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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

北条義時のこと~源頼朝の「家子専一」 鎌倉を託された得宗の祖

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習のため、13人を順番にまとめていく企画のラスト13人目は北条義時公のこと。執権政治を確立し、武家の都・鎌倉の基盤をつくった「得宗」の祖、ドラマで演じるのは小栗旬さんじゃよ。

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ちなみに、マツケンさんが義時公を演じた「草燃える」についてはこちらに記事を書いたので、よければそちらをみてほしい。松平健さんは、じつに素晴らしい義時公を演じてくれておるぞ。

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「家子の専一」源頼朝公の側近として

源頼朝

源頼朝

北条義時公は長寛元年(1163)、北条時政公の次男として生まれた。母は伊東入道(祐親?)の娘とされ、同母兄に宗時殿、同母姉に政子さまがいる。通称は江間小四郎、北条四郎。ただし、幼少期については後世に伝わる逸話は少ない。

義時公が歴史の表舞台に出てくるのは治承4年(1180)8月の源頼朝公の旗揚げからである。義時公は父や兄と頼朝公の挙兵に従うが、石橋山の戦い大庭景親に敗れてしまう。この戦で嫡男である兄の宗時さまが戦死してしまい、義時公の運命も大きく変わっていくことになる。

吾妻鏡」によれば、義時公は時政公とともに安房に逃れた頼朝公と合流し、その後は父・時政公とともに甲斐に向かう。時政義時父子は武田氏を糾合して駿河に進攻する(鉢田の戦い)。武田を味方につけた北条父子は、富士川の戦い勝利における影の殊勲者といってよいじゃろう(諸説ありじゃが)。

義時公はこの頃から頼朝公の信認く、養和元年(1181)4月7日には、頼朝公の寝所を守る11人の一人に選ばれている。この11人は弓矢に優れ、隔心のない頼朝公の親衛隊として「家子」と呼ばれたが、義時公はその中でも「家子の専一」とされ、格別な存在であった。義時公19歳のときのことである。

義時公が頼朝公の信頼を確実にしたのは、やはり亀の前事件じゃ。寿永元年(1182)11月、岳父・牧宗親が頼朝公に辱めを受けたことから、時政殿が怒って伊豆に引きこもったとき、義時公は父に従うことなく鎌倉に残った。頼朝公はこれを激賞する。

(牧)宗親奇怪を現すに依って勘発を加うの処、北條(時政)欝念に任せ下国するの條、殆ど御本意に違う所なり。汝吾が命を察し、彼の下向に相従わず。殊に感じ思し食すものなり。定めて子孫の護りたるべきか。今の賞追って彼に仰せらるべしてえり。(「吾妻鏡」 寿永元年11月14日の条)

義時公の冷静沈着ぶりを伺い知る逸話であるし、義時公が頼朝公に心酔していた様子もわかるではないか。

その後、義時公は源範頼殿に従って西海に向かい、文治元年(1185)正月には豊後国葦屋浦で平家の家人・原田種直父子を破る。頼朝公はこの戦功を大いにほめ、みずから書状をしたため称賛している。建久元年(1190)11月、頼朝公上洛では、義時公はこれに供奉し、六条若宮、石清水八幡宮の参拝や、後白河院御所参向に従っている。

建久3年5月のこと。義時公の嫡子・金剛(後の泰時公)が歩いていたところ、多賀重行が乗馬のまま金剛の前を通過したことを理由に所領を没収される事件がおきている。このとき頼朝公は重行にこう述べたという。

礼者老少を論ず不可。且は又、其の仁に依る可き事歟。 就中に、金剛の如き者、汝等傍輩に准う不可事也。爭か後聞を憚ら不哉。

「礼儀は長幼の順を論ずるべきではない。その人の身分によるべきである。とりわけ、金剛ほどの者が、お前らなんぞと一緒なわけがない」これもまた、頼朝公と義時公の格別な関係をうかがい知る逸話といえるじゃろう。

ちなみに、義時公の最初の妻は比企朝宗の息女・姫の前じゃが、なかなかの美女であったらしい。義時公は姫の前にひとめぼれし、頼朝公にその中をとりもってもらったのじゃよ。

