今日は源頼家公について。頼家公といえば、大河ドラマ「草燃える」では郷ひろみさんが演じ、その印象が強いのじゃが、「鎌倉殿の13人」では、金子大地さんが演じることになっておる。
生まれながらの「鎌倉殿」
かつては暴君、暗君といわれてきた源頼家公。ただ最近ではずいぶんと評価の見直しも進んでおり、三谷幸喜さんがどんな頼家公に仕立て上げるか、興味は尽きない。とはいえ、その悲運の生涯は変えようがない。
寿永元年(1182)8月12日、頼家公は頼朝公の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で生まれた。
酉の刻、御台所男子御平産なり。御験者は専光房阿闍梨良暹・大法師観修、鳴弦役は師岡兵衛の尉重経・大庭平太景義・多々良権の守貞義なり。上総権の介廣常は引目役。戌の刻、河越の太郎重頼が妻(比企の尼女)召しに依って参入し、御乳付に候す(『吾妻鏡』)。
幼名は万寿。母はもちろん北条政子殿。頼朝公36歳、鎌倉入り3年目に待望の後継者男子として、周囲の祝福を一身に受けての誕生であった。
頼家公は生まれながらの「鎌倉殿」である。頼朝公が平家を滅ぼし、武家の棟梁になった後、頼家公は富士の巻き狩りで見事に鹿を仕留めた。喜んだ頼朝公は御家人の前で頼家公をもちあげ、政子さまにもその報告の手紙を出している。
これは頼家公こそが鎌倉殿の後継者であることを神が承認したということを御家人たちに周知する儀式みたいな意味もあった。ところが政子殿は「武士の子ならそのくらいは当たり前でしょう」と、頼家公をあまりほめてあげなかったようじゃ。
若公鹿を獲しめ給う事、将軍家御自愛の余り、梶原の平次左衛門の尉景高を鎌倉に差し進せられ、御台所の御方に賀し申さしめ給う。景高馳参し、女房を以て申し入るの処、敢えて御感に及ばず。御使い還て面目を失う。武将の嫡嗣として、原野の鹿鳥を獲ること、強ち希有と為すに足らず。楚忽の専使頗るその煩い有るか。てえれば、景高富士野に帰参し、今日この趣を申すと。
たしかに、少しくらいはほめてあげてもよさそうなもんではある。そのため、この態度から、政子殿が比企にべったりな頼家公にイラついており、後の頼家公の悲運につながっていくと解釈する人も多いようじゃ。
じゃが、それはちょっと穿ちすぎではないか。政子殿は頼朝公の真意をくみ取れず、素直に思ったことを言ったまで、あるいは単にツンデレだっただけじゃと、わしは思うけどな。
宿老十三人の合議制
そんな頼家公が頼朝公の急死により鎌倉幕府2代将軍に就任したのは建久10年(1199)1月26日、18歳のとき。その名誉と重責に、さぞかし青春の心を震わせたことじゃろう。わしも生まれながらの得宗家の太守で、14歳で執権になっておるから、頼家公の気持ち、苦労はよくわかる。他人事とは思えないんじゃよ。
しかし、『吾妻鏡』によれば建久10年(1199)4月12日、頼家公は訴訟を直接に裁断することが禁じられてしまう。幕政は宿老による合議により決定することとし、これが「鎌倉殿の13人」のタイトルのもとになった「十三人の合議制」のはじまりじゃ。
諸訴論の事、羽林(頼家)直に聴断せしめ給うの條、これを停止せしむべし。向後大小事に於 いては、北条殿・同四郎主、並びに兵庫の頭廣元朝臣・大夫屬入道善信・掃部頭親義(在京)・三浦の介義澄・八田右衛門の尉知家・和田左衛門の尉義盛・比企右衛門の尉能員・籐九郎入道蓮西・足立左衛門の尉遠元・梶原平三景時・民部大夫行政等談合を加え、計らい成敗せしむべし。その外の輩は、左右無く訴訟の事を執り申すべからざるの旨これを定めらると。
頼家公は若さの勢いもあったのか、従来の慣例を無視した独断が多かったとされる。そのため、鎌倉の行く末を心配した宿老たちが、その親裁権を制限したというわけじゃ。
