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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

西南戦争・城山の戦いの地を西郷隆盛を偲んで歩いてきた

太守の鹿児島訪問記の最後はやはり「西郷どん」リスペクトで城山じゃ。鹿児島の市街地の中心部に位置する標高107mの城山は、錦江湾や桜島が望めるスポット。西南戦争最後の激戦が行われ、西郷隆盛が自刃した場所として有名じゃな。

城山から眺める桜島

城山展望所から眺める桜島

西郷らもここからこの景色を眺めたことじゃろう。なお、西南戦争の原因や経過、西郷の真意などについては、かなり以前にこちらに書いたので、よろしければ読んでみてほしいぞ。

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薩軍、九州各地で敗れる

「政府に尋問の筋これ有り」。明治10年2月15日、南国にはめずらしく雪が舞う中、西郷高森率いる薩軍は進発した。じゃが、薩軍は熊本城攻防戦など九州各地で敗れ、8月15日、西郷は延岡で「解兵令」を出して軍を解散した。

我軍の窮迫、此に至る。今日の策は唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際諸隊にして、降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。唯其の欲する所に任ぜよ。

この時、西郷のもとに残った兵は600(「新編西南戦史』)と言われる。そして9月1日、「どうせ死ぬなら鹿児島で」と、薩軍は血路をひらいて薩摩に戻ってきた。すでにこの時、鹿児島は政府軍の占領下にあったが、兵の数は少なく、鹿児島の人たちも協力的で、薩軍は城山を占拠した。

「晋どん、もうよか」…西郷隆盛、城山で自刃

西郷洞窟

西郷洞窟

薩軍は城山の高所に本営を置き、西郷自身は側近とともにそこから東に下った岩崎谷の洞窟を居所にした。側には桐野利秋、村田新八、池上四郎、別府晋介、辺見十郎太、野村忍介といった幹部たちが従う。

やがて山県有朋率いる陸軍と川村純義率いる海軍が鹿児島に到着する。山県は城山を包囲すると、海上からは軍艦による砲撃を盛んに行った。

敗戦が必至となる中、薩軍の中では密かに西郷の助命嘆願の動きが出た。河野主一郎と山野田一輔は「法廷の場で義挙の大義を明らかにする」と、西郷や桐野に嘘をついて使者となり、西郷の縁戚である川村純義に面会を求めて陣を離れた。

9月22日、西郷は「城山決死の檄」を出す。

今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を以て、大義名分を貫徹し、法庭に於て斃れ候賦(つもり)に候間、一統安堵致し、此城を枕にして決戦可致候に付、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可有之候也。

9月23日、川村は西郷に無条件降伏を要求し、西郷を差し出すなら命は助けるとし、その回答期限を午後5時とした。また山県は西郷宛に自刃を求める書簡を出した。じゃが、西郷はすでに覚悟を決めていたようで、いずれも「回答の必要はなし」と黙殺した。

決戦前夜、西郷の周りでは最後の宴が催された。死を前にした悲壮感は微塵もなく、まるで祝宴のようであり、夜空には数十発の花火が上げられたという。

9月24日午前3時50分、政府軍は一斉に砲撃を開始した。洞窟の前では桐野ら幹部が西郷の閲兵を受け、その後、敵陣目掛けて岩崎谷を駆け下り、最後の抵抗を示した。

西郷隆盛終焉地

西郷隆盛終焉地

じゃが、衆寡敵せず、西郷は腰と太ももに銃弾を受ける。「晋どん、もうここらでよか」。西郷はそういうと、天皇がいる東方を遥拝し、別府晋介の介錯によって最期を遂げた。享年50。

そして西郷に従った桐野利秋、村田新八、桂久武、辺見十郎太ら幹部も自刃、あるいは戦死し、これによりわが国最後の内乱・西南戦争は終結した。

西郷の遺体が発見されたとき、山県有朋は「翁は誠の天下の豪傑であった。残念なのは翁をここまで追い込んだ時の流れである」と語り、黙祷を捧げたと伝わっている。

「私学校」とは何であったのか

私学校跡

私学校跡

城山の麓には私学校跡がある。「征韓論」に敗れて下野した西郷が、鹿児島の士族の教育のために、鶴丸城の厩跡に創設したものじゃ。

生徒の数は約100人で、県内には多数の分校があった。教務は漢文の素読と軍事教練が主で、入学できるのは士族、それも元城下士出身者に限られていた。こうしたことから、私学校設立の真の目的は、不平士族の暴発を防ぐことにあったといわれている。西郷自身はロシアの南下を見越し、その時に備えて兵を調練していたという説もあるが、その辺りはよくわからない。

ただ、鹿児島県令の大山綱良は、私学校の者を県の要職につけた。私学校という強大な軍事力で、薩摩をはさながら独立国家のようであった。大久保利通は「薩摩の好き勝手をなんとかせよ!」と木戸孝允らに詰め寄られていたようじゃ。

西南戦争の発端は、この私学校生徒の暴発であった。小根占にいた西郷はその報せを聞いて「ちょっしもた!」と叫んだというから、少なくともこの時点で兵を挙げることは考えていなかったはずじゃ。私学校の幹部をカンカンになって叱ったとも言われておる。