なぜ北条義時は父・時政を追放したのか

北条時政

北条時政

正治元年(1199)正月、頼朝公が没すると、頼家公が将軍につく。しかし、頼家公のふるまいは御家人たちの反発を招き、幕政は宿老13人による合議制により運営されることになる。ここで暗躍を始めたのが北条時政殿じゃ。

まず鎌倉を追われたのは梶原景時じゃ。景時の失脚は御家人の総意によるもので、時政殿は直接関与したわけではない。じゃが、なんだかんだ陰で煽っていたことは想像に難くない。

時政公が政治の実権を握る契機となった事件が比企能員の変である。頼家公は比企ばかりを重んじて北条を蔑ろにするところがあり、これには政子さまも不満を持っていた。そんな矢先、頼家公が病に倒れる。時政公はこの時を逃さず、比企能員を自邸に呼び寄せて暗殺。頼家公の嫡子・一幡が拠る小御所を襲撃して比企一族を滅ぼしてしまうのじゃ。

その後、頼家公は伊豆に押し込められて暗殺され、3代将軍には弟の実朝公が12歳で就任する。時政殿は自邸に実朝公を迎えると、外戚という立場から幕府執権として政治の実権を握ることに成功する。この頃、義時公もまた父に従い、信濃守護、大隅守護となり、元久元年(1204)には従五位下相模守に叙任されている。

つづいての粛清されたのが武蔵の有力御家人畠山重忠じゃ。重忠は、時政公の後妻・牧の方の讒言によって謀反の嫌疑をかけられ、討伐されてしまうのじゃ。当初、義時公は弟の時房殿とともに時政殿を大いに諫めたという。じゃが、最終的には父の命に従い、重忠討伐の兵を出している。重忠を討ち、鎌倉へ戻った義時公は、これがまったくの讒訴、冤罪であったことを時政殿に報告している。

時政殿のやり口には批判もあるじゃろうが、おかげで北条は大きな政治力を持つようになった。しかし、時政殿はやりすぎた。なんと今度は、牧の方といっしょになって、実朝公を殺害し、娘婿の平賀朝雅を将軍にする陰謀を企てたのじゃ。父のこの暴挙を察知した政子さまと義時公は実朝公を時政邸から自邸に迎え、事件を未然に防ぐ。

これにより時政殿は出家のうえ伊豆北条に逼塞させられ、以後は、政子さまを擁する義時公が中心となって、幕政を執りしきっていくことになるのじゃ。

この一連の騒動は、時政殿の後妻と前妻の子による確執とみる向きもあり、政子さまと義時公によるクーデタという人もいる。また、そもそも、時政殿は義時公を嫡男としては位置づけていなかったという説もある。というか、じつはわしもそう思っている。

いずれにせよ、義時公が北条の家督を継ぐことにより、鎌倉幕府は繁栄、安定の道へとすすんでいくことになったことだけは確かじゃろう。

北条義時和田義盛を罠にはめたのか

和田義盛

和田義盛

かくして義時公は北条の家督を継いだのじゃが、もちろん、その地位は盤石ではなかった。とくにめんどうくさいのが和田義盛じゃ。

義盛は頼朝公股肱の臣として、侍所別当として自負心が強かったようじゃ。「自分を上総国司にせよ」と言い出したのは、相模守の義時公、武蔵守の時房殿への対抗心にしか他ならない。何かというと「俺が俺が」というキャラには、将軍実朝公も義時公も内心困っていたのではないだろうか。

そんな矢先に起こったのが「泉親衡の乱」じゃ。義時公を討伐しようとしたこの事件は未然に発覚し、事なきを得たのじゃが、親衡に与同した武士はかなりの数に上り、その中に和田一族の者が名を連ねていた。

かくして「和田義盛の乱」が起こるわけじゃが、その詳しい内容は別記事を読んでいただくとして…

和田義盛の乱」については、義時公が義盛に濡れ衣を着せて挑発し、これ幸いと滅ぼしたと見る向きが多い。じゃが、泉親衡程度の人間にそれほどの協力者が集まるとは思えず、黒幕は和田義盛だったのではないかという説もある。あるいは、義盛はあずかり知らぬところではあったが、その一族や縁者が忖度して動いたことも考えられる。

