北条高時.com

うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

笠置落城〜大河ドラマ「太平記」第12回の感想など

今回の放送回は笠置での戦が中心なので、高時の出番はなし。ちょっとつまらんが、それでも備忘録がわりに内容、感想をメモしておくぞ。

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「帝の兵に矢を1本もうたぬ」…足利高氏、笠置へ出陣

貞氏の喪に服する間もなく足利高氏は笠置へと出陣した。もちろん戦意、やる気はまったくなし。橋本宿では遊女を呼んで飲めや歌えやの大騒ぎ。みかねた直義が大激怒して食ってかかるシーンがあったが、やりきれない思いはみなも同じだと高氏は怒り出す。

「父上が亡くなられて半月。向かう相手は帝。みな歌でも歌わねばやりきれまい。やりきれないのはそなただけではない。それがわからぬのか!」

「直義、こたびの戦でわしは太刀は抜かぬつもりじゃ。足利党は殿を守り、矢は一本も打たぬ。帝の兵が来れば逃げる。ひたすら逃げる。それゆえ、笠置へはゆっくり参る」

「とは申せ、日野俊基殿を見殺しにしたように、帝の兵を救うことはできぬ。しょせん見殺しじゃ」  

矢は一本も打たないって、足利殿、かようなことが許されるのか? 高資、やはりこれは後日、鎌倉でしっかりと詮議せねばならぬぞ。

直義が高氏に真意を打ち明けていた矢先、一色右馬介が到着する。右馬介は幼き頃、貞氏に命を助けられた恩を思い出し悔みの言葉を述べて涙を流すが、気を取り直して畿内の状況分析を高氏に伝える。

河内の楠木正成に挙兵の気配あり。さすればに伊賀の服部、伊勢の関、大和あたりの豪族や播磨備後の反北条勢が呼応し、鎌倉軍の苦戦は必至となる。この戦は長引く、足利党も否応なくまきこまれ、「帝の兵に矢は1本も打たぬ」というわけにはいかなくなると忠告する。

「しかし、みなが束になってかかっても北条殿の屋体は揺らぐまい。何もかも早すぎる…早すぎるぞ…」

やはり高氏は裏切りの決意を密かに固めておるようじゃ。これは油断ならぬ。

「勝たぬまでも負けぬ戦はござります」…楠木正成が献策 

笠置山には、宮方の兵が集まって気焔をあげていた。そこには服部小六に従って参加した ましらの石の姿もある。そして河内から楠木正成が着到する。正成は宮方の武士たちと挨拶を交わす。

足助次郎、桜山慈俊、赤松則祐、小寺頼季と……小寺? 小寺とな?

小寺といえば播磨の豪族・赤松氏一門宇野氏の庶流で、戦国時代まで御着城を本拠として勢力を伸ばした一族で頼季はその初代じゃが、どういうわけか、わし、他人とは思えないんじゃよ。気のせいじゃろうか?

小寺政治

それはともかく後醍醐帝と対面する正成。「頼みに思うぞ」と、後醍醐帝は花山院師賢の取り次ぎを無視して直々に声をかける。続いて護良親王が関東を破る手だてを正成に問う。

正成は、関東は兵法に抜きんでた数多の御家人をかかえており、兵の数も比べものにならず、関東を破る手だてはないと言う。じゃが、柿の実も熟れれば地に落ちるように、関東に火の手が上がり、自ら崩れ去るのを待つべく負けぬ戦をすべきが肝要と献策する。正成、なんでもかんでも柿の話にしてしまえんじゃな。

「勝たぬまでも負けぬ戦はござります。敵を撹乱し、この山に集中させぬことにございます。備後の桜山殿は備後に帰って兵をあげ、赤松殿は播磨にて兵をあげる。この兵衛は河内に城を築き、敵の背後を突きましょう。この山を守るなら、この山を離れることでござりまする」

「げにも」と後醍醐帝は感嘆するが、どこまでわかっておるのじゃろうか。正成の作戦はもっともではある。じゃが、笠置が落ちてしまえばすべておしまいぞ。帝も堂上がたも、わかっておられるのか?

