したもののようじゃが……すまぬ、根気がなくて読めなかった。
ともかく波乱万丈、八面六臂の大活躍をした十太夫は、もう少し知名度があれば、確実に大河ドラマになるレベルじゃ。いや、すでに大佛次郎や子母澤寛、早乙女貢といったメジャーな作家たちが小説にしているから、いずれはそうなるかもしれない。
戊辰戦争というと、全体的に陰鬱で悲しい印象がある。じゃが、十太夫に関してはそれが全くない。むしろカラカラとして快活で陽気な印象じゃ。大鳥圭介もそんな感じがあるが、向こうは負けっぱなし、十太夫は30連勝じゃから華も実もある。
京都時代に仙台をバカにされて乱闘騒ぎを起こしたり、戊辰戦争、西南戦争でも戦場で大活躍したくらいじゃから、郷土愛も強く、「薩長何するものぞ!」と意気旺盛な人物だったことは確かじゃろう。じゃが、そこに頑固さや偏狭さが微塵もない。
信念やプライドはあれどつねに柔軟。これが十太夫の魅力じゃろう。
十太夫の墓の横にある白木には、「負け知らずで有名な伊達藩隠密鴉組の大将 細谷十太夫の墓」と書いてあった。境内の案内板によれば、30戦無敗の負け知らずの十太夫の墓には受験生や選挙の立候補者の参拝が絶えないという。
わしもそっと手を合わせ、十太夫にあやかりたいものじゃ。