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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

上総広常はなぜ殺されねばならなかったのか

すっかりごぶさたしてしまったが、きょうは書かずにはおれまい。そう、上総広常のことを。「鎌倉殿の13人」第15回「足固めの儀式」は、まさに神回じゃったぞ。

上総広常

上総介広常(大日本六十余将 Wikipedia

上総広常の出自

鎌倉殿による「天下草創」の生贄にされてしまった佐藤浩市さん演じる上総広常。まずは、その出自をみていこう。

上総氏の家祖は上総介、武蔵押領使に任官した平忠常で、坂東八平氏の一つ。上総氏は前九年の役後三年の役源頼義・義家父子に従って戦功を立て、以後、上総下総に広大な領地を有し、東国一の勢力を誇った。

上総広常は「上総介広常」と呼ばれるが、「上総介」は官位で、正式には平広常である。生年は不明。父は平常澄で、通称「介八郎」なので、おそらく八男だったんじゃろう。上総国はの大半をおさえ、広常は房総平氏惣領家頭首として、強大な勢力をもっていた。

上総介広常源義朝殿の郎党として保元の乱平治の乱を戦っている。義朝殿の長男・源義平殿に従い、義平十七騎の一騎にその名がみえるが、平治の乱に敗れると領国に戻って平家に従属する。その後、上総介の地位は平家の有力家人・伊藤忠清に奪われ、広常は煮え湯を飲まされることになる。

源頼朝に遅参を咎められる

そんなこともあってか、源頼朝公が石橋山の戦いに敗れ、安房国で再挙を図っているとの報せを受けると、上総介は隅田川辺に布陣する頼朝のもとに2万騎(たくさんという意味)を率いて参陣する。しかし頼朝公は、大軍を率いた広常の参陣を喜ぶどころか、逆にその遅参を咎めたという。それが「吾妻鏡」治承4年9月19日条に記されている。

上総権介廣常、当国周東・周西・伊南・伊北・廰南・廰北の輩等を催し具し、二万 騎を率い、隅田河の辺に参上す。武衛頗る彼の遅参を瞋り、敢えて以て許容の気無し。
廣常潛かに思えらく、当時の如きは、卒士皆平相国禅閤の管領に非ずと云うこと無し。 爰に武衛流人として、輙く義兵を挙げらるの間、その形勢高喚の相無くば、直にこれ を討ち取り、平家に献ずべしてえり。仍って内に二図の存念を挿むと雖も、外に帰伏の儀を備えて参る。然ればこの数万の合力を得て、感悦せらるべきかの由、思い儲くの処、遅参を咎めらるの気色有り。これ殆ど人主の躰に叶うなり。これに依って忽ち害心を変じ、和順を奉ると。

この場面は、大河ドラマでも描かれていたが、当初、上総介は2万の軍勢を背景に頼朝の器量を見定め、場合によっては討ち取ってしまおうと考えていたといわれている。じゃが、頼朝公の叱責を受けて、その器量に感じ入り、従うことを決めたというのじゃ。

もっとも「吾妻鏡」にはそう書かれているが、じっさいに上総介が遅参した理由は平家方を掃討していたからとされている。命からがら安房に逃れた頼朝公が、何事もなく上総を通り過ぎて下総に向かえたのも、上総介の尽力によるもの。源氏との縁が深い上総介は当初から頼朝公への合力を決意しており、この「吾妻鏡」の記述は創作が含まれていると考えてよいじゃろう。

上総広常が頼朝に期待したこと

上総介が頼朝公に期待したのは坂東武者の棟梁としての役割であった。そのため、富士川の戦いの勝利の後、上洛を急ごうとする頼朝公を、千葉常胤、三浦義澄とともに諫め、関東統治を盤石にすべく、常陸源氏の佐竹を攻めるよう進言している。

小松羽林(平維盛)を追い攻めんが為、上洛すべきの由を士卒等に命ぜらる。而るに常胤・義澄・廣常等諫め申して云く、常陸の国佐竹の太郎義政並びに同冠者秀義等、数百の軍兵 を相率いながら、未だ武衛に帰伏せず。就中、秀義が父四郎隆義、当時平家に従い在京す。その外驕者猶境内に多し。然れば先ず東夷を平らぐの後、関西に至るべしと。