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ともかく、正成は護良親王尊良親王らと河内で兵を挙げることになり、ましらの石を水分の楠木館へ使いにやる。

手紙を読んだ恩智左近は屋敷をひきはらう準備を始める。久子は柿の木に別れを告げ、館に火を放つと、家族とともに千早の里へと出立する。

4日後、楠木正成が挙兵すると河内一帯は大混乱となる。続いて桜山慈俊が備後で蜂起すると、反北条の火種が広がっていったのじゃ。

そして光厳天皇が即位。笠置はあっけなく落城

もっとも、この程度のことは鎌倉にとって想定の範囲ではあった。この手の反乱は根本を早く絶ってしまえばよい。

まずは大仏貞直率いる2万の大軍が鎌倉から京に到着する。そして元弘元年9月20日持明院統量仁親王践祚し、光厳天皇が即位する。父・後伏見院院政を開始し、病死した大覚寺統邦良親王の皇子・康仁親王立太子し、新たな御代がスタートしたのじゃ。

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この報らせが赤坂城に届くと護良親王は大激怒。ある意味、北条よりも憎き持明院統じゃからな。

量仁が帝じゃと? ようもぬけぬけと。これは持明院統の暴挙ぞ! 心得ぬ様かな……」
「さればこそ、北条のねらいは京に次なる帝を奉り、笠置の帝を先帝となし、帝の恩為に蜂起するものから大義名分を奪う策略にございます」
「笠置におはす帝は先帝にあらず。京の帝なぞ、誰が認めようか!」

あ、いや、いくら護良親王が吠えまくっても、あの髭の御仁は、もはや帝ではないんじゃよ。先帝であれ、護良親王であれ、楠木であれ、逆らえばそれはもう賊。わかっておらぬようじゃ。

いまだに後醍醐帝は英邁な君主で光厳帝は凡庸な傀儡と思っている人がまだおるようじゃが、そんなことはまったくない。前にも書いたが後醍醐帝は自分の皇統をつなげたいがために内乱をおこしたわけで、討幕は自身を正当化するための後付けの理屈じゃ。後醍醐帝は英邁というより野心家タイプで、天皇としては突然変異。むしろ光厳帝のほうがよほど本来の天皇らしいとわしは思うがな。まあ、このことはあらためて書くとして先を急ごう。

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光厳天皇の即位を見届けると、幕府の大軍はいよいよ笠置山に押し寄せた。ここで先帝を捕らえてしまえば、各地の不満分子などどうにでもなる。

当初、鎌倉方は、お歴々の間で軍議が紛糾したため軍勢の動きは鈍かった。じゃが、備中の国人・陶山義高らの一団が夜陰に紛れてわずかな手勢で裏手の崖をよじ登り、山上に奇襲をかけた。すると不意をつかれた宮方は大混乱、これをみた幕府軍が一気に攻めかかり、笠置の山は落城してしまった。じつにあっけないものじゃ。

ちなみに陶山義高ら一族は、先帝が隠岐島を脱出し赤松円心らが六波羅を攻めたときも京に馳せ上っている。じゃが、到着した時にはすでに六波羅は陥落しており、陶山一族は近江で六波羅探題北条仲時らと合流する。じゃが番場において戦い敗れ、自刃している。また、その子孫は足利幕府奉公衆として仕えたという記録が残っている。

さて、先帝のこと。一行は赤坂城をめざして山中をさまようが道に迷っているところを、幕府方は首尾よく身柄確保に成功した。かくして当今の御謀反は一件落着。あとは先帝を島にでもお流しし、取り巻きの公家を処分すればよし。大義名分を失った楠木らも、じきに片付くじゃろう。

あとは長崎に任せて、わしは戦で亡くなった者たちの御霊を供養するため、また法華経でも写すとしよう。