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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

長崎円喜・高資父子〜鎌倉幕府を動かした御内人筆頭の内管領

今回は長崎円喜・高資父子について。大河ドラマ「太平記」では、フランキー堺さんが円喜を、西岡徳馬さんが高資を演じ、片岡鶴太郎さんの高時の3人トリオは、なかなかの好演ぶりじゃったな。

長崎円喜と長崎高資

大河ドラマ「太平記」より

長崎氏の祖・平盛綱

まずは得宗被官・長崎氏についておさらい。長崎氏は平清盛の孫・資盛の流れをくみ、北条得宗家家令となった平盛綱を祖とするとされる。じゃが、実際のところはどうも判然としない。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、「鶴丸」という孤児が出てきて、後に平盛綱として北条泰時公を扶ける設定となっていた。じつは盛綱は、伊豆時代から北条家臣の一族だったとの見方が有力で、おそらく大河でもそういう設定にしたのじゃろう。

盛綱は泰時公の側近として頭角をあらわし、御内人の筆頭の内管領と侍所所司をつとめた。そしてその子の盛時、孫の頼綱も歴代の得宗家を支えていく。

円喜(高綱)の父・長崎光綱は、平頼綱の弟、または甥とも従兄弟ともいわれている。伊豆国田方郡長崎郷(現在静岡県伊豆の国市)の地を得たことから、長崎氏を称した。

『吾妻鏡』によると、光綱は、北条時宗公が将軍・宗尊親王の御前で流鏑馬を披露したとき、北条時頼公の命令で馬を用意したとある。また時頼公ご臨終のときには、最後まで側近くに控えた得宗被官7人のうちの1人として、その名が記されている。

正応6年(1293)、内管領の平頼綱は、その専横ぶりが仇となり、貞時公に誅殺されてしまう。世にいう「平禅門の乱」じゃ。このとき光綱は貞時公に与したのじゃろう。以後は頼綱に代わって一門の惣領となり、内管領に就任したのじゃ。

長崎円喜(高綱)、北条高時を後見

長崎円喜

フランキー堺さん演じる長崎円喜(大河ドラマ「太平記」)

光綱が没すると、円喜は長崎氏の家督を継いだ。そして嘉元の乱で貞時公が北条宗方を滅ぼすと、円喜は宗方に代わって内管領と侍所所司に就任した。

応長元年(1311)、貞時公は死の直前、円喜と安達時顕を呼び、幼少のわし・高時の後見を託した。円喜は9歳のわしに得宗の主としての心得を教えてくれた。そして、わしが成長するまで3代の中継ぎ執権が就任したが、その間の幕政を主導した。

正和5年(1316)、わしは父と同じ14歳で第14代執権となった。このとき、円喜は高齢を理由に内管領の職を息子の高資に譲り、以後は父子で高時政権を支えていくことになる。

「増鏡」には、その頃のわしと円喜について、こう記されている。

相模守高時と言ふは、病によりて、未だ若けれど、一年入道して、今は世の大事共いろはねど、鎌倉の主にてはあめり。
心ばへなどもいかにぞや、うつつ無くて、朝夕好む事とては、犬くひ・田楽などをぞ愛しける。
これは最勝園寺入道貞時と言ひしが子なれば、承久の義時よりは八代にあたれり。
此の頃、私の後見には、長崎入道円基とか言ふ物有り。
世の中の大小事、只皆此の円基が心の儘なれば、都の大事、かばかりになりぬるをも、彼の入道のみぞ取り持ちて、おきて計らひける。

なんとまあ、典型的な「高時=暗愚」を刷り込むような記述じゃ。もっとも、わしはたしかに病弱だった。闘犬も田楽も好んだ。そんなわしに代わって滞りなく政務をすすめてくれたのが円喜であり、その点、わしは大いに感謝しており、円喜には頭が上がらないのじゃ。

政道不道、長崎高資の専横

長崎高資

西岡徳馬さん演じる長崎高資(大河ドラマ「太平記」)
じゃが、息子の長崎高資、こやつはちょっと、いかがなものかと思うぞ。高資は正和5年(1316)頃に円喜から内管領の地位を受け継いだ。

そんな中、得宗被官で蝦夷代官をつとめる安藤家に内紛がおこった(安藤氏の乱)。まあ、お家騒動などは鎌倉時代にもよくあることだったんじゃが、なんとこのとき、高資は当事者双方から賄賂をうけとっていたのじゃ。

『保暦間記』にはこうある。

元亨二年ノ春奥州ニ安藤五郎三郎同又太郎ト云者アリ、彼等ガ先祖安藤五郎ト云者、東夷ノ堅メニ義時ガ代官トシ津軽ニ置タリケルガ末也、此両人相論スル事アリ、高資数々賄賂ヲ両方ヨリ取リテ、両方ヘ下知ヲナス、彼等ガ方人ノ夷等合戦ヲス、是ニ依テ関東ヨリ打手ヲ度々下ス、多クノ軍勢亡ヒケレドモ、年ヲ重テ事行ヌ、承久三年ヨリ以来、関東ノ下知スル事少モ人背ク事ナカリキ、賤キ者マデモ御教書ナドヲ対スル事ヲ軽シムル事憚リシニ、高資政道不道ヲ行フニヨリ、武威モ軽ク成、世モ乱レソメテ、人モ背キ始シ基成ケリ、爰ニ懸ル折ヲ得テ、内裏ノ近習月卿雲客、依々主上ヲ勧申ス事アリ