やはり京都で生まれた頼朝公と土着の坂東武者の間には考え方の相違があったことはたしかで、それが後の上総介に悲運を招くことになる。

佐竹氏討伐でも広常は活躍する。上総介は佐竹氏とも姻戚関係があり、佐竹義政・秀義兄弟に会見を申し入れる。このとき秀義は金砂城に立て籠ったが、義政は誘いにのってやってきた。そこで上総介は、たがいに家人を退けて2人だけで話そうと義政を呼びよせ、殺害してしまうのじゃ。この勢いで頼朝軍は金砂城を攻めて佐竹を敗走させることに成功したのじゃ。

頼朝への尊大なふるまい

その後も、頼家の産養の儀式の奉行をつとめるなど、上総介は鎌倉殿の重心の一人として活躍する。じゃが、上総介は尊大なふるまいをすることが多かったらしい。たとえば「吾妻鏡」治承5年6月19日条には、頼朝公が三浦に納涼に出かけ御家人たちが供をしたときのこととして、上総介の逸話を記している。

武衛納涼逍遙の為三浦に渡御す。彼の司馬(三浦義澄)一族等、兼日結構の儀有り。殊に案内を申すと。陸奥冠者(毛利頼隆)以下御共に候す。上総権介廣常は、兼日の仰せに依って佐賀岡浜に参会す。郎従五十余人悉く下馬し、各々砂上に平伏す。廣常轡を安めて敬屈す。時に三浦の十郎義連、御駕の前に候ぜしめ、下馬すべきの由を示す。廣常云く、公私共三代の間、未だその礼を成さずてえり。 

御家人たちがみんな下馬して礼節を尽くしているのに、上総介だけは「祖父の代からそんなことはしたことがない」と下馬を拒んだというのじゃ。

さらにその日、上総介は岡崎義実に余計なことを言って、ひと悶着起こしている。

酒宴の際、上下沈酔しその興を催すの処、岡崎四郎義實武衛の御水干を所望す。則ちこれを賜う。仰せに依って座に候しながらこれを着用す。廣常頗るこれを嫉み、申して云く、この美服は、廣常が如き拝領すべきものなり。義實の様な老者を賞せらるの條存外と。義實嗔りて云く、廣常功有るの由を思うと雖も、義實が最初の忠に比べ難し。更に対揚の存念有るべからずと。その間互いに過言に及び、忽ち闘諍を企てんと欲す。武衛敢えて御詞を発せられず。 

義実が頼朝公に水干をもらったのをみて、上総介が「そういう綺麗な高貴な衣服は、俺がもらうべきで、お前のような年寄りには似合わない」と言い出した。これには義実も怒り心頭。「お前は兵がたくさんいるから偉そうにしているが、頼朝公旗揚げのときから参加している我々とは比べものにもならない」と反論すると、双方罵り合いとなり、今にも斬り合いになりそうな雲行きになる。

いくら酒の席とはいえ、じつにしょうもない喧嘩に、頼朝公はあきれて黙っていたという。ここは佐原義連が仲裁に入り、どうにか事は収まったが、上総介はいたるところでこうしたいざこざをおこしていたのかもしれん。このあたり、佐藤浩市さんの上総介はイメージぴったりじゃな。

上総広常

佐藤浩市さん演じる上総広常(「鎌倉殿の13人」)

上総広常、粛正される

そんな態度が気に食わなかったのか、その実力派を危険視されたのか、上総介はとつぜん頼朝公によって粛清されてしまう。寿永2年(1183)、木曽義仲との決戦直前のことである。

上総介暗殺について、「吾妻鑑」は事件当日の記事を欠いている。ただ、慈円の「愚管抄」から、その経緯をうかがい知ることができる。きっかけは梶原景時の讒言だされるが、頼朝公は初めて京に上洛した建久元年(1190年)、後白河法皇との対面の席でこう語ったという。

