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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

平治の乱~信西、藤原信頼、源義朝、平清盛らは何を考え、どう行動したのか

さて、今回は平治の乱についての備忘録じゃよ。源氏が没落し、平家が興隆するきっかけとなった事件じゃが、そのキーマンである信西藤原信頼源義朝平清盛らが何を考え、どう行動したのかをまとめておくことにする。

『平治物語絵巻』三条殿焼討

平治物語絵巻』三条殿焼討

ちなみに前哨戦の保元の乱については、こちらを参照いただきたい。 

takatokihojo.hatenablog.com

平治の乱の背景

信西の台頭

保元の乱に勝利した後白河天皇は、さっそく「保元新制」という代替わりの新制を発令した。第一条の冒頭には、「九州の地は一人の有なり。王命の外、何ぞ私威を施さん」とあることからもわかるように、全国の荘園・公領を天皇の統治下に置くことを意図した「王土思想」を強く打ち出している。その改革を力強く推進したのが信西入道じゃ。

信西の俗名は藤原通憲。代々学者の家系であったが、父・藤原実兼が急死すると、7歳の通憲は縁戚の高階経敏の養子となっている。その後、出家して法号円空、まもなく信西と改めた。大河ドラマ平清盛」では、阿部サダオさんが講演して負ったな。

阿部サダヲの信西

阿部サダヲさんが演じた信西NHK大河ドラマ平清盛」)

鳥羽法皇の近臣となっていた信西じゃが、妻の朝子(藤原兼永の女)が雅仁親王後白河天皇)の乳母となったことから、天皇即位後は宮廷内で大きな発言力をもつようになる。保元の乱に勝利すると、信西後白河天皇の後見として諸政刷新と天皇親政をどんどん推し進めいく。

しかし、急進的な改革がほうぼうで軋轢を生むのは世の常じゃ。しかも信西は改革推進にあたって自分の息子たちを要職に就けたから、よけいに周囲の反感は大きかった。

そんな矢先、美福門院が自分の養子である守仁親王二条天皇)の即位を信西に要求してきた。もともと後白河は守仁即位までの中継ぎとの約束であったため、信西もこの要求を拒むことはできない。かくして保元3年(1158年)、「仏と仏との評定」(信西と美福門院)により二条天皇が即位する。ここから後白河院政派と二条親政派の対立が始まるのじゃ。

二条親政派は藤原経宗(二条の伯父)・藤原惟方(二条の乳兄弟)を中心に、美福門院の支援をうけて、後白河や信西の動きをけん制する。いっぽう後白河は信西を頼りとしたが、信西自身は美福門院に遠慮がある。そこで台頭してきたのが藤原信頼という男じゃ。

藤原信頼の登場

藤原信頼鳥羽院の近臣・藤原忠隆の四男(または三男)。あの御堂関白・藤原道長の兄・道隆流藤原氏で、 信西と比べれば家柄もはるかによい。信頼は密かに信西にライバル心を燃やしていた。

藤原信頼

藤原信頼NHK大河ドラマ平清盛」)

後白河天皇は、周囲が「あさましき程の寵愛あり」と揶揄するほど、信頼を重用した。「平治物語」は後白河との男色関係を指摘して、信頼を「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし、ただ朝恩のみにほこりて」出世する無能な男と酷評している。

信頼は早くから武士の力に着目していたふしがある。まず、異母兄の藤原基成鎮守府将軍として奥州に送り込み、奥州藤原基衡の嫡男・藤原秀衡に基成の娘を嫁がせることに成功する。奥州は軍馬を生産する重要な土地じゃからな。

そして、信頼は武蔵国を知行していたので、坂東に地盤を持つ源義朝公とも誼を通じていた。信頼は院の厩別当に就任していたので、軍馬を管理する左馬頭の源義朝公とは入魂であった。

さらに信頼は平清盛の娘を嫡男・信親の室に迎えることで、平氏との関係強化にも努めている。

こうしてこともあり、信頼の権勢は大きくなっていった。賀茂祭のときなど、信頼といざこざを起こした関白・藤原忠通後白河天皇から叱責をうけ、東三条殿に閉門の憂き目にあっているしな。けっきょく、忠通は嫡子・基実の妻に信頼の姉妹を迎えることになり、信頼の権勢は摂関家を凌ぐものになっていったのじゃ。