土地をめぐる訴訟は幕府にとってもっとも大事な仕事の一つである。それを両方から賄賂を受け取っていたというのは、流石に許される行為ではない。

結局、蝦夷は大乱となり、幕府はその鎮圧に相当苦労するハメになった。これにより幕府の弱体化が露呈し悪党どもはますます跋扈し、政情は不安になる。これがやがて後醍醐天皇による倒幕運動へとつながっていくのじゃから、高資はとんでもないことをしてくれたものじゃ。

正中3年(1326)、わしは生来の病弱もあり24歳で出家した。執権の激務には耐えられなかったのじゃが、ここで起こったのがわしの跡目争いじゃ。

高資や円喜は、わしの後継を長子・邦時とし、成長するまでの中継ぎとして金沢貞顕を執権に据え付けた。じゃが、これに外戚の安達時顕が噛みついた。邦時の母は御内人の五大院宗繁の娘で、もし邦時が後継になれば安達の影響力は失われ、幕政はますます御内人に牛耳られてしまう。安達はわしの母上と結託して、弟の泰家を執権にしようとしていたのじゃ。

安達とわしの母上の逆鱗に触れたことに恐れをなした貞顕は、あっさりと執権を辞任して出家してしまう。後任の執権には赤橋守時が就任している。

さて、このどさくさの中、高資は「評定衆」に就任した。評定衆は幕政の要である。この当時は別途、得宗家を中心にした「寄合衆」という幹部会議が別途あったが、それでも行政・司法・立法のすべてを司る幕府の最高政務機関であることに変わりはない。

それまで評定衆に御内人が選任されることはなかった。じゃが、高資が評定衆に名を連ねたことにより、長崎一族は内管領、侍所所司、寄合衆、評定衆を独占し、完全に幕政を牛耳ってしまったのじゃ。

まさに得宗専制ならぬ御内人先制じゃ。北条の家臣に過ぎない長崎の専横に不満をもつ者は多かったじゃろう。じゃが、表立つて文句を言える者はいない。わしですら高資には気をつかっており、もはや執権も得宗もすっかり飾り物になっていたのじゃ。

もちろん、こうした事態に、わしもただ指をくわえて見ていたわけではない。父・貞時公が内管領・平頼綱を粛清したように、わしも長崎父子の影響力を排除し幕政改革を進めるべく一念発起したのじゃが……暗愚なわしには荷が重かった。

このあたりの顛末は別記事に書いたので、よろしければそちらを読んでほしい。

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長崎氏、北条氏ととともに滅亡

長崎円喜

長崎円喜(大河ドラマ「太平記」鎌倉炎上より)

鎌倉幕府は源頼朝公の志を北条義時公が継ぎ、泰時公が諸制度を整え、時頼公時宗公が得宗家による安定政権の礎をつくった。これ、全て武家の都・鎌倉を盤石にするためじゃ。

じゃが、北条の世が続く中で得宗家の家臣にすぎない御内人が徐々に力をもつようになり、高時政権ではすっかり長崎父子と御内人が政の実権を握るようになってしまった。

そんな北条と幕府をみた足利高氏は、大河ドラマで「こんな鎌倉ああああ!」と嘆いておったが、これはひとえにわしの暗愚が招いたことじゃ。わが父・貞時公は平頼綱を粛清して御内人の力を削いだが、わしは長崎父子を抑えることができないばかりか、むしろ全力で乗っかってしまったのじゃ。

じゃが、長崎円喜は、父・貞時公の遺言を守り、暗愚なわしを懸命に後見してくれた。北条を、鎌倉を支る責任感、矜持があったのは確かじゃろう。

大河ドラマ「太平記」では、高資が賄賂を受け取っていたことがバレ、円喜に折檻されるシーンがあった。

「私利私欲で内管領がつとまると思うのか、この愚か者! 北条家はいま、傾いておるのじゃ。北条が崩れれば幕府も倒れる。そうならぬゆえ血を流してきた、そのことがわからぬのか。このうつけ!」

なにかと評判の悪い長崎父子じゃが、幕府への思いは本物じゃったと思う。高時がもそっとしっかりしておったら、鎌倉は滅ばずに済んだのかもしれぬな(反省)。

正慶2年/元弘3年(1333)5月22日、燃えさかる鎌倉で、長崎円喜、高資、高重の3代は、北条一門とともに東勝寺で自刃して果てた。こうして、平盛綱に始まる御内人筆頭・長崎氏は滅亡を迎えたのである。