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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

「宿命の子」~大河ドラマ「太平記」第9回の感想、足利家時の「置文」のことなど

今回のタイトルは「宿命の子」。源氏棟梁・足利家の「宿命」を背負った貞氏、高氏、さらには赤子で出てきた義詮、直冬をも含めてのものじゃろう。宿命か。それは足利だけが背負うものではない。わしにもまた北条得宗家という宿命がある。そもそも人間には業がある。冬の梢のように、一葉も残らず、枯れつくし、死に尽くさねば、この業は熄まないかもしれぬ。

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足利家時の置文と貞氏パパの遺言

簾の向こうで腹を切る足利家時。それを見つめる少年の貞氏に執事の高師氏は言う。

「お父上は北条のためにかかる最期をお遂げになりまする…しかとごろうじませ!」

夢か……貞氏は目覚める。 貞氏はもはや余命幾ばくもない。この男もまた、業を背負ってこの時代を生き、去っていくというわけじゃ。

そこへ執権北条高時による長崎円喜暗殺未遂で大騒動となった幕府柳営から、高氏と登子が帰ってくる。せっかくの婚礼お披露目という祝事を陰謀の場として利用された上、ましらの石に逆恨みで襲撃され、新妻におのれの艶話をばらされた高氏にとっては、散々な夜になってしまったが、さらに父・貞氏から重い話を聞かされることになる。

「近ごろ、わが父の夢をよく見る」貞氏は高氏に、足利家時の置文について語りはじめる。父から子への遺言、緒方拳さん、迫真の演技じゃ。

「足利家は源氏の嫡流。北条に咎あればこれを討ち、天下を取って民の苦しみを和らげるが務めなり。ゆえに武家の棟梁と申す。しかるに不詳家時、徳なく才乏しく、北条の責めを受け、わずかに家名を守るため死にゆくのみ。この無念がわかるか。わかるなら、父にかわって天下を取れ。そのほうにできぬなら、その子に取らせよ」

「四十年、これとの戦いであった。何度も思うた。何故、何故、源氏の嫡流として生まれたのか。そこから引き下がることはできぬ。わしもそなたも。しかるに貞氏、徳なく才乏しくわずかに家名を保ってこの病だ」

「高氏、父のように迷うな。神仏の許しがあれば天下をとれ。そしてそれが道と思ったら弓をれ」  

貞氏よ、立場は違うが、その気持ちはよくわかるぞ。わしも時々思ったものじゃ。徳なく才乏しく、なぜ北条得宗の家に生まれてきたのか。家を背負う重さと気鬱、よくわかるぞ。

貞氏は執事の高師重を呼び、高氏に家督を譲ることを告げ、家時の「置文」を高氏に披露するよう命じる。じゃが、高氏は、今は読むときではないと文箱を開けなかった。

というわけで、足利が北条を裏切る大義を訴える名シーンなのじゃが、水をさすようで悪いが、この「置文」の話、ほんとうにあったのか、どうもあやしい。「置文」の存在は、今川了俊の「難太平記」に出てくる。その内容は、八幡太郎源義家公が七代生まれ変わって天下を取ると遺言していたが、七代孫の家時はそれを果たせず、自分の命の代わりに以後三代のうちに天下をとらせよと願い、置文を残して腹を切ったというものじゃ。

足利家時が腹を切ったというのは事実。ただ、その原因は、霜月騒動に関連して詰め腹を切らされたとか、北条時宗公に殉死したとか、メンタルを病んだとか、いろいろな説があるが、はっきりとわかっていない。

じゃが、この置文の逸話はできすぎじゃ。そもそも八幡太郎義家公の願いは、すでに頼朝公が叶えておるし、つっこみどころは満載じゃ。まあ、このことについては前にも書いたので割愛するが(「足利家時の置文……足利高氏が鎌倉幕府を裏切った理由とは?」) 、おそらく足利幕府の正当性を流布するため、後世に創作、または脚色されたものと考えたほうがよいじゃろう。

覚海尼 VS. 御内人鎌倉の内紛と帝の御謀反 

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さて、足利もたいへんじゃが、幕府はもっとたいへんじゃった。よりによって得宗のわしが御内人長崎円喜を暗殺しようとしたんじゃからな。長崎父子は高時から執権職を奪い、新たに金沢貞顕を就任させる。北条の被官であるはずの長崎の権力はいよいよ大きくなり、今じゃ得宗も執権も思いのままに操り始めた。この始末に母御前の覚海尼は怒りは収まらない。

覚海尼「闇討ちを仕掛けるも下、討ち漏らすは下の下じゃ」
高時「母上、城介(安達)を叱りたもうな。高時が父上ほどの名執権でないゆえ、城介も長崎を除こうとしたのじゃ」
覚海尼「何をいう。そなたは得宗ぞ。金沢などを執権にしてなるものか、またなったところで、まつりごとはやらせぬ。この鎌倉は得宗がすべて取り仕切ってみせる」

母御前の剣幕は凄まじい。けっきょく貞顕は恐れいってしまい、1カ月で執権を辞任してしまう。後を受けた赤橋守時鎌倉幕府最後の執権になるのじゃ。  

このあと、ましらの石が伊賀国で服部小六という悪党に仕えたり、一色右馬介が柳齊さんという具足師に変装して藤夜叉を尋ねたり、もう一人の宿命の子・足利直冬が出てきたりする。もっとも此はわしとは関係ないので割愛するが、ともかく時代はいよいよ鎌倉幕府の最期へと突き進んでいく。

すでに後醍醐天皇は討幕の決意を固め、日野俊基も暗躍している。大塔宮護良親王天台座主として比叡山の荒法師を相手に武芸を磨いている。比叡山だけでなく、醍醐寺でも文観が幕府調伏の祈祷を行っていた。

じゃが、これを危ぶんだのが後醍醐帝の重鎮・吉田定房卿じゃ。吉田定房卿は北畠親房万里小路宣房と合わせて「後の三房」と呼ばれたほどの人物で穏健な常識人だったようじゃ。「吉田定房奏状」とよばれる意見書を奉呈するなど、後醍醐帝をしばしばお諫めしておるしな(「後醍醐天皇の忠臣・吉田定房…王者は仁を以て暴に勝つ事」)。今回も、帝のこと、大覚寺統のこと、朝廷のことを守るため、止むを得ず密告という手段に出たのじゃろう。

長崎高資は鎌倉からも兵を送り、首謀者を一網打尽にし、後醍醐天皇島流しにせよと強硬に主張する。穏健派の執権・赤橋守時は、長崎が評定衆を屋敷に呼んで、事前に執権抜きで物事を決めていることを非難する。じゃが、円喜はそんなことでは動じない。

「では執権殿、御辺も我が館へ参られればよい」

執権も軽くみられたものじゃ。守時は高氏に愚痴る。確かに長崎は不遜じゃ。じゃが、此度の措置そのものは至極的確じゃと思うが、いかがじゃろうか。当今の御謀反はこれで2度目じゃし、譲位を促すのも兵を送るのも当然じゃとわしは思うけどな。