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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

戦艦大和、第2艦隊の御霊に捧ぐ~枕崎の平和記念展望台に行ってきた

先日、所用があって鹿児島を訪問したので、枕崎まで足を延ばしてきた。目的地は、坊ノ岬沖海戦で海に沈んだ戦艦大和乗組員ら英霊たちを慰霊する平和祈念展望台じゃ。映画「男たちの大和/YAMATO」公開時には、ずいぶん注目のスポットだったようじゃが、今は落ち着いているようじゃ。わしが行った時も人はほとんどいなかったぞ。

平和祈念展望台(殉難鎮魂之碑)

平和祈念展望台(殉難鎮魂之碑)

昭和20年4月7日、戦艦大和を旗艦とする第2艦隊は坊ノ岬沖を沖縄へ向かっていた。米軍が沖縄に迫る中、発令されたのは「天一号作戦」。「大和ら第2艦隊は沖縄に突入し、艦を座礁させて浮き砲台として砲撃を行い、砲弾が尽きれば乗組員は陸戦隊として突撃せよ」というものであった。

ただし航空作戦とはいうものの、長い道中、大和を護衛する航空機はない。水上特攻ともいうべきこの無謀な作戦に、伊藤整一第2艦隊司令長官(海軍大将・当時は中将)は当初猛反発したという。

じゃが、草鹿龍之介連合艦隊参謀長は、この命令がすでに決定事項であることを告げ、「一億総特攻の魁となっていただきたい」と伊藤大将に頭を下げた。事ここに至っては、伊藤大将も軍人として命令を拒めるはずがない。

かくして第2艦隊は徳山沖から沖縄へ向かった。そして枕崎沖西南西約200kmの東シナ海上で米軍機との死闘となり、、戦艦大和、巡洋艦矢矧、駆逐艦磯風・濱風・霞・朝霜6隻と3,721人の乗組員が海に沈んだのじゃ。

戦艦大和平和記念展望台

坊ノ岬沖に眠る戦艦大和

平和記念展望台へ向かう参道の奉納石灯篭には、「巡洋艦矢矧の英霊に捧ぐ」「特攻第二艦隊の英霊に捧ぐ」などと刻まれている。歩いているうちに自然と厳粛な気持ちになってくる。

平和祈念展望台

戦艦大和の沈没地点は「北緯30度22分17秒東経128度04分00秒」。戦艦大和会を中心に結成された「探索会」は、昭和55年の第一次、昭和56年の第二次、昭和57年の第三次探索により、その水域を沈没地点と断定した。

画期となったのは昭和60年の調査である。戦後40年ということで、大和会や遺族会、民間企業が「海の墓標委員会」を組織し、大規模な潜行調査が実施した。このとき、大和の巨大な艦尾とスクリュー、艦首部分の菊の紋章などが発見される。そして、船体が大きく二つに割れて沈んでいること、主砲塔がすべて脱落していることが確認されたのじゃ。

海底に沈む大和の模型

海底に沈む大和の模型(呉市 大和ミュージアム)

平成11年には、テレビ朝日がタイタニック号の水中撮影や船体の一部引き揚げを手掛けたフランスのサルベージチームの協力を得て、詳細な調査を実施。海底の様子を再現した模型が作成され、現在、それは呉の大和ミュージアムで展示されている。

そして平成28年には、呉市が無人潜水探査機による調査を行い、50時間ものハイビジョン映像と7000枚の静止画像を撮影した。この間、広島の経済界やマスコミが中心となり、寄付を募って大和を引き揚げようという計画もあったが、その後、話は立ち消えになったと聞く。

安らかに眠る大和や乗組員を思えば、このままそっとしておくほうがよいように思う。その反面、放置しておくといずれは腐食が進み、大和は完全に朽ち果ててしまう。幸い、46センチ主砲は海底での保存状態がよいようなので、それだけでも引き揚げられたらよいのじゃがな。

