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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

大江広元のこと~鎌倉幕府に転職して才を発揮した実務官僚

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習のためのに、13人を順番にまとめていく2人目は大江広元じゃ。やはり三谷大河の「真田丸」で真田信尹を好演した、劇団四季の栗原英雄さんが広元を演じることになっておるぞ。

大江広元

大江広元

大江広元はなぜ、源頼朝に仕えたのか

大江広元は久安4年(1148)、 または康治2年(1143)生まれで、出自には諸説がある。

  • 式部太夫・大江維光を実父とし明経博士・中原広季に養育されたという説(「大江氏系図」)
  • 中原広季を実父とし、大江維光を養父とする説(「中原系図」)
  • 院近臣・藤原光能の息子で、母の再婚相手である中原広季のもとで養育されたという説(『江氏家譜』)

広元は、はじめ「中原」を名乗り、建保4年(1216年)に陸奥守に任じられて以後、「大江」に改めたとされる。というのも『吾妻鏡』閏6月14日の条に、広元の改姓宣旨が記されており、そこに「養父広季への恩はあるが大江氏を衰退させるわけにはいかないので大江維光の継嗣となって本性に復したい」という広元の思いが書かれているのじゃ。このことからして、大江維光が実父で中原広季が養父と考えるのが妥当じゃろう。

実父・大江維光は紀伝道(歴史学)の大家である。そして養父・中原広季は明法博士(官吏を育成学校の教師)である。広元は若い時から学業に秀で、長じて朝廷の公文書を扱う権少外記、少外記に昇進している。官位についても従五位上を叙され、まずまずの出世を遂げている。

とはいえ、そもそも中原家は実務家の下級貴族の家柄ゆえ、それ以上の昇進はのぞめない。ひょっとしたら広元は、そうした自身の境遇に物足りなさを感じ、鎌倉に出仕したのかもしれぬな。

広元が鎌倉幕府に仕えるようになった直接のきっかけは、義兄・中原親能の縁による。親能は幼時に相模国・波多野氏に養育されて成人したこともあり、そもそも反平氏の立場で、源頼朝公とも「年来の知音」であった。そこで親能は早くから鎌倉へ下り、頼朝公の代理人としてたびたび上洛、院や公家との交渉役をつとめている。

おそらく親能が義弟を頼朝公に推挙したのじゃろう。その正確な時期はわからないが、広元は元暦元年(1184)に公文所の別当に就任しているから、それまでには鎌倉に下向していたことになる。

外記在任十余年の実務経験は、草創期の鎌倉幕府にとって貴重なはず。能筋ばかりの坂東武者の中で、広元は「二品御腹心専一の者」として重用されていくのじゃよ。

鎌倉に転職した大江広元の事績

ということで、大江広元はいわば、その知識と才能を買われて、頼朝公にヘッドハンティングされた転職組かわけじゃが、ここで広元の具体的な事績を拾ってみよう。

守護・地頭の設置を献言する

元暦元年(1184)、源頼朝公は広元を別当に中原親能、二階堂行政、足立遠元、藤原邦通ら4人を寄人に任じ、鎌倉の一般政務や財務を管轄する公文所を設置した。当初は家政機関後のようなものじゃったが、後に政所と改められ、広元は引き続き別当として政務を執行する。

『吾妻鏡』文治元年11月12日の条によると、頼朝公が守護・地頭を設置するきっかけは広元の献策によるものであるという。

凡そ今度の次第、関東の重事たるの間、沙汰の篇、始終の趣、太だ思し食し煩うの処、因幡の前司廣元申して云く、世すでに澆季に属く。梟悪の者尤も秋を得るなり。天下反逆の輩有るの條、更に断絶すべからず。而るに東海道の内に於いては、御居所たるに依って静謐せしむと雖も、奸濫定めて地方に起こるか。これを相鎮めんが為、毎度東士を発遣せられば、人の煩いなり。国の費えなり。この次いでを以て、諸国の御沙汰に交わり、国衙・庄園毎に守護・地頭を補せられば、強ち怖れる所有るべからず。早く申請せしめ給うべしと。
二品殊に甘心し、この儀を以て治定す。本末の相応、忠言の然らしむる所なり。 

教科書にも出てくる守護地頭じゃな。頼朝公はこの後、義経行家追捕のため「諸国平均に守護地頭を補任し、権門勢家の庄公を論ぜず、兵粮米(段別五升)を宛て課す」ことを決め、上洛した北条時政公がその折衝にあたることになる。。

義経の「腰越状」を頼朝に取り次ぐ

大江広元の当時の実力を知るうえで、注目したいのが「腰越状」じゃ。頼朝公の不興を買った義経殿が、鎌倉腰越で足止めされたとき、冤罪を訴えるために認めた書状だが、その取次を頼まれたのが広元である。

廣元これを被覧すと雖も、敢えて分明の仰せ無し。追って左右有るべきの由と。(『吾妻鏡』元暦2年5月24日)

広元は、義経殿の書状を読んだが、その処置については明確な答えを述べなかったとある。おそらく広元も頼朝公も、はっきりした態度をとらないことで、義経を追い返すつもりでおったのじゃろう。結局義経殿は鎌倉入りを許されず、京都へ引き返している。

もっとも、この「腰越状」は後世の創作という指摘もある。とはいえ、義経が広元にとりなしを頼んだこと、頼朝公とこんな機微な内容を相談していることから、当時の広元の幕府内のポジションというか、頼朝公からの信頼の厚さをうかがい知ることはできるじゃろう。

