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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

小笠原貞宗~信濃守護、弓の名手として知られる小笠原礼法中興の祖

信濃守護の小笠原貞宗。松井優征さんの「逃げ上手の若君 」に北条時行の敵方として登場し、注目を集めているようなので、少し紹介しておこう。ちなみに、「逃げ上手の若君」では、こんな感じで登場するぞ。

小笠原貞宗

小笠原貞宗(松井優征「逃げ上手の若君」第1巻 集英社」

小笠原貞宗の出自

小笠原氏は、清和源氏の流れを汲む八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光を祖とする甲斐信濃源氏の嫡流である。甲斐国小笠原荘に生まれた始祖・小笠原長清は、源頼朝公に仕え、源平合戦にも参加している。

鎌倉時代のはじめ承久年間、小笠原氏の惣領は佐久を地盤とする伴野氏にうつっていた。しかし、霜月騒動で伴野長泰が安達に与したことから一族は没落し、所領は没収された。かわって惣領を継承することになったのが小笠原長氏で、その孫にあたるのが貞宗というわけじゃよ。

小笠原貞宗は永仁2年(1294)、小笠原宗長の子として生まれた。ちなみに宗長の「宗」は北条時宗公から、貞宗の「貞」は北条貞時公からの偏諱で、このことからも北条と蜜月だったことはおわかりじゃろう。

その後、貞宗は赤坂城攻め、千早城攻めにも出陣している。しかし、足利高氏が幕府に反旗を翻すとこれに呼応し、新田義貞の鎌倉攻めに参戦している。

信濃守護就任と中先代の乱

小笠原貞宗は鎌倉攻めの勲功により信濃守護に任ぜられ、「小笠原信濃守(信濃前司」と呼ばれようになる。旧北条氏所領である南信濃の伊那郡伊賀良荘(現長野県飯田市)を支配に置いた小笠原氏は、これ以後、伊賀良荘と国府のある府中(現長野県松本市)を拠点に、信濃統治にあたるのじゃ。

しかし、貞宗は信濃の統治に苦労する。もともと信濃国は北条氏の地盤であったことから、建武新政後も北条与党の反乱が続き、貞宗はその鎮圧に手を焼いている。その最大のものが「中先代の乱」じゃ。

小笠原貞宗は埴科郡青沼において時行軍と合戦し、これに敗れた。時行挙兵の報は関東各地で鳴りを潜めていた旧御家人や御内人の決起を促し、時行軍の関東進出を阻止することができなかった。

その後、足利尊氏が東下し、時行軍を破って鎌倉を奪還する。そして尊氏が建武政権から離反すると、貞宗もまた足利につくことを決断する。貞宗は尊氏上洛にあたっては信濃国人や一族を率いて畿内にも出陣した。近江では新田義貞と脇屋義助と戦い、佐々木道誉らと琵琶湖の湖上封鎖を行い、叡山に籠る後醍醐方をおいつめている。

北条与党の反乱、観応の擾乱…戦乱に翻弄される貞宗

室町幕府成立後も貞宗は信濃守護に任命されるが、金ヶ崎の戦い、青野原の戦いなど、依然として戦いに明け暮れる日々が続く。また信濃では北条与党はあいかわらず蠢動しており、南信には宗良親王を旗印とする南朝軍がおり、領国の統治もなかなかスムーズにはいかなかったようじゃ。

暦応3年/興国元年(1340)にha、伊那郡大徳王寺城に北条時行が挙兵する。このとき、時行はすでに南朝に帰順し、足利に徹底抗戦の構えを見せていた。貞宗は4か月にわたりこの城を攻め、ようやく落とすことができたが、時行は人知れず逃れ去っている。

南朝の抵抗がようやく収まってきた興国5年/康永3年(1345)、貞宗は信濃守護職、甲斐国原小笠原荘・信濃国伊賀良荘などの所領を嫡男の政長に譲る。しかし、その矢先、室町幕府では足利尊氏と直義の兄弟喧嘩がはじまってしまう。貞宗は高師直と親交が深いことから尊氏側に与し、新たに旧北条氏所領の春近領の半分を得ることに成功した。じゃが、春近領のもう半分は直義派の上杉藤成が知行したことから、以後、小笠原氏は観応の擾乱に翻弄されることになるわけじゃが、それは嫡子・政長の代でのこと。

正平2年/貞和3年(1347)、貞宗は京都で没している。

小笠原流礼法の中興の祖

小笠原氏の家紋「三階菱」

小笠原氏の家紋「三階菱」

小笠原氏はその後、信濃と京都に分かれ、庶流は信濃国内はもちろん、阿波、備前、備中、石見、三河、遠江、陸奥にも広がった。しかし、戦国期になると小笠原宗家は武田信玄の侵攻を受けて没落する。それでも本能寺の変以降は徳川家康に臣従し、江戸時代には小倉藩他4つの譜代大名が幕末まで続くことになる。

ところで、小笠原といえば礼法じゃな。「逃げ上手の若君」では、貞宗が弓矢の名手として登場するが、これは史実である。じっさい、貞宗は後醍醐天皇の弓馬の師となり、弓馬術や礼法を完成させた人物として知られておる。

後醍醐天皇は「小笠原は武士の定式なり」との御手判と「王」の字を家紋として、貞宗に授与したという。貞宗以降も小笠原家は代々将軍家の弓の師範をつとめており、現在も続く小笠原総領家では、貞宗を小笠原流礼法の中興の祖としている。

ということで、貞宗は後世における「武士の規範」とされた人物なのじゃが、なぜか「逃げ上手の若君」ではイロモノにされてしまっておる。これ、いつか小笠原総領家から抗議が来るのではないかと少々心配ではあるが、余計なお世話か。Twitter界隈では、北条時行との珍妙なやりとりがなかなか人気なようだし、本人は意外と喜んでおるかもしれぬな、知らんけど。

《参考文献》