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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

宮騒動とは? その顛末を「吾妻鏡」から拾って解説してみた

「宮騒動」について、名越光時らが北条に粛清された様子がよくわからんなあと思っていたところ、「吾妻鏡」に記録が残っていたので、今回はそれを備忘録として書いておきたい。

北条経時が眠る天照山蓮華院光明寺(鎌倉県鎌倉市)

北条経時が眠る天照山蓮華院光明寺(鎌倉県鎌倉市)

宮騒動のあらまし

まずWiki先生によると、事件のあらましはこうじゃ。

「宮騒動」は、鎌倉時代の寛元4年(1246年)閏4月に起きた、名越光時の反乱未遂および前将軍・藤原頼経が鎌倉から追放された事件。年号を取って寛元の乱、寛元の政変ともいう。また、首謀者より名越の乱、名越の変とも呼ばれる。北条氏内部の主導権争いと北条氏に反感を抱き将軍権力の浮揚を図る御家人たちの不満が背景にあり、この事件により第5代執権・北条時頼の権力が確立され、得宗(北条家嫡流)の専制権力への道を開いた。 宮騒動と称される理由は『鎌倉年代記裏書』で「宮騒動」と号すとあるためだが、「宮」を用いる由来は不明。事件の背後にいた九条頼経は九条家の一族で「宮」と称されることはあり得ず、結果的にこれより6年後に摂家将軍の追放と親王将軍の誕生へとつながったためではないかとされる。

では、あらためて北条経時公の没後、事件発覚後の経緯を「吾妻鏡」より拾っていこう。

 北条経時が早世

寛元四年閏四月小一日己丑。天晴。今日、入道正五位下行 武藏守 平朝臣 経時卒す。禅室卒去の事、即ち飛脚を差し、京都へ申被る。行程三箇日為可きと云々。

寛元4年(1246)閏4月1日、出家して入道正五位下行武蔵守平朝臣北条経時公が没した。出家名は安楽。経時公の訃報は、すぐに伝令が出され、3日で京都に届けられた。

わしはてっきり、心労による過労死だと思っていたが、頼経側近の藤原定員の自白によれば、経時公の早死は将軍九条頼経による呪詛があったともいう。いずれにせよ、ふおんな事件の始まりじゃ。

鎌倉、騒動す

寛元四年五月大廿二日己夘。天晴。寅刻。秋田城介義景が家中并びに甘繩辺騒動す。

寛元4年(1246)5月22日午前4時頃、幕府重臣の安達義景家中がなにやらあわただしくなり、甘縄近辺から騒ぎがどんどん広まっていく。安達はもちろん得宗親派じゃよ。

寛元四年五月大廿四日辛巳。天晴。亥刻地震。子時以後雨降る。今申刻、鎌倉中の人民 静か不。資財雑具は東西に運び隠すと云々。
已に辻々を固め被る。渋谷一族等、左親衛の厳命を守り、中の下馬橋を警固す。
而るに太宰少弐御所へ参る為、融らんと欲する之處、彼の輩は、御所へ参る者に於ては之を聴す不可。北条殿の御方に参り令める者、抑留に及ぶ不可之由を称す。此の間頗る喧嘩有りて、弥物忩。 
夜半に皆甲冑を着け旗を揚げ、面々に雅意に任せ、或ひは幕府へ馳せ参り、或ひは左親衛の辺に群集すと云々。
巷の説縱横す。故遠江入道生西が子息逆心を挿むこと、縡に発覚之由と云々。

寛元4年(1246)5月24日辛巳。空は晴。午後10時頃地震があった。夜中12時から雨が降りはじめる。この日の夕方4時頃から鎌倉中の人が騒ぎ、家財道具を東西に運び始めた。
辻々は武士に見張られ、渋谷一族などは時頼公の命により、中の下馬橋を封鎖した。太宰少弐狩野為佐が御所へ行くために通ろうとすると、閉鎖している武士たちは「御所へ行くものは通さぬ。時頼さまの所へ行くのなら、引止めはしない」と云う。この間、色々と喧嘩もあり、今にも暴力沙汰になりそうな有様だった。

