大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習のため、13人を順番にまとめていく企画の8人目は八田知家のこと。南朝の臣として活躍、戦国時代まで続いた常陸小田氏の祖じゃ。
八田知家の出自~源義朝の時代から源家に仕える
八田氏の祖は下野の宇都宮宗円に始まり、関白藤原道兼(道長の兄)につながるらしい。八田知家は康治2年(1143)、宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男として生まれた。母は宇都宮朝綱の娘八田局。源義朝殿の落胤という異説もあるが、もちろん伝承にすぎない。じゃが、保元の乱では源義朝殿の与党として戦い、武功をあげている。
源頼朝公の挙兵にも早くから従い、寿永2年(1183)、頼朝公の叔父・志田義広が鎌倉をめざして常陸から下野に侵攻を企てた野木宮合戦では、小山朝政に加勢して戦っている。これを機に、知家は常陸国に勢力をもつようになる。
その後、知家は源範頼殿が率いる平氏追討軍に従軍して活躍。じゃが、九郎殿と同じように頼朝公の推薦もなく、朝廷から無断で右衛門尉の官位をもらってしまったことから、頼朝公から「鎮西に下向するの時、京に於いて拝任せしむ事、駘馬の道草を喰らうが如し(鎮西に下向する途中に京で任官するなど、駄馬が道草を食うようなものだ)と罵倒されている。いやはや、さぞかし肝を冷やしたことじゃろう。
また、家臣が内裏の夜間警備に遣わされたが、それが怠慢であるとの風聞がたって、知家は罰として鎌倉中の道路を整備するよう命じられたりもしている。
そんな知家じゃが、万寿さま(頼家公)が初めて甲冑を着ける儀式が行われたとき、鞍を置いた黒馬を献上するなど、頼朝公への配慮もみてとれる。奥州藤原氏攻めでは、千葉常胤とともに福島浜通り方面から侵攻する東海道大将軍をつとめているから、頼朝公からそれなりに信認を得ていたのじゃろう。
その後も、万寿さまの小笠懸で、知家は行縢(むかばき)と沓を献上したり、頼朝公上洛にあたっては、馬の手配・管理にあたっている。
また、頼朝公の暗殺を企てた「悪七兵衛」こと平景清の身柄を預かったのも知家だった。はじめ景清は和田義盛に預けられたのじゃが、和田邸で勝手気まま、傍若無人な振る舞いを続けたため、困り果てた義盛は誰か他の人に預けてくれと頼朝公に懇願した。そこで景清を預かったのが知家というわけじゃ。ちなみに景清は自ら飲食を絶って翌年に死亡している。
こうしてみると知家が地道に御家人としての地歩を固めていったく様子が窺い知れるな。
建久四年の常陸政変
知家は常陸小田氏の祖にあたるが、常陸に勢力をもつようになった経緯には、いささか胡散臭い話がある。「建久四年の常陸政変」じゃ。
八田知家は常陸大掾・多気義幹と所領が隣接しており、諍いが絶えなかった。そもそも多気義幹は常陸平氏本宗系であり、実弟の下妻広幹とともに、知家による常陸守護支配を面白く思っていなかった節がある。
そんな中、建久4年(1193)5月、曽我兄弟の仇討ちが発生する。このとき、八田知家は「知家が多気義幹を討とうとしている」と噂を流した。義幹はこれを信じ、すぐさま多気山城に兵を集めた。すると知家は何食わぬ顔で義幹に使者を送り、「頼朝公がいる富士野で曽我兄弟による狼藉があったので、富士野へ同道してほしい」と要望する。義幹は「これは罠に違いない」と守りを固めたが、知家は「義幹が謀反を企てている」と鎌倉に訴えた。
「吾妻鏡」建久4年6月22日の条には次のように記されている。
多気の義幹召しに応じ参上するの間、善信・俊兼等奉行として、知家を召し決せらる。知家訴え申して云く、去る月祐成が狼藉の事、今月四日承り及ぶに随い参上せんと欲す。而るに義幹を誘引すと雖も、義幹一族郎従等を集め、多気山城に楯籠もり反逆を企つと。義幹陳謝す。その趣明らかならず。但し城郭を構え軍士を聚むるの事に於いては、承伏し遁るる所無し。仍って常陸の国筑波郡・南郡・北郡等の領所を収公せられ、その身を岡部権守泰綱に召し預けらると。所領等に於いては、則ち今日馬場の小次郎資幹に賜ると。因幡の前司廣元これを奉行す。
知家は仇討事件を知り、義幹にともにはせ参じようと提案したのに、義幹は兵を集めて叛逆を企てたと主張した。義幹は反論したが受け入れられず、実際に兵を集めて立て籠ったことから、その所領と常陸大掾の役職は同族の馬場資幹に与えられた。なお、その後の義幹がどうなったのかははっきりしないが、おそらく消されたのじゃろう。
そして同年12月13日には、義幹の実弟・下妻弘幹が頼朝公の命により、北条時政に宿意を抱いたことを理由に処刑されている。手を下したのは八田知家じゃ。
前の右衛門尉知家に仰せ、常陸の国の住人下妻の四郎弘幹を梟首す。これ北条殿に於いて宿意を挿む事有り。常に咲いの中に刀を鋭ぎ、ただ心端は簧以てす。而るに近日自然露顕するが故なり。
曽我兄弟の仇討については、頼朝公暗殺やクーデター計画が背後にあったのではないか、との研究もあり、なんともこれが絡むあたりが胡散臭いのじゃが、「建久四年の常陸政変」に関して、北条と知家が結託したことだけは、明らかじゃろう。
ともかくも知家はこの後、筑波南麓一帯を所領として常陸国守護としての支配を確立する。そして小田に居を構え、やがて小田氏を称するようになるのじゃ。
十三人の合議制、幕府宿老として
頼朝公が没し、源頼家公が将軍になると、知家は十三人の合議制に名を連ねる。義朝殿以来の宿老じゃから、これは当然じゃろう。
建仁3年(1203)、頼朝の弟の阿野全成が実朝公擁立を画策したという嫌疑により、常陸国に配流となったが、このとき知家は頼家公の下知に従って全成を誅殺している。知家は「吾妻鏡」にちょくちょくその名がみられるが、これが記録に残る最後の事績である。
建保6年(1218)、八田知家没。享年75歳。義朝から実朝まで源氏4代に仕えた生涯であった。
なお、知家の子孫である小田氏はその後、北条と誼を通じ、歴代得宗から偏諱をうけている。そして8代小田治久は、はじめ、わし高時より偏諱を賜い「高知」と名乗った。陸奥安藤氏の乱の鎮圧では功をあげ、元弘の乱でも幕府軍に従って戦った。
じゃが、鎌倉が陥落すると、幕命で常陸に流されていた万里小路藤房を助けて上洛し、その功により後醍醐天皇に仕えて「尊治」の一字をもらい、「治久」に改名している。
ちなみに、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で八田知家を演じる役者は発表されていない。こうしてその生涯を俯瞰してみると、ドラマ展開的には特別重要なキャストという感じはしないが、13人の宿老の一人ではあるから、なんらかのカタチで出てくることは間違いない。どんな役回りになるのか、楽しみにしておくとしよう。
小田治久については、またあらためて。