かくしてや信西藤原信頼は対立するようになる。「平治物語」によると、信頼は近衛大将を希望したが、信西はそれを阻止したため、二人には確執が生まれたとある。また信西は、信頼を安禄山になぞらえ「長恨歌絵巻」を後白河に献上して、信頼を重用しないように諌めたという。こうして両者の確執が深まる中、藤原信頼は二条親政派と手を組み、信西を追い落としにかかるのじゃ。 

平清盛の厚遇、源義朝の不遇

そしてもう一人、信西を恨む者がいた。頼朝公の父・源義朝である。

源義朝

玉木宏さん演じる源義朝NHK大河ドラマ平清盛」)

保元の乱のとき、義朝は自信の戦功にかえて父・為義の助命を訴えたが、信西はこれを拒んだ。また、乱後、義朝公は左馬頭に任官したが、平氏一門の待遇と比べて見劣りし、信西の処置に不満を抱いていた。

それでも義朝は、信西の息子・是憲を娘婿にしたいと申し入れ、源氏の勢力挽回につとめる。しかし、信西は「自分の子は武家にはふさわしくない(要するに家柄が釣り合わない)」と、冷たく断ってしまう。その一方で信西は、息子の成範の正室平清盛の娘をもらいうけるなど、平清盛に接近し、さまざまに厚遇した。これでは義朝の面目は丸つぶれ、信西への遺恨は深まっていったのじゃ。

かくして藤原信頼と二条親政派が結託し、そこに源義朝の武力が結びつく。信西追い落としの武力蜂起・平治の乱が始まるのじゃ。

クーデター勃発

三条殿襲撃と信西の殺害

平治元年12月(1160年1月)、平清盛が熊野参詣に赴き、京都に軍事的空白が生まれた隙をつき、反信西派はついにクーデターを起こし、院御所・三条殿を襲撃する。信頼らは後白河上皇の身柄を確保すると三条殿に火をかけた。

しかし信西らはすでに逃亡していたため、信頼らは後白河を二条天皇がいる内裏内の一本御書所に軟禁した。そして翌日には信西の子息が捕縛し、全員を配流に決した。信西山城国田原に逃れ、土中に埋めた箱の中に隠れていたが、発見されると観念し、自害して果てた。その首は獄門に晒されている。

信西が自害した翌日、信頼は臨時除目を行った。自身は近衛大将になり、源義朝を播磨守に、嫡子・頼朝公は右兵衛権佐に任じている。

この除目について太政大臣藤原伊通はこう皮肉ったという。

「内裏にこそ武士どもしいだしたることはなけれ共、思ひのごとく官加階をなる。人をおほくころしたるばかりにて、官位をならんには、三条殿の井こそおほくの人をころしたれ。など其井には官をなされぬぞ。」(平治物語

軍事力による強引な政権奪取を多くの公家があさましきことと思っていたようじゃな。

鎌倉悪源太義平が参陣

源義平

鎌倉悪源太義平

このとき、東国から鎌倉悪源太義平が到着した。「平治物語」には、そのときのことが記されている。

信頼大によろこびて、「義平此除目にまいりあふこそ幸なれ。大国か小国か、官も加階も思ひのごとく進むべし。合戦も又よくつかまつれ。」と宣へば、義平申けるは、「保元に伯父鎮西八郎為朝を、宇治殿の御前にて蔵人になされければ、急々なる除目かなと、辞し申けるはことはりかな。義平に勢を給候へ。阿辺野辺にかけむかひ、清盛が下向をまたん程に、浄衣ばかりにてのぼらん所を、眞中にとりこめて一度にうつべし。もし命をたすからんと思はゞ、山林へぞにげこもり候はむずらん。しからば追っつめ<とらへて、首をはね獄門にかけて、其後信西をほろぼし、世もしづまりてこそ、大国も小国も官も加階もすゝみ侍らめ。みえたる事もなきに、かねてなりて何かし候べき。たゞ義平は東国にて兵どもによび付られて候へば、もとの悪源太にて候はん。」とぞ申ける。

