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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

源希義と希望〜頼朝公の同母弟と土佐七雄・吉良氏のこと

今回は、土佐冠者こと源希義殿について。源義朝殿の五男で頼朝公の同母弟とされているが、これまたあまり知られていないようなので、紹介させてもらおう。

西養寺跡無縫塔 (伝源希義墓塔)

西養寺跡無縫塔  伝源希義墓塔(Wikipedia)

土佐冠者・源希義

源希義は、仁平2年(1152)、父・義朝と母・由良御前の子として生まれた。頼朝公とは5つ違いで、同母姉妹に一条能保室となった坊門姫がいる。

頼朝公の同母弟としては、他に四男の源義門がいたとわれているが、同時代史料にはまったく出てこない。義門平治の乱藤原信頼お手盛り除目をおこなったとき、宮内丞に任じられたといわれ、系図にもその名がみえるから、平治の乱直後に討死したとも推定されるが、どうもはっきりわからない。ただ五男の希義については、そこそこ史料もあるようじゃ。

平治の乱で父や兄が没した後、希義は駿河国香貫(現静岡県沼津市香貫町)で母方の伯父・藤原範忠によって朝廷に差し出された。そして頼朝公が伊豆へ配流になった同日、土佐国介良荘(現高知県高知市介良)に流罪となり、以後、「土佐冠者」と号した。

源希義、誅せらる

治承4年(1180)、以仁王の令旨を得て、頼朝公が挙兵すると、希義もまた、土豪の夜須行宗とともに源家再興に動き出す。しかし寿永元年(1182年)9月25日、夜須行宗が挙兵の準備を整えて希義を迎えようとした矢先、この動きは平重盛の家人である蓮池家綱、平田俊遠の察知するところとなる。

土佐の冠者希義は、武衛の弟(母は季範女)なり。去る永暦元年、故左典厩の縁坐に依って、当国介良庄に配流するの処、近年武衛東国に於いて義兵を挙げ給うの間、合力の疑い有りと称し、希義を誅すべき由、平家下知を加う。仍って故小松内府の家人 蓮池権の守家綱・平田の太郎俊遠、功を顕わさんが為希義を襲わんと擬す。
希義日来夜須の七郎行宗(土州住人)と約諾の旨有るに依って、介良城を辞し、夜須庄に向かう。時に家綱・俊遠等、吾河郡年越山に追い到り、希義を誅しをはんぬ。行宗は、また家綱等希義を囲むの由これを聞き及び、相扶けんが為、件の一族等馳せ向かうの処、野宮の辺に於いて希義誅せらるの由を聞き、空しく以て帰去す。(「吾妻鏡」)

希義は年越山というところで平重盛の家人に討ち取られてしまう。救援に向かった夜須行宗だったがざんねんながら間に合わず。行宗は海上紀伊へ逃れ、頼朝公の下に馳せ参じ希義が討死したことを伝えた。

頼朝公は希義の死を悲しみ、源有綱摂津源氏)に蓮池家綱・平田俊遠らの掃討を命じた。夜須行宗もまた、源氏の大軍の一翼を担い、蓮池・平田らを殲滅する。

そして頼朝公は希義の墓所として介良荘に寺院を建立し、菩提を弔うよう命じている。寺名は希義の法名「西養寺殿円照大禅定門」に由来して、西養寺となる。

ちなみに、「平治物語」では、「吾妻鏡」と異なる希義の最期を伝えている。蓮池家綱らに包囲された希義は持仏堂に入り、父・義朝のために日課としていた法華経を読み終えて自害したと書かれている。 

琳猷上人、希義の鬢髪を持参し頼朝と面会

希義の死後、師僧であった琳猷上人は、葬儀もされずうち捨てられていた希義の遺体を引き取り、懇ろに供養した。そして「吾妻鏡」によれば、文治元年(1185年)3月27日、上人は希義の鬢髪を首にかけて、鎌倉の頼朝公を訪れている。

土佐の国介良庄の住侶琳猷上人関東に参上す。これ源家に功有る者なり。去る寿永元年年、武衛の舎弟土佐の冠者希義、彼の国に於いて蓮池権守家綱が為討ち取らるるの時、死骸を遐邇に曝さんと欲す。爰に土人の中、自ら好忠の輩有りと雖も、平家の後聞を怖れ、葬礼の沙汰に及ばす。而るにこの上人、往日の師壇を以て、垣田郷の内に墓所を点じ、没後を訪い未だ怠らず。また幽霊の鬢髪を取り、今度則ち頸に懸け参向する所なり。走湯山の住僧良覺に属き、子細を申すの間、武衛御対面有り。上人の光臨を以て、亡魂の再来に用いるの由、芳讃を尽くさると。

頼朝公は「上人がおいで下さり、亡き希義の魂が再び訪ねてくれたようです」と感謝したとある。 

希義の男子・吉良八郎希望

 さて、「吉良物語」によると希義の死後程なく、希義が懇ろにしていた平田経遠の娘が男子を生んだという。そこで、夜須行宗はこれを鎌倉の頼朝公に知らせる。ところが梶原景時が、「申す所甚だ以て詐りなるべし」「あながちご許容なされ間敷き儀なり」と進言し、この件は捨て置かれてしまう。

なんでも景時は行宗との間に、壇ノ浦の戦いをめぐる論功行賞での遺恨があり、いけずをしたというのじゃ。

頼朝公もまた、にわかには信じなかったという。しかし、行宗が強いて言うので鎌倉に召し出し、話を聞いたうえでこれを認め、土佐国吾川郡のうち数千貫と、三河国吉良荘(現愛知県西尾市)のうち馬の飼場三百余貫を下賜したという。吉良八郎希望、このとき13歳であった。

ただし、「吉良物語」は後世の文献であり、「吾妻鏡」などの同時代史料には希望の記録がないため、真偽のほどはよくわからないけどな。

その後、鎌倉時代の吉良氏は北条氏の被官として臣従していたが、希望の6代後の希世・希秀兄弟は元弘の乱後醍醐天皇に味方し六波羅探題攻略に攻め込んできた。南北朝の争乱では、はじめ伊予の河野氏らとともに四国における南朝方の雄として活躍したが、後に土佐守護細川氏の傘下に走り北朝につく。そして応仁の乱にも軍功を立て、戦国時代には一条氏の下で、土佐七雄として割拠した。

話を戻して希義殿のこと。かりに頼朝公が土佐に、希義殿が伊豆に流されていたら、二人の運命はもちろん、日本の歴史は大きく変わっていたように思う。それと、頼朝公は弟たちに冷たかった印象がある。九郎殿しかり、蒲殿しかりじゃ。ただ、同腹の希義殿には、特別な思いがあったような気がするのだが、どうじゃろうか。