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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

帝の挙兵〜大河ドラマ「太平記」第10回の感想など

いよいよ後醍醐帝が京を逃れて笠置に挙兵する放送回じゃ。それにしても、今回のオープニング、幕府と御家人の主従関係が元寇により崩れてきたことなどを説明して、それはそれでわかりやすく正しいのじゃが、絵づくりがことさらにわしを暗愚に印象づけ、まるで鎌倉幕府が潰れたのは高時のせいと言いたげに感じたんじゃが……被害妄想か?

北条高時

佐々木道誉長崎円喜に土下座

元徳3年5月、鎌倉幕府は陰謀の首謀者として日野俊基、文観、円観らを捕縛した。幕府の追及は当然のことながら帝にも及ぶ。この帝の下では、世は平らかにならんじゃろうし、これはいたしかたなしじゃろう。

そんな最中、鎌倉でも騒動が起きた。鎌倉では覚海尼・得宗高時派と長崎ら御内人の内部抗争が続いていた。長崎父子は反長崎派の一掃を目論んで粛清に動き出したのじゃ。すでに秋田城介も襲撃され、危ういところで難を逃れたという。そして、その矛先は高時お気に入りの御相伴衆佐々木道誉にも向けられたというわけじゃ。

夜半、曲者に襲撃されたとして、道誉が足利邸へと逃げてくる。道誉は、これは長崎父子の手によるものと断じる。そして、高時と覚海尼は長崎父子と対立しているように見えるがそれは表向きのこと、じつはすでに手打ちを済ませ、京での騒動に乗じて反長崎派の一掃を図っていると言うのじゃ。

「とんだ読み違いをしたわ。かように長崎殿が強いとはな」

道誉は、すぐに長崎邸に命乞いをしにいくので高氏に護衛をに頼む。「はなはだ迷惑」と執事の高師直はこれを断るが、人がよい高氏は同行を約束する。

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長崎邸に着くやいなや土下座して陳弁に努める道誉。高資の足にすがりつく様をみて、円喜はいかにも満足そうじゃ。

「佐々木判官高氏でござりまする。内管領長崎殿にお願いの儀あって罷り入りましてござりまする。それがしは長崎殿のご意向行き渡るこの府下において、多くを望む者ではございませぬ。長崎殿の広大なお慈悲をもって生き長らえればそれに過ぎたるはなく、ただそれのみを乞い願う者にござりまする。何卒、御慈悲を、御慈悲を……」

かくして道誉も長崎に下った。その様をみて、高氏は何を思ったじゃろうか。

かつて高氏が日野俊基と京で交わり、謀反の嫌疑を受けて牢にぶち込まれたとき、父・貞氏は円喜に慈悲を乞わなかった。貞氏と道誉、その身のふりはじつに対照的で、なかなか面白いシーンじゃったぞ。

日野俊基斬首

かくして鎌倉は長崎父子に完全に牛耳られた。館へ戻った高氏は貞氏に事の顛末を報告し、後醍醐帝が島流しになること、明日にも日野俊基が斬られることへの無念を嘆く。

「なにゆえ無念と思うか」
「都で拝した帝も日野殿も、見事に美しゅうございました。それを…」
「美しいものでは長崎殿は倒せぬ。美しいだけではの…」

このあたり、高氏はまだあまちゃんである。おまけに、処刑される日野俊基に会いたいなどと言いだし、執事の高師直にたしなめられる一幕も。

「日野殿と申しましても所詮はお公家。雲の上のお方に殿のお気持ちがわかりましょうや。武家武家、公家は公家」

さすがに師直はわかっておる。王家の犬として蔑まれ、いいように利用されてきた武家の権利を守ってくれたのは源頼朝公であり、北条の都・鎌倉である。高氏は帝や公家、都というワードに弱すぎるのじゃ。都はけっして美しくなどない。そのことを高氏は思い知ることになるのじゃが、それはまだ少し後のことじゃ。

それにしても高師直、そちも長崎父子と同じ臭いがするのう。執事とか家宰というのは、ともすれば増長し、主家を蔑ろにするきらいがあるが、師直もすでにその片鱗を伺わせておる。じつに薄気味悪いのう。

