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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

源朝長~知られざる頼朝公の兄君のこと

源頼朝公の兄弟と言えば、九郎義経殿や悪源太義平殿が有名じゃが、もちろんご兄弟がおられたわけで、そのお一人が源朝長殿じゃ。今日は朝長についてじゃよ。

朝長(『能楽図絵』)

朝長(『能楽図絵』Wikipedia

源朝長と平治の乱

源朝長は、源義朝の次男で母は波多野義通の妹。源頼朝公の異母兄にあたる。相模国松田郷を領して松田冠者と号した。平治の乱では父・義朝に従い、兄・義平、弟・頼朝公、義兄・波多野義通らとともに平清盛と戦う。しかし利あらず、東国へ落ちる途中に落人狩りにあって負傷し、その傷がもとで没している。

波多野義通についてはこちらを読んでもらうとして。

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源朝長については、保元4年(1159)2月、鳥羽天皇皇女姝子内親王(後の高松院)が二条天皇中宮として立后したとき、中宮少進に任じられた記録がある。この頃には従五位下の位階を得ていたらしい。

平治元年(1159)、源義朝藤原信頼と結んで平治の乱をおこす。しかし、平清盛二条天皇派と手を結んで後白河上皇を迎えると、信頼・義朝は朝敵となってしまう。このとき、朝長は兄の義平、弟の頼朝公とともに内裏の守備についている。朝長16歳のときのことじゃ。

次男中宮大夫進朝長は十六歳、朽葉のひたゝれに、沢潟とて、沢おどしにしたる重代のよろひに、星白の甲を着、うすみどりといふたちをはき、しら篦に白鳥の羽にて作だる矢負、所藤の弓もって、あしげなる馬に白覆輪のくらをいて、兄の馬にひっそへてこそ立たりけれ。(「平治物語」)

しかし、玉をとられて朝敵になった源氏軍は敗れ、義朝らは再起を期して東国へ落ちのびる。このとき、大原の竜下越比叡山の山法師に行く手を遮ぐいられ合戦となり、義朝の大叔父の義隆とともに、朝長も左腿に矢傷を受けてしまう。

卅余騎の兵、各馬よりとびおり<、手々に逆茂木をば物ともせず、引ふせ<とをる所に、衆徒の中より、さしつめひきつめ散々に射たりければ、陸奥六郎義隆の頸の骨を射られて、馬よりさかさまにおちられてけり。中宮大夫進朝長も、弓手の股をしたゝかに射られて、鐙をふみかね給ひければ、義朝、「大夫は失にあたりつるな。つねに鎧づきをせよ。うらかゝすな。」とのたまへば、其矢ひつかなぐつてすて、「さも候はず、陸奥六郎殿こそいた手おはせ給ひ候つれ。」とて、さらぬ体にて馬をぞはやめられける。 

義朝が「常に鐙を踏み、敵に裏に回り込まれるな」と声をかけると、朝長は気丈にも「私は大丈夫です。それよりも陸奥六郎(義隆)殿が深手を負われています」と答えている。その後、義朝らは山法師を蹴散らして先へ進んだが、ざんねんながら年少の頼朝公は疲労困憊し、ここで脱落してしまう。

なお、平治の乱の経緯についてはこちらにまとめたので、参照してほしい。

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朝長終焉の地・美濃国青墓

源義朝一行は、東国に落ちていくが、まずは美濃国青墓に逃れ着く。青墓は遊女や傀儡子が多くいたことで知られる宿駅で、源為義・義朝にもゆかりの場所であった。

建久元年(1190)10月29日、上洛途上の源頼朝公は、わざわざ青墓の地に立ち寄って、青墓の長者大炊とその娘を召しているが、そこに義朝公と青墓の縁が記されている。

青波賀の駅に於いて、長者大炊の息女等を召し出され纏頭有り。故左典厩(義朝)都鄙上下向の度毎に、この所に止宿せしめ給うの間、大炊は御寵物たるなり。仍って彼の旧好を重んぜらるるが故か。故六條廷尉禅門(為義)最後の妾(乙若以下四人の幼息の母、大炊の姉)、内記平太政遠(保元逆乱の時誅せらる。乙若以下同じく自殺せしめをはんぬ)、平三眞遠(出家の後、鷲栖禅師光と号す。平治敗軍の時、左典厩の御共として、秘計を廻らし、内海に送り奉るなり)、大炊(青墓の長者)、この四人皆連枝なり。内記大夫行遠の子息等と。(「吾妻鏡」) 

青墓の地で義朝一行を迎えたのは、青墓の長者・大炊である。青墓の長者とは、遊女らを管理していた女性らしい。ちなみに大炊一族は、今様歌の名手を輩出しており、後白河院に「梁塵秘抄」を教授したことで有名な乙前もここの出である。

義朝は関東と京を往復するときにはよく青墓に立ち寄ったようじゃ。そして、大炊の娘・延寿御前とねんごろになり、夜叉御前という娘を儲けている。

ちなみに、源為義も大炊の姉を愛妾にし、乙若はじめ4人の子を儲けている。為義は子どもたちを京都六条堀川館に住まわせていたが、保元の乱に敗れると、4人の子は義朝の命を受けた波多野延景によって殺害され、兄弟の内記平太政遠も自害している。

さて、逃げてきた義朝一行の話である。

義朝はとかくして、美濃国青墓の宿につき給ふ。彼宿の長者大炊がむすめ、延寿と申は、頭殿御志あさからずして、女子一人おはしけり。夜叉御前とて十歳になり給ふ。年来の御宿なれば、それに入給へば、なのめならずもてなし奉る。