しかも和田義盛の乱では、縁者の三浦が北条に与している。この事実をもってしても、大義は義時公にあったとわしは思うのじゃが、それはひいきの引き倒しじゃろうか。

実朝暗殺の黒幕は北条義時なのか

源実朝暗殺

源実朝暗殺

かくして義時公は政所別当と侍所別当を兼任し、名実ともに執権として幕政を牛耳ることになったのじゃが、ここでとんでもない事件が起こる。3代将軍源実朝公が暗殺されてしまったのじゃ。

この事件についても、義時公は実朝公暗殺の黒幕としての疑惑が今なおささやかれている。事件直前にお腹が痛くなって難を逃れたというのはできすぎだ、というわけじゃな。また、源氏が滅んで一番得をしたのは北条ではないか、という意見もある。

じゃが、この事件については、義時公黒幕説はまったくの濡れ衣であろう。そもそも義時公にとって実朝公暗殺はリスクこそあれ、メリットはぜんぜんない。おなかが痛くなったのは、義時公の類まれなる幸運か危機察知能力であり、この事件は公暁の単独犯行と考えるのが自然である。そのあたりの詳細は、下記を読んでもらえれば幸いじゃ。

承久の乱の勝利で鎌倉を盤石に導く

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇

さて、こうした鎌倉の混乱を見逃さず、義時追討に動いたのが後鳥羽上皇である。「承久の乱」は義時公にとって最大のピンチであったといえよう。

承久の乱については、「鎌倉は勝つべくして勝った」というようなことがいわれる。しかし、実際はそんな簡単なことではなく、動員兵力は鎌倉も朝廷も拮抗していたとみてよい。

そもそも「朝敵」にされるというのは、武人にとっては耐え難いものであり、じっさい義時公は泰時公の出陣にあたっては「後鳥羽院が戦場に出てきたら降伏せよ」といったとされている。
承久の乱は鎌倉にとって薄氷の勝利であり、それを導いたのが尼将軍政子さまの演説と、大江広元の的確な情勢分析と判断だったのじゃ。これも詳しくはこちらを読んでもらいたい。 

この戦いに勝利した幕府は後鳥羽上皇隠岐に、順徳上皇をを佐渡に、土御門上皇を土佐に配流し、仲恭天皇廃帝とした。また、後鳥羽院がもっていた広大な荘園はことごとく没収され、これを機に、鎌倉幕府の支配が畿内・西国にも及んでいくことになる

これにより朝廷は幕府に政治的に従属することとなり、北条執権政治が本格的にはじまるというわけじゃ。

源頼朝の理想を受け継いだ人生

鎌倉殿の13人

鎌倉殿の13人

以上、ざっくりと義時公の生涯をみてきたが、「鎌倉殿の13人」では、こうした波乱万丈の人生を小栗旬さんがどう演じてくれるのか、今から楽しみでしかない。

義時公は私利私欲の人ではなかったと思う。そもそも、頼朝公が没するまでは大それた理想などなかったはずじゃ。じゃが、頼朝公の思いは、どの御家人よりも強く受け止めていたはず。それゆえ、鎌倉をを守るためには、あえて汚れ役もやるし、世間の評判などまったく気にしない。武家の都をつくるという大義のために、何が正しいか」を考え、行動した人だったと思う。じっさい、政事を坂東の田舎侍どもに任せていたら鎌倉は速攻で潰れていたはず。頼朝公の理想を受け継ぐものは義時公以外にいないし、その志は歴代の得宗にも脈々と受け継がれていたんじゃよ。

鎌倉北条氏や北条義時といえば、現代では暗く、陰湿なイメージがどうしてもつきまとう。そんな中、小栗旬さんはそれを払しょくしてくれるじゃろうし、三谷幸喜さんなら鎌倉を舞台にした一大エンターテインメントをつくってくれるに相違ない。

鎌倉にも大河ドラマ館ができることがようやく発表されたし、鎌倉市の広報にも、大々的な告知が出た。なんとなく盛り上がりに欠ける鎌倉市も、ようやく本気を出してきたように思う。

いまは心静かに、新年の放送を待とうと思う。