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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

覚海尼円成~鎌倉滅亡後、北条高時の母が余生を過ごした伊豆・円成寺跡

円成寺は、わし高時の母・覚海尼が、北条氏滅亡後、一族の菩提を弔って余生をすごした尼寺。伊豆の国市教育委員会が発掘調査をしてきたが現在は埋め戻され、立ち入り禁止になっている。もともと北条氏の居館があった場所で、狩川沿いの守山登山道入口の近くには、案内板が設置されている。

北条高時の母、覚海尼円成

母上こと覚海尼円成(かくかいえんじょう)は、安達氏の一族で安達(大室)泰宗の娘。安達氏は一族の多くが霜月騒動平頼綱によって滅ぼされたが、頼綱が失脚後に幕府復帰が認められると、庶流であった安達泰宗女の母上が貞時公に嫁ぎ、わし高時と弟の泰家を産んだ。鎌倉の山内に住んでいた事から山内禅尼とも呼ばれた。

禅に深く帰依し、夢窓疎石を鎌倉に呼び寄せて参禅し、貞時公の十三回忌供養では建長寺に華厳塔を建立したり、東慶寺に梵鐘を寄進している。仏画にいそしみ、仏にすがったわしは、母上の影響をうけているのじゃよ。

父・貞時公の没後、わしは9歳で得宗家督を継ぎ、14歳で執権となるが、父上の遺言により、わしの後見は内管領長崎円喜と安達時顕に託される。以後、幕政の実権は2人が握り、わしはすっかり傀儡になってしまったが、まだまだ若く、しかも蒲柳の質であったがゆえ、これは致し方がないところじゃろう。

ただ、御内人の長崎と御家人の安達は、時に利害関係で対立することもあった。その顕著な例が嘉暦の騒動である。

嘉暦の騒動で女傑ぶりを発揮

もともと病気がちであったわしは、若くして出家を余儀なくされた。そこでつぎの執権と得宗家督相続をめぐって、ちょっとした騒動が起きてしまう。それが嘉暦の騒動じゃ。

この事件についての詳細は省くが、要は長崎ら御内人と安達一族の権力闘争である。長崎たちは、同じ御内人の五大院宗繁妹とわしの間に生まれた長男・万寿の得宗後継を前提に金沢貞顕を中継ぎ執権に推し、安達や母上はそれを阻止すべく、わしの弟の泰家を推した。しかし、そこは長崎円喜のが上手である。さっさと貞顕の執権就任を決めてしまうのである。

これには母上が大激怒。『保暦間記』にはこうある。

嘉暦元年三月十三日高時依所労出家ス。法名宗鑑。舎弟左近大夫将監泰家。宜執権ヲモ相継グベカリケルヲ。高資修理権大夫貞顕ヲ執権トス。貞顕ハ義時子ニ五郎実泰ガ彦。越後守実時ガ孫。金沢越後守顕時子ナリ。爰ニ泰家高時母儀 貞時朝臣後家。城大室太郎左衛門女。是ヲ憤リ。泰家ヲ同十六日出家セサス。無甲斐事也。其後関東ノ侍。老タルハ不及申。十六七ノ若者ドモマデ皆出家入道ス。イマイマシク不思議ノ瑞相也。此事泰家モサスガ無念ニ思ヒ母儀モ憤リ深キニ依テ。貞顕被誅ナント聞エケル程ニ。貞顕評定ノ出仕一両度シテ出家畢。同四月廿四日相模守守時。武蔵守久時男。于時武蔵守。修理大夫維貞彼両人ヲモ将軍ノ執権ス。是モ高資ガ僻事シタリトゾ申ケル。

鎌倉には、怒り心頭の母上が貞顕を誅殺しようとしているとの風聞がたった。かくして、これに恐れをなした貞顕は、あっさり執権の職を辞してしったというのじゃ。

なかなかの女傑ぶり、女丈夫ぶりは、尼将軍・北条政子殿クラスかもしれぬな。

高時は覚海尼の期待に押しつぶされた?

ところで、覚海尼と高時といえば、大河ドラマのあのシーンを思い出す人も多いじゃろう。片岡鶴太郎さん演じる高時が、新田義貞が鎌倉に攻めてきたという報せを聞き、鼓を打ちながら、覚海尼にこうつげる場面。
わが父貞時は、公平な政で名執権とうたわれたお方という。
その父上に母上はこう仰せられた。なにごとも公平と申されるからには、嫡子と生まれしこの高時をかならず跡目におつけくだされ。
頭(つむり)がいささか弱いからとて、無きもののように投げ出されますな。
それでこの高時は、執権になり、くたくたになり、生涯、名執権の父上に頭があがらず、母上に頭があがらず。
はてさて、公平とは疲れるものよ。

母の愛と期待の大きさに「亡気」な高時くんはおしつぶされてしまったのじゃよ。

覚海尼と北条高時(大河ドラマ太平記)

大河ドラマ太平記」より、覚海尼と北条高時

鎌倉幕府滅亡後の覚海尼

そして運命の5月22日。わしら一族が自刃し、鎌倉が火の海になる様子を、母上は山内から、どんな気持ちでみつめていたのじゃろうか。その後、伊豆で暮らした母上の歌が夢窓疎石の歌集『正覚国師集』に残されている。

相州高時禅門の母儀、伊豆の北条にすみける時、よみてたてまつられける。
あらましにまつらん山ぢたえねただそむかずとても夢の世の中

此歌は、世をそむく我があらましの行末にいかなる山のかねてまつらん、とよみ給ひたりしを思ひ出でられたるにや

御返し
夢の世と思ふうき世をなほすてて山にもあらぬ山にかくれよ

「世を捨てて険しい道を進むわが行く末には、いったいどんな山が待っているのでしょうか」
「険しい山道ですら、すでに途絶えております。自ら世を捨てることなどせずとも、もはやこの世のことは夢の中のようです」
「そうですか。では、夢のようだと思う浮き世を捨てて、どうぞ、山にもあらぬ山の中へとお隠れください」

もはや、建武政権の瓦解も、南北朝の争乱も、室町幕府の成立も、世事のことはどうでもよく、ひたすらに北条一族の冥福を祈る母上の姿が目に浮かんでくる。いや、孫の時行のことは気にかけていたかもしれん。

覚海尼は、この地で、北条一族の女性たちと、身寄りのない女児や生活に困った未亡人たちを救済しながら静かに暮らし、興国6年/康永4年(1345)8月12日に没。

伊豆・円成寺跡

伊豆・円成寺