命からがら逃げてきた義朝たちにとって、大炊らのもてなしは、つかの間の安らぎとなったことじゃろう。

源朝長の最期

平治物語」によれば、義朝は、義平には東山道を飛騨方面へ、朝長は信州から甲斐に進ませ、自らは東海道を下り、再起を期すことにした。しかし、矢傷が深かった朝長は、信州へ向かうことができず、出立後にやむなく青墓へ戻ってきた。

中宮大夫(朝長)は、信濃をさして下り給ふが、龍下にて手は負給ふ、伊吹のすその雪はしのがれたり、疵大事に成て、かなひがたかりしかば、かへりまいられけり。
頭殿(義朝)、此由をきゝ給ひて、「あわれ、おさなく共頼朝はかうはあらじ。」とぞのたまひける。

この場面、義朝は「頼朝なら年若くてもそうはならなかっただろう」と戻ってきた朝長に非常な言葉をかけているが、このとき義朝は朝長の命をとる決意を固めたのかもしれない。

「さらば汝しばらくとゞまれ。」ときこゆれば、朝長畏て、「これに候はゞ、定て敵にいけどられ候なん。御手にかけさせ給て、心やすくおぼしめされ候へ。」と申されしかば、「汝は不覚の者と思たれば、誠に義朝が子なりけり。さらば念仏申せ。」とて太刀をぬき、すでに首をうたんとし給ひしを、延寿・大炊、太刀にとり付て、「いかに目の前にうきめを見せさせ給ふぞ。」とて、なきくどけば、「あまりにをくれたれば、いさむる也。」とて、太刀をさゝれぬ。

義朝は朝長に、傷が癒えるまで青墓に留まるよう命じるが、朝長は敵に捕らえられることを恥辱とし、義朝の手にかかることを望んだ。そこで義朝が太刀を抜くと、驚いた大炊と延寿御前があわてて腰にすがって止めたため、義朝は「こやつの性根を試しただけだ」と言って太刀を収めた。

朝長帳台へ入給へば、女も内へぞ帰りける。其後、「大夫はいかに。」との給へば、「待申候。」とて、掌をあはせ念仏し給へば、心もとを三刀さして首をかき、むくろにさしつぎ、衣引かけてをき給ふ。

しかしその夜、義朝はあらためて寝所の朝長を訪れる。朝長は「お待ちしておりました」と答えて念仏を唱えはじめる。義朝は太刀を抜き我が子の胸を三度刺して首をはね、遺骸にそっと衣をかけた。享年16。

平治物語」は諸本あるゆえ、その記述がじつはさまざまあり、ある伝本には「朝長生年十六歳、雲の上のまじはりにて、器量・ことがらゆふにやさしくおはしければ」とある。わしも、なんとなーくじゃが、朝長は悪源太義平とは対照的な、心やさしき武将のように思うのだが、どうじゃろうか。

苔埋む蔦のうつつの念仏哉

大炊は朝長の亡骸を丁重に埋葬したが、平氏のしるところとなり、朝長の首は義朝とともに京の六条河原に晒されてしまう。しかし、朝長の守役だった大谷忠太は首を奪い返し、故郷である遠州友永村に埋葬する。そのため、朝長の墓は青墓と友永の二か所にあるというわけじゃ。

なお、義朝と延寿の娘・夜叉御前は義兄弟たち死に接し、頼朝公も平氏に捕らえられたと聞き、杭瀬川に身投げしている。

平家を滅ぼし、武家の棟梁として上洛する頼朝公は、途中、父・義朝が家人の裏切りにより謀殺された熱田に立ち寄り、その後、青墓を訪れている。父と兄の悲劇を大炊や延寿御前の口から直接聞いた頼朝公は、どんな思いであったのだろうか。

頼朝公は異母弟の九郎殿や蒲殿を殺した冷たい人物という印象があるが、ともに負け戦の修羅場をくぐった兄・悪源太義平殿や朝長殿、あるいは土佐で殺された同母弟の希義殿には、違った情を抱いていたように、わしは思うのじゃがのう。

松尾芭蕉は青墓の朝長の墓所を訪れて「苔埋む蔦のうつつの念仏哉」(苔むして蔦の繁くからまる、墓のなかから朝長の念仏の声がうつつに聞こえてくる思いだ)と詠んでいる。

謡曲「朝長」について

源朝長の最期は、謡曲「朝長」として現代に伝わっている。わしはとんと門外漢じゃが、「実盛」「頼政」とともに「三修羅」と呼ばれる重い能の曲目のひとつらしいぞ。

朝長を養育し、その後は出家した男(ワキ)は、朝長の菩提を弔うために青墓を訪れる。墓前で僧が手を合わせていると、青墓の長者(前シテ)がやって来る。彼女こそ、朝長が自害の晩に泊まっていた宿の主であった。

今なお朝長を大切に思い、懇ろに弔う彼女は、僧に朝長の最期を語り、宿へと誘う。

その夜、僧のもとへ朝長の霊が現れる。朝長の霊は戦に敗れて修羅道に落ちたありさまを語り、一夜の宿主にもかかわらず自身を弔ってくれる長者への感謝を述べ、回向を願って消えてゆく。

わしは鑑賞したことはないのじゃが、YouTubeにあったのではらせていただく。


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