頼朝没後の鎌倉を支える

源頼朝公没後も、広元は文官として鎌倉を支え続けた。そもそも頼朝公の在世中、御家人の官位は最高でも従五位下止まりであったが、京都からの中途採用の広元のみは正五位を一人許されており、ナンバーツーの地位にあったといえる。頼朝公没後も北条義時公を上回る正四位となっており、名目的には将軍に次ぐ存在として遇されていたようじゃ。

頼家公が家督を継ぐと幕府は早くも混乱し、結果として宿老13人の合議制が執り行われることになる。広元はもちろん、その中の一人である。やがて御家人66人による梶原景時弾劾状の宛先は広元だったことから、御家人のまとめ役、調整役として皆が認める存在だったんじゃろう。また、比企能員粛清にあたり時政公は広元に相談しているし、和田合戦で義時公は広元と連携しており、執権である北条も、広元の見識を大いに頼りにしていたんじゃよ。

実朝公が将軍になると、京都とのパイプ役を果たした。とくに土御門通親と広元のパイプは相当なものだったようじゃ。ただ広元は実朝公の行く末を案じていたようで、後鳥羽院による官打ちなどを危惧して、実朝公にしばしば諫言をしている。鎌倉が京に取り込まれてしまうことを心配しておったんじゃろう。

建保7年1月27日、実朝公暗殺の日、広元と実朝公の間には、こんなやりとりがあった。

所謂御出立の期に及び、前の大膳大夫入道(広元)参進し申して云く、覺阿(広元)成人の後、未だ涙の顔面に浮かぶを知らず。而るに今昵近し奉るの処落涙禁じ難し。これ直なる事に非ず。定めて子細有るべきか。東大寺供養の日、右大将軍御出の例に任せ、御束帯の下に腹巻を着けしめ給うべしと。

「成人してから涙を流したことがない私が、なぜか今日は涙が止まらない。なにか胸騒ぎがするから、今日は腹巻をつけてください」と広元は実朝にいったというのじゃ。これは結局、前例がないということで源仲章に却下されてしまうが、この後、広元が危惧した通り、実朝は公暁に暗殺されてしまうわけじゃ。

この実朝公暗殺事件は鎌倉を大いに揺るがした。そして、この後、承久の乱がおこり、幕府は草創期最大のピンチを迎えることになる。

承久の乱では京への即時出兵を進言

広元は文官なので、終始、「兵法に於ては、是非を辨ぜず」(『吾妻鑑』建仁 3年9月2日条、時政公が比企能員誅殺を相談したとき)というスタンスであった。しかし承久の乱では、鎌倉を守るために積極策を提言している。

晩鐘の程、右京兆(義時)の舘に於いて、相州(泰時)・武州(時房)・前の大膳大夫入道(広元)・駿河の前司(三浦義村)・城の介入道(安達景盛)等評議を凝らす。意見区々なり。所詮関を固め足柄・箱根両方の道路に相待つべきの由と。大官令覺阿(広元)云く、群議の趣、一旦然るべし。但し東士一揆せずんば、関を守り日を渉るの條、還って敗北の因たるべきか。運を天道に任せ、早く軍兵を京都に発遣せらるべしてえり。右京兆両議を以て二品(政子)に申すの処、二品云く、上洛せずんば、更に官軍を敗り難からんか。安保刑部の丞實光以下武蔵の国の勢を相待ち、速やかに参洛すべしてえり。 

宮方が兵を挙げたとの報せを受け、当初、義時公は上皇軍を箱根で迎え撃つ作戦を立てていた。しかし大江広元は、京への積極的な出撃を主張した。

敵は「治天の君」である。戦が長引けば長引くほど、心変わりする御家人も出てきて、幕府は不利になりかねない。権謀術数という点では鎌倉よりも京のほうが上じゃ。短期決戦に限る。

こうした広元の主張を政子殿が裁決し、鎌倉軍は即日進発し、勝利をおさめることになる。まさに大江広元の慧眼じゃな。

尼将軍と執権とともに幕府を盤石に

鎌倉幕府の行政組織の整備という点で、大江広元が果たした役割はじつに大きい。このあたりは脳筋の坂東武者にはとてもできない芸当じゃ。それゆえ、頼朝公も義時公も尼将軍も広元を重用した。そして、広元が公文所、政所の別当として残した事績は、後の北条泰時公による「御成敗式目」制定にに大いに資することとなり、頼朝公の政治方針が明文化され、御家人たちに浸透していくことになったのじゃよ。

元仁2年6月10日、己亥、霽、前の陸奥の守正四位下大江朝臣廣元法師(法名覺阿)卒す(年七十八)。日来痢病を煩うと。

大江広元没。執権義時公と尼将軍政子殿とともに、鎌倉幕府の基盤を固めての死であった。

現在の鎌倉、頼朝公の眠る法華堂の近くには大江広元の墓がある。ただ、これは江戸時代に長州藩によって作られたもの。長州藩毛利氏は、大江広元の四男・毛利季光の末裔に当たるため、その縁によるものじゃ。毛利季光は宝治合戦で三浦に味方して自害したが、四男・経光は越後にいたことで難を逃れ、所領も安堵され、安芸毛利氏に繋がるというわけじゃ。

なお、伝承によれば鎌倉市十二所の山中にある五輪塔が本来の広元の墓らしいぞ。