じゃが、結局は率兵上京を決意する。廃刀令、秩禄処分で疲弊困窮し、しかも武士の誇りを奪われたと感じる士族の不満を西郷をもってしても、もはや抑えることはできなかったのじゃろう。

かくして西郷隆盛は時代に翻弄され、この世を去った。私学校跡の石垣には多くの弾痕が多数残っており、この戦いの激烈さを今に伝えている。

西郷の真意、大久保の涙

西郷隆盛像

西郷隆盛像

西郷隆盛像は没後50年祭記念として、鹿児島市出身の彫刻家・安藤照が製作した。安藤は渋谷の忠犬ハチ公をつくった人じゃな。

わが国初の陸軍大将の制服姿で、城山を背景に仁王立ちする西郷は堂々たる姿である。ちょうど道路を挟んだところには撮影スポットが設けられており、わしも一枚撮ってきたぞ。

けっきょく西郷は敗れてしまうわけじゃが、西南戦争を通じて自ら指揮をとったのはこの城山の戦いと和田超えの戦いくらいなもので、ほとんど幹部に任せきりであった。もちろん軍略家としての才が必ずしも西郷にあったとは思えないから、それはそれでよいのかもしれない。ただ、倒幕を遮二無二推し進めた時の西郷の姿勢とは明らかに異なる。捨て鉢とは言わぬが、運命に身を委ねていたということなんじゃろうか。

大久保利通像

大久保利通像

私学校徒暴発の報せを聞いた時、大久保利通は伊藤博文に対して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候ぐらいにこれあり候」と、鹿児島の暴徒を一掃するチャンスであると書簡で述べている。じゃが、西郷がそれに関与しているとは毛頭思っておらず、西郷にかぎって「無名の軽挙」をやらかすことはないだろうと綴っている。

大久保は西郷の関与はないと確信していた。じゃが、西郷が兵を率いて鹿児島を出立したという確報を聞くと「そうであったか」と言い、涙を流したという。

そのうえで大久保は、自分が西郷と話せば事はすぐに収まると鹿児島行きを希望する。じゃが、大久保が暗殺されることを危惧した伊藤博文らに反対され、これは実現しなかった。

西郷の死を聞いた大久保は、伊藤博文や黒田清隆に対しては平静な態度をみせていた。じゃが、妹のみね子の回想によると、帰宅した大久保は号泣して時々鴨居に頭をぶつけながら家の中をぐるぐると歩き回っていたという。

いつも冷酷なリアリストと呼ばれる大久保でも、西郷の関与はどうしても信じられず、その死はよほどこたえたのじゃろう。暗殺された時、大久保は西郷からの手紙を所持していたとも言われている。

大久保も俄には信じなかったという西郷挙兵。政府に不満はあっても内乱の馬鹿馬鹿しさ、愚かさを知っている西郷じゃ。「なぜ?」という疑問は拭えぬし、西郷の真意が何であったのかは結局謎ではある。じゃが、西南戦争は薩軍の無策、大久保による迅速な増援部隊派遣で短期間のうちに決着がついた。

これ以後、政府への攻撃は武力ではなく言論をもって行われるようになっていくのじゃ。

西郷隆盛激戦の跡、城山を歩く

最後にいちおう城山史跡探訪のモデルコースをまとめておく。ここで紹介したスポットを巡る場合、乗り放題の周遊バス「カゴシマシティビュー」の利用がおすすめじゃよ。

  • 西郷隆盛像
  • 小松帯刀像
  • 鶴丸城跡(篤姫さまの像もある)
  • 私学校跡

まずはざざっとこの辺りを見て、その後はバスで城山展望台まで一気にあがろう。山道を登るのは結構しんどいからな。

  • 城山展望台、薩軍本営跡(ドン広場)
  • 西郷洞窟
  • 西郷隆盛終焉の地

城山展望台から桜島と錦江湾を眺めて、薩摩兵児の気分を味わったら、徒歩で岩崎谷の西郷洞窟まで下る。近くの土産物屋にも西郷洞窟ぽいものがあるが、それではないから気をつけるべし。

そして、西郷隆盛終焉の地まで、西郷や桐野ら気分で「チェスト!」と歩くのがおすすめじゃ。

これらは頑張ればおそらく半日でいけるじゃろう。そのうえで余力があればバスで西郷南州顕彰館、仙厳園へ足を伸ばすことをお勧めする。篤姫さまがお好きであれば、途中、今泉島津家跡に立ち寄るのもよいぞ。じゃが、今泉島津家跡は石塀しか残ってないけどな。

もちろん、朝早く起きて西郷や大久保が生まれ育った甲突川、加冶屋町あたりをぷらぷらするのもよい。ただ、さすがに全部1日で回るとなると、ちょっとしんどいかもしれぬから、自己責任で計画的に回ってほしい。天文館で白くまアイスも食べたいしな(じつは仙厳園でも食べられるぞ)。

天文館 白くまアイス