夜中になると武士たちは鎧兜に身を固め、旗を掲げ、ある者は幕府へ、ある者は時頼公の屋敷周りに、思うままに群れ集まる。

巷間流れる噂では、故・北条朝時の息子光時が、得宗家に叛逆しようとの企みが露見したのだという。

名越北条氏の陰謀発覚

寛元四年五月大廿五日壬午。天晴。世上の物忩未だ休止せず。左親衛宿舘の警固を敢へて緩ま不。甲冑の軍士四面を圍繞(いにょう)す。
夘の一點、但馬前司定員御使と称し、左親衛の第へ参る。
而るに殿中于入る不可之旨、諏方兵衛入道、尾藤太平三郎左衛門尉等于下知令め給ふに依て、忽ち退出すと云々。
越後守光時、御所中に侍宿令む之處、今曉家人参り喚び出す之程、白地(あからさま)に即ち 退出し 訖。
并びに帰参之儀も無し。則ち事に坐し落飾し、其の髻於左親衛に献ず。
是、左親衛を追討可き之由、一味同心を成し、改変す不可之趣、相互に連署の起請文を書く。
舎弟 尾張守時章、 備前守時長、 右近大夫將監時兼等者、野心無き之旨、兼て以て陳謝令むに依て、殊なる事無しと云々。
其の後、但馬前司定員事に坐し出家す。秋田城介義景之を預り守護す。
子息兵衛大夫定範は縁坐に處被ると云々。午刻以後、群参之士又旗を揚ぐ。

寛元4年(1246)5月25日、晴、鎌倉の騒ぎはおさまらない。時頼公の屋敷では警戒を解かず、鎧兜の軍勢が四面を囲んだ。

午前5時過ぎ、藤原定員が大殿頼経からの「使い」として時頼公の屋敷を訪れる。しかし建物内に入ってはいけないと、諏訪盛重・尾藤景氏等に追い返され、すぐに戻っていく。

名越(北条)光時は将軍御所に泊まっていたが、朝、部下が呼びに来たため、いやいやながら御所を出た。そして自身の屋敷に帰ることもなく、計画失敗を知ると髪を落とし、髻を時頼公に届けた。反得宗一派は、「時頼を攻め滅ぼそう」との誓書をつくったが、その中心は名越流北条氏だとの噂が流れたため、光時は身の危険を感じて、謝罪、出家したというわけだ。弟の時章・時長・時兼は、野心はないとと前もって弁明していたので、咎めを受けないで済んだ。

その後、一味の藤原定員らも同様に出家したため、安達義景が囚人として預かることになった。息子の定範も連座した。

昼過ぎ、集まった武士たちは、また旗を掲げて騒ぎだす。この日、名越時幸も、病気を理由に出家した。

騒動の顛末

寛元四年五月大廿六日癸未。天晴。終日暴風。今日左親衛の御方に於て、内々御沙汰の事有り。右馬權頭、陸奥掃部助、秋田城介等其の衆為と云々。

寛元4年(1246)5月26日、晴、一日中暴風。この日、時頼公の所で秘密会議による裁決があった。参加は北条政村・金沢実時・安達義景である。

寛元四年六月小一日戊子。天晴。今日、入道修理亮 從五位下平朝臣時幸卒す。

寛元4年(1246)6月1日、晴。今日、病で出家していた名越流北条時幸が死んだ。ちなみに、葉室定嗣の日記「葉黄記」には、時幸の死は自害とある。

寛元四年六月小十日丁酉。左親衛の御亭に於て、又深秘の沙汰有り。亭の主、右馬權頭、陸奥掃部助、秋田城介等 寄合う。今度、若狹前司を加へ被る。内々御隔心無き之上、意見を仰せ被る可き之故也。此の外、諏訪入道、尾藤太平三郎左衛門尉參候す。

寛元4年(1246)6月10日、時頼公の屋敷で、またも秘密会議があった。メンバーはいつもの時頼公、北条政村、金沢実時、安達義景に、今回は三浦泰村が加わった。

これは、三浦に「反逆の意図はない」との表明させるためだった。この他には、諏訪盛重・尾藤景氏が参加した。

寛元四年六月小十三日庚子。入道越後守光時配流。伊豆國江間宅へ赴く。 越後國務以下の所帶之職 大半之を収公す。又、上総權介秀胤、上総國へ追下被る。相度る事有る之由、露顕令むに依て也。

寛元4年(1246)6月13日、名越光時は流罪と決し、伊豆国の江間の屋敷に行くことになった。越後守護などの役職や領地は取り上げられた。また、千葉秀胤は上総国へ蟄居した。光時との共謀が判明したからである。

ちなみに、光時が配流された江間は、義時公の生まれ育った地である。これは時頼公のせめてもの恩情じゃろう。

寛元四年(1246)六月小廿七日甲寅。入道大納言家、入道越後守時盛が佐介第于渡り御う。是、御上洛有る可きの御門出之儀也。 近習之輩、多く以て供奉すと云々。御上洛之間、駅家の御雜事等、下知を加へ被ると云々。

寛元4年(1246)6月27日、。大殿頼経は北条時盛の佐介屋敷へお渡りになる。これは上洛のための儀式である。側に仕える者の多くがお供をし、道中の宿場や雑務の手配を命じた。

上洛というより、京都へ追い返されたということじゃな。 なお、九条頼経についてはこちらの記事をごらんください。

takatokihojo.hatenablog.com

しかし、宮騒動の顛末をあらためてみていくと…いかにも北条らしい事件じゃなw