NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がはじまった。久しぶりの鎌倉時代、しかも主人公が得宗家の祖・北条義時公。これはもう期待するしかないわけじゃが……いきなり「ぞっこん」「首ちょんぱ」など、三谷幸喜さんらしいコメディタッチな演出が物議をかもしているようじゃ。わしはそんなこと気にせず大笑いしながらみておったけど、なかなかめんどうじゃな。
三谷さんは「『吾妻鏡』という、克明に当時の記録が記された文献がある。もうこれが原作のつもりで書いてます」と語っておられる。これがネタ本ということになるわけじゃが、今日はその『吾妻鏡』について紹介することにしよう。
『吾妻鑑』(『東鏡』)とは
『吾妻鑑』(『東鏡』)は、いわば鎌倉幕府お墨付きの公式記録。治承4年(1180)4月の源頼政の挙兵から、文永3年(1266)7月、宗尊親王さまの帰洛まで、鎌倉幕府に関する事績が編年体に記された史書じゃ。初代将軍・源頼朝公から歴代の鎌倉殿の将軍記という構成で、全52巻(ただし第45巻は欠)から成っている。鎌倉時代研究における基本史料といってよいじゃろう。
編纂時期は13世紀末から14世紀初頭にかけて。そう、北条得宗家の全盛時代じゃ。そのため、北条にとって都合が悪いことが記載されていない、ねじまげられているなどの指摘は多い。また、当時流布していた伝承などもソースにしていることから、ぜんぶをまるっぽ信用するわけにはいかないといわれておる。
『吾妻鏡』は原本が残っていないばかりか、そもそも近世以前に完本に近い形で伝わった写本もなかったらしい。また、写本にもいくつかの種類があるが、中でも重要なものは、吉川本、北条本、島津本の3種。詳細は書くのがめんどうだから省くが、北条本についてだけ少し。
北条本は、江戸時代初頭より多くの刊本の底本として利用されてきた。北条本という名称は、戦国期に金沢文庫をおさえていた小田原北条氏の所蔵であったことからきているようじゃ。
その後、天下が治まり、徳川家康が所持していたものに、小田原北条氏から黒田家を経て徳川秀忠に献ぜられた本などが増補され、51冊に仕立てられたものと考えられている。江戸幕府の紅葉山文庫を経て、現在は内閣文庫の所蔵となり、重要文化財に指定されておるぞ。
ところで『吾妻鏡』は、建久6(1195)年12月22日、頼朝公が友人の家に遊びに行ったという記事を最後に、建久7(1196)年から建久10年1月までの記録が欠けている。そして唐突に、建久10年2月6日、頼家公が後を継いで鎌倉殿となった、という記述から再開されている。
つまり頼朝公の死に関する数年分が欠落しておるのじゃ。ゆえに、「よほど都合が悪いことが書かれていたのでは?」と妄想をかきたてられる人は少なくない。じっさい、源頼朝公を尊崇していた徳川家康が、「名将の疵に成る」とその部分を『吾妻鏡』から削除させたとという噂もある。じゃが、これはまったくの俗説らしいな。
これ、あえていうけど、頼朝公のところは未完だったんじゃよ、きっと。編纂中に欧州で反乱がおこったり、後醍醐帝が挙兵した、幕府がそれどころではなくなったんじゃよ、たぶん。
頼朝公の死因は落馬がもとでの病死。これはほぼ間違いないんじゃ。北条の陰謀とかそういう謀略めいたものはないんじゃよ、おそらくな。
『吾妻鑑』の曲筆
ただ、多少の曲筆があることは否定しない。たとえば、源頼家公がまったくのダメ将軍に描かれているのは、『吾妻鏡』の典型的な曲筆だとされている。所領をめぐる訴訟で「土地なんぞ運不運じゃ。これでいいんだ!」と真ん中に一本線を引いたという有名な逸話も『吾妻鏡』によるものじゃ。