介の八郎広常と申し候し者は東国のノ勢人。頼朝打ち出で候いて君の御敵退け候はんとし候いし初めは、広常を召し取り手、勢にしてこそかくも打ちえて候しかば、功有る者にて候しかど、思い廻らし候えば、なんじょう朝家の事をのみ見苦しく思うぞ、ただ坂東にかくてあらんに、誰かは引働かさんなど申して、謀反心の者にて候いしかば、係る者を郎従に持ちて候はば、頼朝まで冥加候はじと思いて、失い候にきとこそ申しける。その介八郎を梶原景時をして討たせたる事、景時が功名と云うばかりなり。双六を打ちて、さりげなしにて盤を越えて、やがて首を掻き切りて持って来たりける。

平家を討伐できたのは上総介の功績が大きい。 しかし上総介は、「なぜ朝廷など見苦しく気にするのか。坂東で独立すれば誰も手出しできないではないか」などと常々語り、朝廷に対する謀叛心を持っていた。そんな家臣がいては頼朝の面目が立たない。そこで梶原景時に命じて、上総介を暗殺した。景時はを上総介を双六に誘い、隙をみて盤をとびこえ首を搔き切ったというのじゃ。

もちろん、これがどこまでほんとうなのかはわからない。単に頼朝公が朝廷に取り入るためのリップサービスだったという見方もできる。

ただ、直ちに上京して義仲と平家を討とうとする頼朝公と、あくまでも東国の自立を志向する上総介に間には、政治的な方向性の違いが少なからずあったのかもしれない。このあたりは「吾妻鏡」が欠落していて、どうもよくわからない。

ちなみに、上総介は交易を通じて奥州藤原氏とパイプをもっていたという説もある。頼朝公はこの時期、奥州藤原氏の動向をかなり警戒していたので、上総介と藤原秀衡が通じていることに疑念を持っていたとも考えられる。猜疑心の強いお人じゃからな、頼朝公は。

大河ドラマでは、頼朝公が御家人の中で確固たる実力をもつ上総介を、自らの権力基盤を確立するために、大江広元らと謀って謀殺したというストーリーになっていた。鎌倉殿に歯向かえば容赦はしないということを示すために、いわば生贄にされたという展開じゃ。佐藤浩市さん演じる上総介の無念の表情は、みていてじつにつらかったが、これが中世鎌倉の実態なのかもすれぬな。いたしかたなしじゃ。

上総広常の願文

ともかくも広常はあっけない最期を迎えた。嫡男・上総能常も自害においこまれ、上総氏は所領を没収され、房総平氏の当主は千葉氏が継承する。

そして後日談。上総一宮から上総介が奉納した鎧の中から、「願文」がみつかり、源頼朝公に提出された。その内容は、謀反を思わせる文章など微塵もなく、頼朝公の武運を祈るものであった。

敬白
上総国一宮宝前 立申所願事
一 三箇年中可寄進神田二十町事
一 三箇年中可致如式造営事
一 三箇年中可射萬度流鏑馬
右志者為前兵衛佐殿下心中祈願成就東国泰平也如此願望令一々円満者弥可奉崇神威光者也仍立願如右

治承六年七月日 
上総権介平朝臣広常

これを知った頼朝公は上総介を殺したことを後悔し、即座に広常の又従兄弟の千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免している。

大河ドラマ終了後、Twitterのタイムラインには、「頼朝嫌い」「全部大泉のせい」というのがあふれかえっていた。かつて「草燃える」では小松方正さんが演じていた上総広常は、もう殺されても仕方がないという感じのキャラじゃったが、今回は佐藤浩市さんがじつに愛すべき上総介を演じてくれた。

閑話休題 物語は義仲討伐、平家追討へとすすんでいく。

「一番頼りになる者は一番の敵にもなりうる」

これは、頼朝公の政治の基本スタンスであり、じょじょに北条義時公にも受け継がれていく。三浦義村が義時公に「お前は頼朝に似てきている」と伏線をはっていたじゃろう?

この先、繰り返される登場人物たちの死に視聴者は心を痛めていくことになるじゃろう。まだまだ序の口。北条得宗家推し以外の方は、覚悟しておいたほうが良いぞ。