この「十三人の合議制」を主導したの北条時政殿ではないか。頼家公をけん制しなければ外戚の比企の力が強まり、北条の地位は低下しかねない。そこで三浦義澄らを抱き込んで、事を進めたのというのが事の真相であろう。13人の中には時政殿だけではなく義時公が入っていることからも、その舞台裏をうかがい知ることができる。
こうした動きには比企能員はもちろん、頼朝公以来の将軍親裁を重んじる梶原景時は危機感をもったはずじゃ。じゃが、表立って対立することは鎌倉が割れるリスクがあり、ここは自重したものと思われる。
まあ、新社長に対して前社長に仕えた重役たちが反発するというのは今も昔もめずらしいことではない。ところが、頼家公はこの決定に猛反発した。
梶原平三景時・右京の進仲業等を奉行として、政所に書き下して云く、小笠原弥太郎、比企三郎・同弥四郎、中野五郎等従類は、鎌倉中に於いて、縦え狼藉を致すと雖も、甲乙人敢えて敵対せしむべからず。もし違犯の聞こえ有るの輩に於いては、罪科たり。慥に交名を尋ね注進すべきの旨、村里に触れ廻すべきの由、且つは彼の五人の外、別の仰せ非ずんば、諸人輙く御前に参昇すべからずの由と(『吾妻鏡』建久10年4月20日)
怒った頼家公は、将軍に自由に面会できる者を近習の5人に限定する対抗措置に出た。しかも、彼らが狼藉を働いたとしても罪を問わないとする、とんでもない命令を出したのじゃ。
こうして新将軍頼家公と宿老たちとは互いにけん制し合う関係になっていく……これが「十三人の合議制」をめぐる従来の解釈である。じゃが、近年の研究成果ではどうもちがった解釈がなされるようになってきたらしい。
というのも、じっさいに十三人の合議によって物事が決議されたという事実がなく、しかも、頼家公はその後も親裁を行っているからじゃ。つまり「十三人の合議制」は、宿老の合議を経て頼家が最終判断を下すというもので、将軍の親裁を否定したものではない。実体的には訴訟の取次を13人に限ることで、将軍の権力を宿老たちが補完していく体制をつくったんじゃよ。
後世の歴史を知っているわれわれからすると、こうした動きは北条による源家からの権力簒奪、執権政治のはじまりにみえるかもしれん。じゃが、けっしてそうではないかったんじゃよ。
頼家は暴君、暗君だったのか
ところで、じっさいの頼家公はどんな将軍だったのか。幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、頼家公の暴君、暗君ぶりが、これでもかというくらいに出てくるので、その一部をみてみよう。
頼家、犬を飼う
愛犬家の歴史人物は、わしといい、徳川綱吉といいどうも評判が悪いが、じつは頼家公も愛犬家であったらしい。『吾妻鏡』では頼家公が犬を飼い始めた記述がある。
左金吾(頼家)犬を飼わしめ給うの間、各々その飼口を定められ、毎日これを結番せらる。皆これ事を狩猟と為すの輩なり。件の御簡石壺に置かる。
一番 小笠原彌太郎 細野兵衛尉
二番 中野五郎 工藤十郎
三番 比企彌四郎 本間源太(『吾妻鏡』建仁元年9月18日条)
頼家公が犬を飼い始めたのは狩猟のためだったらしいが、そのお世話は輪番制で養い料は近習たちが負担することになったようじゃ。これが例の市中での乱暴狼藉お構いなしを許された頼家公親衛隊のメンツである。頼家公の屋敷には、その順番札が置かれており、近習たちはせっせと犬の世話をするために御所に通うことになる。
政治を顧みず蹴鞠三昧
頼家公は蹴鞠にご執心で、皆もそれに付き合わされていたようじゃ。建仁元年9月20日には連続700という大記録を打ち立てたことが『吾妻鏡』に記載されている。
