今回は、伊豆国の大豪族・伊東祐親について。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、娘の八重と頼朝の絆を引き裂き、頼朝を執拗に追い詰める「じさま」こと祐親を、浅野和之さんが演じておられるが、はたして実際はどいうだったのか。
伊東祐親の出自
伊東祐親は伊豆国伊東(現・静岡県伊東市)の豪族で、元の血筋は藤原南家の流れをくむ工藤氏じゃ。
工藤氏6代目にあたる祐親の祖父・工藤(伊東)祐隆は、四男・茂光に代々の拠点であった狩野荘を譲り、自らは伊豆国久須美荘を開発し、以後は伊東姓を名乗った。これが伊東氏のはじまりじゃ。
さて、伊東祐親の父・祐家は祐隆の嫡男だったが、あいにく早世してしまう。すると祐隆は、後妻の連れ子の娘が産んだ子・祐継を養子に迎えて家督を継がせてしまう。そして嫡孫であるはずの祐親を祐継の弟とし、河津荘を与えた。本来であれば自分が惣領になるはずじゃったのに、祐親はこの相続に大いに不満をもった。
それかあらぬか、祐継が没すると、祐親は嫡子・工藤祐経の後見となり、娘の万劫御前を室に入れる。そして祐経が上京すると、待ってましたとばかりに万劫御前を離縁さえて、祐経の伊東荘を横領してしまうのじゃ。
祐経は都に事の次第を訴えたが、祐親の根回もあって不調に終わる。いっぽう祐親は平家と誼を通じ、娘を北条時政公、三浦義澄に嫁がせ、名実ともに伊豆一の大豪族になるのじゃよ。
源頼朝との遺恨
その後、平治の乱に敗れた源頼朝公が伊豆に流されてくる。監視役を任されたのが祐親じゃ。しかし、祐親が大番役で上洛している間に、なんと娘の八重姫が頼朝公と恋に落ち、男子・千鶴丸が生まれる。
伊豆に戻った祐親はこれを知って激怒。安元元年(1175年)9月、千鶴丸を松川に沈めて殺害し、頼朝公にも刺客を向ける。もちろん、平家の怒りを恐れてのことじゃろう。
幸い、祐親の次男・伊東祐清は、頼朝公の乳母・比企尼の三女を妻としていた縁もあり、頼朝公に身の危険を知らせる。かくして頼朝公は伊豆山神社に脱出し、やがて北条館に匿われることになるのじゃ。
この顛末、ドラマでは北条宗時殿が積極的に関与していたが、わしもたぶんそうじゃと思っておる。「平家をぶっ潰す」とまで思っていたかは定かではないが、あるいはそうだったかもしれぬ。また、時政公も京都大番役をつとめて平家の専横ぶりをみていたじゃろうし、坂東での評判も良くないことを察知して、頼朝公を庇護したのかもしれない。いずれにせよ、祐親は娘婿の裏切りにあったということになるわけじゃ。
なお、頼朝公と八重姫の悲恋についてはこちらにも書いたので、よければ読んでおくれ。
工藤祐経との遺恨と曾我兄弟の仇討
ところで、伊東荘を祐親に横領された工藤祐経のこと。ドラマでは坪倉由幸さん演じる小汚い工藤祐経が「じさまも酷いことをする」とこぼしていたが、それはこういう経緯だったんじゃ。
やがて祐経は祐親暗殺を計画する。祐経による祐親襲撃は残念ながら失敗に終わるが、刺客の放った矢は傍らにいた祐親の嫡男・河津祐泰を射抜く。これが祐泰の子による「曾我兄弟の仇討ち」につながっていくわけじゃよ。
ちなみにドラマでは、八重姫との間に生まれた千鶴丸を殺された頼朝が、祐経に祐親殺しを命じた設定になっておったが、そういう説もあるようじゃな。
なお、曾我兄弟の仇討についてはこちらを。
伊東祐親の最期
さて、政子さまとねんごろになった源頼朝公は、北条を後ろ盾にして、治承4年(1180)8月、打倒平氏の兵を挙げる。祐親は大庭景親らと協力して石橋山の戦いでこれを破る。しかし身柄をとらえることはできず、安房に逃れた頼朝公はやがて勢力を盛り返し、鎌倉に進出してくる。そして祐親は富士川の戦いの後に頼朝公に捕らえられてしまう。