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翌日、日野俊基は鎌倉に入ることもなく、葛原ヶ岡で斬首されている。俊基の辞世はこちら。

秋を待たで葛原岡に消ゆる身の露のうらみや世に残るらん

古来一句 無死無生 千里雲尽 長江水清
(古来に一句あり。死も無く生も無く、萬里の空の雲が尽きるところ、長江は水清し)

秋(後醍醐帝による新しい世)を待つことなく葛原岡に消える身ではあるが、世に露ほども恨みなど残すだろうか。なすべきことをなした上は、雲のない万里の空、長江の清らかな水の如く、一点の悔いもない。

わしはもちろん日野俊基を肯定する気はない。じゃが、兵を持たぬ公家でありながら、揺らいでいるとはいえ武家の府を転覆させようとした度胸は大したものではある。そこだけは認めよう。

ちなみに明治20年(1887)、明治政府は日野俊基を祀って葛原岡神社を創建。今は開運、縁結びの神様となっておるぞ。

後醍醐天皇が京を脱出

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元弘元年8月、六波羅に兵が集まっているのを知った公家たちは大騒ぎ。そこへ、比叡山大塔宮護良親王から後醍醐帝に密書が届く。比叡山に立てこもって鎌倉と一戦交えようというのじゃ。

「噪ぐまい。むしろこれは朕の本意ぞ。かかることでもなければ思い立てぬ。動座じゃ」

後醍醐帝は千種忠顕に京を脱出する準備を命じ、 夜陰に紛れて女房車に身を隠し、内裏を脱け出す。じゃが、めざす比叡山への道中はすでに六波羅軍に押さえられており、やむなく奈良へ逃れる。じゃが、頼みにしていた東大寺が北条につく気配を知り、笠置山に向かう。

うかりける 身を秋風にさそわれて 思わぬ山の紅葉をぞ見る

笠置山に入るときに詠まれた後醍醐帝の御製じゃ。

なお、ドラマでは描かれていないが、このあと、六波羅軍は鎌倉からの応援部隊を待たず、大塔宮(護良親王)と宗良親王がいる比叡山へ兵を差し向けている。帝は大塔宮を頼って、てっきり比叡山に動座したものと考えていたからじゃ。大将は佐々木道誉の一族で近江源氏の六角判官時信以下、兵およそ二千。よもや比叡山のクソ坊主に負けるはずはないとタカを括っていたが、これまた帝をお迎えしたと信じ込まされていた比叡山の僧兵たちの士気が高く、この戦は思わぬ苦戦を強いられている。

じゃが、玉座にいたのは、じつは帝の替玉を演じた花山院大納言師賢じゃった。それがひょんなことからバレて、僧兵たちは蜂の巣を突いたような大騒ぎとなる。「両宮に騙された!」「座主を尋問せよ!」憤懣やる方ない山法師たちは戦意を失い、さっさと六波羅に降る者も出てきた。かくして両宮は比叡山を離れ、笠置へ向かうこととなるのじゃ。

それにしても、六波羅の動きは鈍かった。帝の脱出に気づかず、二条富小路の里内裏に踏み込んだときにはもぬけのから。すでに帝の一行は宇治のあたりへと落ちのびていた。しかも、比叡山に全神経を注いでおり、奈良街道は全くのノーケア。もし、このとき機転がきく者が一人でもおれば帝を拘束し、兵乱の芽を積むことができたかもしれぬ。かえずがえすも残念でならぬわ。

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「帝挙兵」の知らせは河内の楠木館にももたらされる。決起にはやる脳筋楠木正季は即時挙兵を求めが、正成は動かない。

「多聞丸の手習いも見てやらねばならん。水利権をめぐる裁きもせねばならん。干し柿の吟味もせねばならん。わしは忙しい。戦などしているヒマはどこにもない」

当然じゃ。まだまだ幕府は健在じゃし、この戦は明らかに分が悪い。それに、たしかに楠木が立てば畿内の悪党も立ち上がるかもしれん。じゃが、それがなんになるというのじゃ。いたずらに内乱を起こして、民を苦しめるだけではないのか。正成はわかっておるのじゃよ。

なお、この回で足利貞氏が没している。元弘元年(1331)9月5日、59歳の生涯じゃった。