義平にしてみれば、まだ何も決してないのにお手盛りで論功行賞などしている信頼にあきれかえったのじゃろう。武備も十分でいまま熊野詣をしている平清盛を討ち取ろうと提案したが、信頼はとりあわない。

信頼、「義平が申状荒議也。そのうへ阿辺野まで馬のあしつからかして何かせん。都へいれて、中に取こめうたんずるに、程やあるべき。」とのたまひければ、みな此義にしたがはれけり。ひとへに運のつきけるゆへにこそ。 

藤原信頼といい、保元の乱のときの藤原頼長といい、湊川の戦い坊門清忠といい、お公家というのは、なぜ、いつもこうなんじゃろうか。まさに「ひとへの運のつきけるゆえにこそ」じゃな。

平清盛、京へ

平清盛

松山ケンイチさん演じる平清盛(NHK大河ドラマ

平清盛は、熊野詣に赴く途中の紀伊国でこの異変を知る。六波羅からの早馬は、藤原信頼源義朝平氏を討とうとしているとの報せてきたのだ。

清盛、「いそぎ下向すべきが、是までまいって参詣をとげざらんも無念也。いかゞすべき。」との給へば、左衛門佐重盛、「熊野参詣も現当安穏の御祈請にてこそ候らめ。其上、君逆臣にとりこめられさせ給へるなり。いかでか武臣として、是をすくひ奉らざらん。神は非礼をうけず。何のくるしみか候べき。いそぎ御下向あるべし。」と申されければ、みな此義にぞ同じける。 

平重盛の進言で清盛は京に戻ることを決断する。幸い武備は平家貞が準備し、紀州の武士の合力も得られる見通しが立った。

しかし、鎌倉悪源太義平が3000余騎で阿倍野待ち伏せていると情報が入る。清盛は、いったん四国に渡り軍勢を整えてることを考えたが、重盛は即時京へ上ることを進言する。

「それもさにて候へ共、事延引せば、定而当家対治のよし諸国へ院宣・綸旨をなしかくべし。かへって朝敵となりなん後は、後悔すとも益あるまじ。多勢をもって無勢をうつ事、常の事也。あへて弓矢のきずならず。しかれば無勢なりとも、かけ向って即時にうち死したらんこそ、後代の名もまさるべけれ。何とか思ふ、家貞。」との給へば、筑後守、「六波羅の御一門も、さこそおぼつかなう思召らむ。いそがせ給へ。」と申せば、清盛も然るべしとて、都をさして引かへす。 

じつはこのとき、源義朝の軍勢も、それほど大きなものではなかった。ぐずぐず時間をかけていれば、信頼義朝が体制を固め、平氏は朝敵にされてしまうかもしれない。このときの重盛の進言と清盛の決断が、その後の平氏の隆盛を決めたと言ってもよいかもしれぬな。

戦いの経緯と結果

二条天皇六波羅行幸 

『平治物語絵巻』六波羅行幸巻

平治物語絵巻」六波羅行幸

京でも信頼の専横に反発する公家が動き出す。まずは、信西と親しかった内大臣三条公教平清盛を味方に誘い、二条親政派の藤原経宗・惟方に接触を図る。二条親政派にすれば、すでに信西を討ち果たしたわけだから、もはや信頼や後白河院政派と組む必要はない。そこで二条天皇六波羅(清盛の邸)行幸が密かに計画される。

まず、平清盛は信頼に恭順の意を示し、婿に迎えていた信親を送り返した。信頼は清盛が味方についたことで安心したが、義朝はなお疑心暗鬼であったという。

そして藤原惟方の手引きで後白河仁和寺に脱出する。二条天皇もまた女房衣装で変装し、中宮と共に藤原惟方、経宗の二人が用意した車に乗って、六波羅に向かった。そして公家・諸大夫が続々と六波羅に集結、摂関家藤原忠通・基実父子も参内したことにより、平氏は官軍となり、ここに信頼・義朝の追討宣旨が下されたのじゃ。