このとき、娘婿の三浦義澄は政子さま懐妊の慶事に事寄せて、祐親の助命を嘆願した。それにより恩赦が施されたのじゃが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と、自害して果ててしまった。
次男の祐清も捕らえられたが、頼朝公はかつて祐清に命を助けられたことから、恩賞を与えようとする。しかし、祐清はこれを固辞し、平家に味方するために上洛する。『吾妻鏡』建久4年(1193)6月1日条によると、平家軍に加わった祐清は、北陸道の合戦で討ち死にしたとある。じゃが、『吾妻鏡』寿永2年(1182)2月15日条には、祐親が自害を遂げた際、祐清は自ら死を願い、頼朝公は心ならずも祐清を誅殺したとある。『吾妻鏡』よ、どっちやねん!とつっこみたくなるが、その記述は混乱しており、今となって真実はわからない。
八重姫事件は「後妻打ち」だったという異説も
以上が、伊東祐親についての通説じゃが、異説もある。なんと、祐親は頼朝公と八重姫との関係を公認しており、むしろ源氏の貴種として積極的に庇護していたというのじゃ。それなのに頼朝公は政子さまと関係をもってしまう。祐親の爺さまはこれに憤慨し、頼朝公に刺客を放ったというのじゃ。つまり、平家との関係を憚ったのではなく、いわゆる「後妻打ち(うわなりうち)」というわけじゃ。
「後妻打ち」とは、夫がそれまでの妻を離縁して後妻と結婚するとき、後妻の家を襲うというもので、中世から江戸時代にかけて行われていた風習じゃ。もちろん、この時代はわからぬが、後妻の側も応戦するのがふつうで、事前通告がなされるのがお決まりのパターンじゃ。じっさいこれ、頼朝公が後に亀の前と浮気したとき、政子さまも似たようなことをやっておるしな。
これまた真相はわからない。ただ、祐親にしてみれば頼朝公の初子を殺害しているし、いけずをした工藤祐経は頼朝公の側近じゃし、何より平家への恩義もある。「以前の行いを恥じ」たかはわからんが、生きながらえる気になれなかったのじゃろうよ。
伊東氏のその後
祐親はともかく、祐清は頼朝公に仕えてもよかったと思うが、父親が自害した手前、それでは武士らしくないと思ったのじゃろう。これまた、いかにも坂東武者らしいといえばそれまでじゃが、ざんねんではある。
ただ、頼朝公は祐清から命を助けられた恩を生涯忘れなかったという。頼朝公は、祐清の遺児・祐光に伊東荘を与えている。そして祐光の玄孫の祐熙は足利尊氏から先祖代々の地である久須見、伊東、河津の地を与えられている。そして、その子孫は織田信長や豊臣秀吉・秀頼にも仕え、江戸時代には備中国で大名となるのじゃよ(尾張伊東氏または岡田伊東氏)。
ちなみに、戦国大名として有名な日向伊東氏は工藤祐経の流れじゃ。祐経の子・伊東祐時が、鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられ、庶家を下向させたことが始まりじゃ。戦国時代は島津氏に侵攻を受けて没落したが、伊東祐兵が秀吉に仕え生き延び、けっきょく廃藩置県まで飫肥藩として存続する。天正遣欧少年使節の伊東マンショ、日清戦争時の初代連合艦隊司令長官・伊東祐亨も、その末裔じゃよ。
以上、伊東祐親についてみてきたが、いかがじゃったかのう。伊東祐親が先見の明がないというのは後世の者だからいえるだけで、平家の全盛期には当然の判断だったようにわしは思うぞ。むしろ、頼朝公に賭けた時政公がすごいのであって、祐親がダメということではまったくないんじゃよ。
ということで、大河ドラマの「じさま」に注目じゃよ。もともとは辻萬長さんが演じるはずじゃったが、がんの治療に専念するため、急遽、同じ事務所の浅野和之さんが演じることになったと聞いておる。
鋭い目つき、佇まい、大豪族としての貫禄は、坂東彌十郎さん演じる時政公がポンコツ演出なだけに、際立ってかっこうよくみえるが……この語の展開がたのしみじゃな。