おもむろに相馬中村城跡訪問記。こちらは相馬中村藩6万石の居城で、別名は「馬陵城」。現在は馬陵公園として、市民の憩いの場になっておる。
まずは相馬中村城の歴史をざっくり
中村城のはじまりは延暦年間(800年頃)、坂上田村麻呂が最初に築いたという伝承があるが、もちろんこれは定かではない。 南北朝時代には、足利方の中村朝高がこの地に「中村館」を構え、戦国時代には相馬氏が進出し、北の伊達氏への備えとしたらしい。
摺上原で戦いに伊達政宗に敗れた蘆名氏が没落すると、南奥の諸大名はつぎつぎと伊達の軍門に降った。じゃが、相馬盛胤・義胤は中村を拠点に徹底抗戦を続ける。そのため、伊達の大軍の前に存亡の危機を迎えたのじゃが、ちょうど折よく豊臣秀吉の「奥州仕置」があり、どうにか生き延びることに成功したのじゃ。
もともと相馬氏の本城はここより南方の小高城じゃった。じゃが、相馬氏は関ヶ原の戦いで盟友・佐竹氏と通じ、その日和見的な態度が仇となり改易の憂き目にあってしまう。じゃが、家督を継いだ相馬利胤による懸命な御家再興運動が功を奏し、どうにか復活。利胤は、これを機に本城を中村城に移転し、近世城郭への改修を始めたのじゃ。
かつては中村城にも天守があったらしいが、落雷により焼失。以後、領民に負担を強いるのは本意ではないと、再建はなされなかったという。江戸時代、天明・天保の飢饉によって相馬中村藩は困窮を極めるが、藩主の相馬充胤は幕府の許可を得て二宮尊徳の提唱した報徳仕法を導入、藩の財政を再建する。このあたり、相馬の善政を偲ぶことができよう。なお、そうしたこともあって、中村城跡には二宮尊徳像が設置されておるぞ。
戊辰戦争と相馬中村藩
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、相馬中村藩は当初・奥羽越列藩同盟に参加している。鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れた2月、すでに相馬中村藩は家老・佐藤勘兵衛を上洛させ、朝廷に恭順の意を示した。4月には奥羽鎮撫総督府より会津征討を命じられ受諾している。
じゃが、仙台藩、米沢藩の主導により奥羽列藩が白石に会同すると中村藩もこれに出席し、同盟に加わった。藩主の相馬誠胤はこのときまだ若年で、藩政は門閥の保守派に委ねられており、必ずしも明確な藩論があったわけではなく、ただ大藩の仙台に従ったというのが実際じゃ。もっとも、薩長の連中が勝手に幼帝をかついで新政府をつくり、官軍面して乗り込んできても、「はいそうですか」と従う気になれないのは、ごく自然なことではあるがな。
やがて奥羽列藩同盟と新政府軍の間に先端が開かれると、中村藩は仙台藩や米沢藩、幕府陸軍隊とともに浜街道を北上してくる新政府軍に応戦する。じゃが、磐城平城が陥落すると、広野、波江での戦いにも敗れ、いよいよ敵は城下に迫ってきた。
浪江での敗戦を受けて、仙台藩兵は仙台藩境の駒ヶ嶺に引き上げてしまう。米沢藩兵も自領へと帰り、幕府陸軍隊も仙台へと退却をはじめてしまう。さらに三春藩、守山藩が新政府軍に寝返り、二本松が落城し、中村藩はいよいよ苦境に立たされてしまったのじゃ。
仙台藩は、事ここに至っては仙台に逃れ、再挙を図るよう、中村藩へ促してくる。じゃが、中村藩は「城を守って討ち死にするのは武門の本懐」と脱出を拒否しつつ、密かに新政府軍に降伏の使者を送る。かくして相馬中村藩は1万両の賠償金を支払って一転して官軍となったんじゃよ。
その後、中村藩は仙台攻めの饗導役をつとめ、藩境の駒ヶ嶺、旗巻峠に出兵する。仙台藩は切歯扼腕したが、どうにもならない。また、中村藩としても、ちょっと前まで友軍だった仙台藩と戦闘うことは忍びない。そこで密かに仙台藩へ恭順降伏を打診し、以後、新政府との橋渡し役をつとめることになる。
戊辰戦争で中村藩は、同盟軍として88名、新政府軍として59名の戦死者を出している。後に会津の人は、「厳密に武士道の見地より論ずれば赦し難き感あるも、人情より論ずれば深く咎む可からざるに似たり」(「会津戊辰戦史」)と、小藩生き残りのためのギリギリの選択に一定の理解を示している。
ちなみに、戊辰戦争の殉難者を慰霊する碑は小高城跡に建立されていた。明治になって建てられたもののようで、慰霊されているのは、長州、芸州、肥後、筑前、筑後、伊州、館林、大洲……要するに官軍兵である。相馬中村藩は官軍だというわけじゃ。
その後、中村藩は廃藩置県により中村県となる。1872年には平県(旧磐城平藩)と合併され、磐前県となり、その磐前県も1876年の福島県成立によって消滅する。
相馬中村神社と相馬神社
相馬中村城は平山城で、現在は「馬陵公園」として、大手門、石垣、土塁、堀が残っている。
もともと、北の伊達氏を仮想的として築城されていることから、いざというときには堀を切って城の北側をの沼地にして敵を防ぐ算段だったという。反面、南の防御は薄く、もし戊辰戦争で新政府軍を相手に籠城したとしても、あっという間に陥落させられたことじゃろう。
とりあえず、こちら、Google earthのキャプチャを貼っておく。たしかに、南(写真上の方)の防御は手薄に見えるな。
中村城跡の南西側に相馬中村神社がある。有名な相馬野馬追の出陣式もここで行われるらしい。
社伝によれば、承平年間に相馬家の祖とされる平将門が下総の国浦島郡に妙見社を創建したことを由緒とする。相馬重胤が奥州へ移り住んだときに、氏神妙見尊を奉じて宮祠を創建。その後、正慶元年、小高城が築城された際にも妙見社が建立されている。現在の小高神社じゃな。そして慶長16年、相馬利胤が中村城を本拠と定めると妙見社も城内にうつされ、現在に至るというわけじゃ。
地元では「相馬のミョウケンサマ」として親しまれてきたが、妙見とは北辰妙見菩薩のこと。北辰とは北極星のことで、北方鎮護をつかぎどる星の信仰がもとになって生まれた菩薩様というわけじゃな。ちなみに、千葉氏や九戸氏も妙見菩薩を一族の守り神としているぞ。
中村城はほとんどが土塁で固められていたが、本丸には石垣も現存しておる。赤橋を渡って本丸に入っていくと、そこにあるのが相馬神社じゃ。
相馬神社は明治維新後、中村城が廃城となり、明治12年に創建された。 祭神は相馬家の始祖師常。相馬師常は、千葉常胤の7人の子どもの中でも、とくに源頼朝公の信望が厚かったと聞いておるぞ。
で、以下、余計なことながら……
相馬市、南相馬市といえば、東日本大震災と福島原発事故、さらには今回の台風19号と、大きな被害に見舞われている。わしのようなよそ者には、地元のかたの辛苦を想像することはできそうにない。じゃが、この地に根付く「相馬魂」の一端は、歴ヲタとしてしっかりと感じ取ってきた。
相馬家は平将門以来、鎌倉以来の名族じゃ。南北朝時代は北畠顕家と戦い、戦国時代には伊達と戦い、この地を守り抜いてきた。
ぜひ、勇壮な相馬野馬追も、一度は観てみたいものじゃ。