六波羅行幸に沸きかえっている頃、内裏に居る藤原信頼は酔いつぶれて、まったく気が付かなかったという。うかつにもほどがあるではないか。

源義朝の出陣

その頃、悪源太義平は賀茂へ出陣の途中だったが、道中でこの知らせを聞き、急いで駆け戻ってきた。

「されば只今此よしきゝつれども、右衛門督のかたよりも、未なに共つげしらせず。さりながら、源氏のならひ、心がはりやあるべき。こもる勢をしるせや。」とて、内裏の勢をぞしるされける。

事の真偽を問いただす義平に、義朝公は、ただただ戦支度を命じるほかはなかった。

武士の大将左馬頭義朝は、赤地のにしきのひたゝれに、黒糸縅のよろひに、鍬形うったる五枚甲の緒をしめ、いか物作の太刀をはき、黒羽の失負、節巻の弓もって、黒毛なる馬にくろ鞍をかせて、日花門にぞひったてたる。年卅七、眼ざし・つらたましゐ、自余の人にはかはりたり。
嫡子悪源太義平は、生年十九歳、練色の魚綾の直垂に、八龍とて、胸板に龍を八うって付たる鎧をきて、高角のかぶとのをゝしめ、石切と云太刀をはき、石打の矢負、滋藤の弓もって、鹿毛なる馬のはやり切ったるに、鏡くらをかせて、父の馬と同かしらにひったてたり。
次男中宮大夫進朝長は十六歳、朽葉のひたゝれに、沢潟とて、沢おどしにしたる重代のよろひに、星白の甲を着、うすみどりといふたちをはき、しら篦に白鳥の羽にて作だる矢負、所藤の弓もって、あしげなる馬に白覆輪のくらをいて、兄の馬にひっそへてこそ立たりけれ。
三男右兵衛佐頼朝は十三、紺の直垂に源太が産衣といふ鎧を着、星白の甲のをゝしめ、髭切といふ太刀をはき、十二さしたる染羽の失負、滋藤の弓もって、栗毛なる馬に柏みゝづくすりたる鞍をいて、是も一所にひったてたり。 

かくして、義朝公37歳、義平殿19歳、朝長殿16歳、頼朝公13歳の出陣とあいなる。なお、このとき源三位頼政は劣勢を悟り、早々に六波羅勢への寝返りを決めている。

開戦。平重盛源義平が一騎打ち

軍議の席では、内裏を焼失させないために、六波羅勢は攻めたてられて引き上げるふりをして義朝軍をおびき出し、その間に内裏を占領する戦術をとることとなった。

「朝敵たるうへは、逆徒の誅戮は掌の中に候間、時刻をめぐらすべからず。然らば定て狼籍出来せんか。火失なからん条こそ、難義の勅定にて候へ。さりながら、苑蠡が呉国をくつがへし、張艮が項羽をほろぼせしも、みな智謀のいたす所なれば、涯分武略をめぐらして、金闕無為なるやうに成敗仕るべし。」

平清盛はそう宣言して出陣。3000余騎の軍勢を3手に分け、近衛、中御門、大炊御門より大宮方面に駆け出し、陽明門、待賢門、郁芳門に押し寄せていく。

平重盛

平重盛NHK大河ドラマ平清盛」)

 「年号は平治なり。花の都は平安城。われらは平氏なり。平の字が三つ揃って、此度の戦に勝たん事、何の疑いやあるべき!」  

待賢門を守っていたのは藤原信頼。寄せ手の平重盛は名乗りを上げて攻め込んでいくが、信頼は「それ侍ども、防げや、防げ」と騒ぐだけで、さっさと退却してしまう。重盛はいよいよ勇み立つ。これを迎え撃ったのが悪源太義平殿じゃ。

「此手の大将は誰人ぞ。名のれきかん。かう申は清和天皇九代の後胤、左馬頭義朝が嫡子、鎌倉悪源太義平と申者也。生年十五のとし、武蔵国大蔵の軍の大将として、伯父太刀帯先生義賢をうちしより以来、度々の合戦に一度も不覚の名をとらず。とし積って十九歳、見参せん。」とて、五百騎の眞中へ破っていり、西より東へ追まくり、北より南へ追まはし、たてさま横さま十文字に、敵をさっとけちらして、「葉武者どもにめなかけそ。大将軍を組でうて。櫨のにほひの鎧に、蝶の裾金物打って、黄月毛の馬に乗ったるこそ重盛よ。をしならべて組でおち、手取にせよ。」と下知すれば、大将をくませじと、ふせぐ平家の侍ども、与三左衛門・新藤左衛門を始として、百騎ばかりのうちにぞへだゝりける。悪源太を始として、十七騎の兵ども、大将軍に目をかけて、大庭の椋木を中にたてて、左近の櫻、右近の橘を七八度まで追まはして、くまん<とぞ揉だりける。十七騎に懸立られて、五百余騎かなはじとや思ひけん、大宮面へさっと引。 