また、頼家公が将軍の座を降りたのは、『吾妻鏡』によれば建仁3年(1203)9月2日の比企の変の直後のこと。9月7日に出家し、10日には実朝公が将軍になることが決定したとある。しかし、同時代の公家の日記によれば、頼家公は9月1日に病死しており、実朝公を将軍にするように要請する死者は、すでに9月7日に京都へ到着しているのじゃ。
これはもう、頼家公の将軍廃立を北条が早くから計画していたという「史実」は拭い去ることはできないじゃろう。しかも、頼家公の死についての『吾妻鏡』の記録はあっさりしたものである。
酉の刻、伊豆の国の飛脚参着す。昨日(十八日)左金吾禅閤(年二十三)、当国修善寺に於いて薨じ給うの由これを申すと。(建仁4年7月19日条)
ちなみに『愚管抄』には、頼家公の最期がかなり克明に描かれている。なかなかリアルだが、慈円はだれかに聞いたんじゃろう。
修善寺にて、また頼家入道をば指ころしてけり。とみにえとりつめざりければ、頸に緒をつけ、ふぐりを取などしてころしてけりと聞えき。
これ、幕府の公式記録には、とても書けないw
というように『吾妻鏡』は北条氏を美化する曲筆が随所にみられるというんじゃな。頼家公、実朝公を貶め、得宗家の義時公、泰時公、時頼公のよいしょ記事を書くことで、北条の政権奪取、得宗専制を正当化していると。でもこれ、編纂者が勝手に「忖度した」だけで、得宗家が命じたわけではないぞ、たぶん。
ちなみに、『吾妻鏡』の編纂者は、その当時に問注所執事であった太田時連を中心になり、幕府奉行人がまとめたという説が有力じゃ。いずれも三善康信や大江広元、二階堂行政ら幕府草創期の文官たちの子孫じゃ。彼らは彼らで、ご先祖様を顕彰する創作話をちょろちょろといれておるんじゃよ。
いずれにせよ、あくまでもこれ、忖度じゃから。得宗が命じたわけじゃないし、これはもうしかたがないというか、この程度はかわいいもんじゃろう。安倍晋三元首相に忖度した官僚たちもやっているけど、べつにお咎めなしじゃろ?
少なくとも、三谷さんは『吾妻鏡』をネタにしているわけで、「鎌倉殿の13人」を予習するのに『吾妻鏡』が好適なことはまちがいない。このドラマ自体が、義時公を顕彰するためのものといえなくもないしな。じゃから、時政公の「首ちょんぱ」発言なんぞにめくじらたてることなく、義時公の信念・志と、それを受け継いでいった得宗歴代に思いをはせながらドラマをみてもらえたら幸甚じゃ。
蛇足ながら少しだけ「鎌倉殿の13人」の感想を少々
で、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」について。初回放送はたしかにドタバタコメディ風だったけど、この頃の坂東って、意外とこんな感じだったような気がする。だれかが頼朝公の頃の鎌倉を「関東源組」と形容していたが、坂東武者なんて粗野で野蛮でたらめで、都からみたら広域指定暴力団。それをなんとか義時公や泰時公がまとめ、統治機構として整備していったわけで、伊豆でドタバタしていた頃はみんなポンコツだったはず。だから、ドラマが醸し出す空気感はリアルな感じがするんじゃ。まさか極道風の演出は、日曜夜のあの時間帯にはできないじゃろうしな。
ただ、頼朝公が八重姫との関係がバレて伊東祐親の監視下を逃げ出した1175年といえば、小栗旬さん演じる義時公は13歳、山本耕史さん演じる三浦義村に至っては8歳という計算になる。さすがにそこは無理があるなあと思ったが、これはまあ、許容範囲。少なくともわしは「シジツガー」にはならんかったぞ。
それよりも気になるのはガッキー八重姫と義時公のこの後がどうなるかじゃ。どうやら八重姫は自殺はしないで、義時公と結ばれ、生まれる子が泰時公という設定らしい。ふーん、だから、泰時公は庶子なのに家督を嗣ぐわけじゃな。まさか千鶴丸が生きていてそれが泰時公…さすがにないか。それやると、得宗家が源氏になっちゃうw
まあ、泰時公を誰が演じるのかも楽しみじゃが、それはもう少し先の話ということで。