御所の御鞠なり。凡そこの間政務を抛ち、連日この芸を専らせられ、人皆当道に赴く。 北條の五郎以下参集す。但し各々布衣を着さず。今日員七百これを揚げらるる所なり。今夜深更に及び、月星の如きの物天より降る。人以てこれを怪しまずと云うこと莫し(『吾妻鏡』建仁元年9月20日条)。
ところが、その日の真夜中、鎌倉の夜空に月星の様な物が降ってきたというのじゃ。人々は、これは何かの禍の前兆だと怪しんだ。しかし、頼家公はそんなことは気にしない。その後も蹴鞠に汗を流した。
それを見た北条泰時公は親衛隊のひとりである中野能成に、「蹴鞠は趣が奥深く夢中になるものかもしれないが、天の異常現象までおきている。こんなことでよいのか。将軍のお傍近くにいる貴方がお諫めすべきではないか」と苦言を呈している。
蹴鞠はスポーツじゃし、上流階級の嗜みじゃし、天下泰平、五穀豊穣、一家の繁栄平和を祈る目的もある。じゃが、政治を放ったらかしというのがよろしくない。蹴鞠にふけるというのも、わしや今川氏真のように、古来から暗君の典型といえるじゃろう。
領地をめぐるトンデモ裁定
これは有名な話じゃな。陸奥国葛岡の新熊野神社の僧が領地に関するトラブルを鎌倉に訴えてきた。奥州藤原氏以来も庇護した神社であり、いまは鎌倉の繁栄を祈祷してくれていることもあって、この内容が頼家公に報告された。
しかし、頼家公が下した裁定は、じつに驚くべきものじゃった。
今日羽林(頼家)彼の進す所の境絵図を召覧す。御自筆を染め、墨をその絵図の中央に曳かしめ給いをはんぬ。所の廣狭はその身の運否に任すべし。使節の暇を費やし、地下を実検せしむに能わず。向後境相論の事に於いては、此の如く御成敗有るべし。もし未尽の由を存ずるの族に於いては、その相論を致すべからざるの旨仰せ下さると(『吾妻鑑』正治2年5月28日条)。
頼家公は、「土地の広い狭いが生じるのは、運しだいだから、これからはこうして決めればよい」と言い放ち、自ら筆をとって地図の真ん中にビーっと一本線を引いて裁決したというのじゃ。
もっとも、頼家公はこの後、現地に人を派遣して実地調査をしたらしい。とはいえ、こうした態度は、一所懸命の鎌倉武士の時代に将軍がとるべきものではないじゃろう。
安達景盛の女を強奪
正治元年8月、頼家公は安達景盛の留守中に、その女を強奪する事件を起こしている。景盛が女を取られたことに恨みをもっているという風聞が流れると、景盛を上意討ちにするよう親衛隊のメンバーに命じたため、鎌倉は騒然となった。
幸いこの事件は政子殿のとりなしで大事には至らなかった。このとき政子さまは、頼家公を激しく叱っている。
昨日景盛を誅せられんと擬すこと、粗忽の至り、不義甚だしきなり。凡そ当時の形勢を見奉るに、敢えて海内の守りに用い難し。政道に倦んで民愁を知らず、倡楼を娯しんで人の謗りを顧みざるが故なり。また召し仕う所は、更に賢哲の輩に非ず。多く邪侫の属たり(『吾妻鑑』正治元年8月20日条)。
政子殿は今回の暴挙を一喝し、例の親衛隊の連中を馬鹿でゴマすりばかりと罵り、比企ばかりを優遇し、北条を蔑ろにする姿勢を諫めたのじゃ。
この政子殿の叱責に頼家公が反省したという様子はなさそうである。まあ、「英雄色を好む」というし、頼朝公も女に対してはいろいろとあったから、それ自体は仕方がないのかもしれんが、傲慢になっていたことは確かじゃろうな。
比企能員の乱と頼家追放
こうした頼家公の暗君、暴君ぶりは、後世、『吾妻鏡』の編纂者(すなわち幕府であり北条氏)が曲筆したものだともいわれている。歴史は勝者がつくるもの。そのことはわしもよくわかっておる。