ここで、御所の右近の橘・左近の桜の間を7度も義平が重盛を追い回したという有名な「重盛義平一騎討ち」が繰り広げられたのじゃ。

激戦が続く中、六波羅軍は予定通り兵を退き、義朝軍はこれを追う。その隙をついて、六波羅軍は内裏に入り諸門を固め、背後を絶たれた義朝軍は六波羅へと押し寄せていく。

藤原信頼源義朝の最期

決死の覚悟で六波羅に迫った義朝軍だったが、源三位頼政の裏切りもあり、六条河原であえなく敗退する。義朝らは再起を期して東国へ落ちていく。

このとき信頼は義朝と東国へ連れて行ってくれという。しかし、二条天皇をむざむざと奪われた不手際に対し、義朝から「日本一の不覚人」と罵られ、捨て置かれてしまう。

義朝八瀬の松原を過られけるに、跡より、「やゝ。」と呼こゑしければ、何者やらんとみ給へば、はるかに前へぞ延ぬらんとおぼえつる信頼卿追付て、「もし軍にまけて東国へおちん時は、信頼をもつれて下らんとこそきこえしか。心がはりかや。」との給へば、義朝余りのにくさに腹をすへかねて、「日本一の不覚人、かかる大事を思ひ立って、一いくさだにせずして、我身もほろび人をもうしなふにこそ。おもてつれなふ物をのたまふ物かな。」とて、もたれたる鞭をもって、信頼の弓手の頬崎を、したゝかにうたれけり。信頼此返事をばし給はず、誠に臆したる体にて、しきりにむちめををしなで<ぞせられける。

けっきょく信頼は仁和寺にいた後白河院を頼り助命を嘆願するが、六条河原で斬首される。

また、義朝公もは東国へ下る途中で頼朝公とはぐれ、朝長殿を失い、尾張国内海荘司・長田忠致の邸に匿われたが、裏切りにあい殺害されてしまう。義平もまた捕らえられ、六条河原で処刑されるが、頼朝公だけは清盛の継母・池禅尼の嘆願で助命となる。伊豆に流された頼朝公は、のちに北条の支援を受けて平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開くことになるが、それはもう少し先のこと。

まとめ「平治の乱はなぜ起こったのか」

以上、平治の乱の背景や戦いの経過、顛末をみてきたが、さいごに、この乱がなぜ起こったのか、乱の原因を一言でいえば「信西に反発した藤原頼長と二条親政派の公家が、不遇をかこっていた源義朝の軍事力をよりどころにクーデターをおこした」ということになろうか。

平治の乱の結果、信西藤原信頼という2人の側近を失った後白河は、その影響力を失ってしまう。やがて二条天皇の親政が始まると、後白河はもうおしまいかとおもわれたが、り、二条天皇が23歳の若さで亡くなると、即位した六条天皇が2歳ということもあり、平清盛と手を結び、院政を再開する。なかなかしぶとい御仁である。

いっぽう、平清盛はその経済力と軍事力を背景に、朝廷における武家の地位を確立していく。正三位に叙され、参議に任命され、武士で初めて公卿(議政官)の地位に就く。やがて一門からも公卿・殿上人が輩出し、「平家に非ずんば人に非ず」と、わが世の春を謳歌するのである。

もっとも平氏政権は公家化してしまい、あくまでも権門体制の枠組みの中で軍事指揮権の長になったにすぎない。本格的な武家政権源頼朝公の鎌倉開府、さらにいえば承久の乱における鎌倉の勝利を待たなければならない。

長々書いてきたが、要するに「北条義時公は偉かった」ということを、わしは言いたいのじゃよ。