じゃが、「生まれながらの鎌倉殿」である頼家公が、その矜持から独裁的になり、御家人たちの不満が高まってきていたこともまた事実じゃろう。頼朝公であれば、その器量とカリスマ性でうまく御家人たちを束ねることができたが、若い頼家公には無理があったことは否めない。
そんな中、頼家公のお味方であった梶原景時がとつぜん粛正されてしまう。景時は、鎌倉殿第一であり、頼朝公亡き後の将軍家を支える忠臣じゃった。詳細は割愛するが、景時を守れなかったことが、頼家公の失策、痛恨、ケチの付け始めとなる。
そして頼家公を悲運が襲う。建仁3年(1203年)9月1日、頼家公はとつぜん病に倒れて危篤状態に陥ってしまう。すると北条時政殿は円滑な相続を名分に、頼家公の遺領のうち関東28国の地頭職を一幡に、西国38国の地頭職を頼家の弟・実朝公に分与することをしかし、これはすぐさま時政殿の知るところとなり、比企一族はあっという間に滅ぼされてしまう。じつに鮮やかなクーデターじゃ。
このあたりの権力闘争は北条の闇ともいえるが、いっぽうで御家人の支持がなければ事は成就しなかったはず。やはり鎌倉には頼家公や比企へのうっ憤がたまっていたといってよいじゃろう。
それにしても頼家公は悲運である。急な病で寝込んでいる間に、自分を支援してくれていた比企が滅ぼされ、妻も息子も殺されてしまっていたんじゃからな。
病から回復し、これを知った頼家公は激怒し、時政を殺そうと動き出す。しかし、頼家公にはもはやその実力はない。わが子の将来を案じた政子殿の説得により、頼家公は落飾のうえ修禅寺に逼塞することになる。
亥の刻に将軍家落飾せしめ給う。御病悩の上、家門を治め給う事、始終尤も危きが故、尼御台所計らい仰せらるるに依って、意ならず此の如し(『吾妻鑑』建仁3年9月7日条)。
じつにかわいそうな頼家公じゃが、せめてわしのように「傀儡でもよし」とする諦観を早めにもてればよかったんじゃがな。ただ、偉大な父の背中を見て大きくなった「生まれながらの鎌倉殿」としては、プライドが許さなかったんじゃろう。是非に及ばずじゃ。
頼家の最期
伊豆国修禅寺に追放された頼家公は、元久元年(1204)7月18日、北条氏の手兵によって殺害された。享年23(満21歳没)。本件を政子殿がどこまで知っていたのか、それはわからない。
酉の刻、伊豆の国の飛脚参着す。昨日(十八日)左金吾禅閤(年二十三)、当国修善寺に於いて薨じ給うの由これを申すと。
『吾妻鏡』はその死について、ただ飛脚から頼家死去の報があったことを短く記すのみである(7月19日条)。じゃが、殺害当日の日付の『愚管抄』には、その最期が生生しく記されている。
修善寺にて、また頼家入道をば指ころしてけり。とみにえとりつめざりければ、頸に緒をつけ、ふぐりを取などしてころしてけりと聞えき。人はいみじくたけきも力及ばぬことなりけり。ひきは其郡に父の党とて、みせやの大夫行時と云う者のむすめを妻にして、一万御前が母をばもうけたるなり。その行時は又兒玉党にしたるなり。
頼家公は武勇に優れた人であり、入浴中に襲撃されても、激しく抵抗したのじゃろう。刺客たちは首に紐を巻き付け、急所を押さえてようやく刺し殺したとある。
「鎌倉殿の13人」では、おそらく善児が実行犯になると思われるが、殺しのスペシャリストでもかなり手こずるのではないかと思うぞ。
閑話休題 頼家公はいかにも悲運であった。もし、急な病で倒れることさえなければ、時政殿のクーデターも起こらず、こんなことにはならなかったかもしれない。剛毅な性格で御家人との軋轢を生みながらも、2代目鎌倉殿として幕府を治めて、やがて北条を粛正していたかもしれない。
かくして頼家公は21年の残念な生涯を閉じる。やはり、仁田忠常にいたずらをさせて、山神様の怒りをかったのが、まずかったのかもしれない。