なお、戦艦大和や坊ノ岬沖海戦については、大和ミュージアムに行ったときのブログもあるので、読んでもらえれば幸いじゃ。

慰霊碑「兵曹のつぶやき」

大和が爆発したときのの火柱や黒煙は、この地からも確認されたらしい。現在、沈没地点を遠望できる展望台には、いくつかの慰霊碑が並んでいる。

戦艦大和慰霊碑平和記念展望台

元軍艦矢矧測的長兼第四分隊長 海軍中尉 池田武邦(平和記念展望台奉賛会最高顧問)

祖国(くに)のため 命ささげし
ともがらの 御霊安かれと
永久に祈らん

巡洋艦矢矧乗組 野田文男(鹿屋出身)妻 東京都 藍原マサ 

波涛しずまる枕崎
ともしび灯る枕崎
再び還りませ枕崎
待ちわびる遺族のあることを

坊ノ岬沖海戦

駆逐艦 朝霜乗組員森本博妹 北海道 森本絹子 「兵曹のつぶやき」

去る昭和二十年四月 第二艦隊海上特攻の命を受け沖縄におもむく途中 艦と共に沈みし自分達 開聞岳を目標に枕崎の浜辺に傷つき乍うも家族の許にと流れついた多くの将兵 恋しい家族の許にとの願いも むなしく 再び引潮に乗り あの東支那海に戻りました
あれから五十年 時折り訪れて来る慰霊船 家族の涙を見る度に つばさを休める事すら知らぬかのように 二羽のつばめとなり船のまわりをとび 一刻の安らぎをおぼえました
今回はからずも枕崎の皆々様の厚き みこころに接し この地に安らぎの場をあたえられました 美しく青空にそびえる開聞岳 何時いつ迄も御霊安かれと祈る家族の許に 今日も嬉々として歩をあゆむ事が出来ました
この平和が何時までもつづく事を多くの将兵は 一心に守りつづけます

伊藤整一「父子桜」

伊藤整一大将ゆかりの桜もあったぞ。伊藤大将の長男・叡(あきら)中尉は神風特攻隊の直掩として出撃し、伊江島で戦没する。大将の自宅には樹齢80年をこえる桜の木があったが、その根元からはいつしか父に寄り添う息子のように小さな桜の芽が吹き出したという。しかも、この桜は毎年4月7日に必ず咲く。そこで、この桜は「父子桜」と呼ばれるようになり、その苗がここに植樹されたのじゃ。

伊藤整一ゆかりの桜

伊藤整一ゆかりの桜

日本の新生に先駆けて散る

大和の出撃前日、最後の酒宴を行っていた海兵出身の若手士官と学徒出身の若手予備士官との間で激論が交わされている。あわや乱闘寸前になったとき、臼淵磐大尉が割って入り、両者をなだめた。

「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚める事が最上の道だ。日本は進歩という事を軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義に拘って、本当の進歩を忘れてきた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺達はその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃあないか」

この臼渕大尉の言葉に一同は納得し、出撃の決意と覚悟を固めた。

この逸話は生還した元大和乗組員・吉田満の戦記『戦艦大和ノ最期』で知られるようになったものだ。映画「男たちの大和」でも出てきたシーンじゃな。ちなみに映画で臼渕大尉を演じたのは長嶋一茂さんじゃ。

この逸話には、やはり生還した大和乗組員から信憑性の疑義があがった。じっさいのところ、戦後の価値観や反省悔悟のメッセージが色濃く出すぎている感じもする。現在、この臼淵大尉の逸話は、原作者による創作の可能性が高いとされている。

とはいえ、かりに創作であったとしても、この臼淵大尉の言葉は重い。「一億総特攻の先駆け」とは、こういう覚悟であったのじゃろう。

戦艦大和殉難鎮魂之碑

殉難鎮魂之碑

「殉難慰霊之碑」にはこう刻まれている。

私たちは 戦争による尊い犠牲の上に今日の我が国の繁栄と平和があることをよく認識し今なお 水深三百四十メートルの海底に眠る戦艦大和等の貴重な歴史的事実を遺産として後世に語り継ぎ 戦争の悲惨さと平和の有難さを確認したい。

そうじゃ、日本は負けて目覚めて、今日の平和と繁栄をつくりあげたのじゃ。このことを忘れてはいけないし、英霊に哀悼と感謝を捧げるとはそういうことでなければならぬと思う。

じつは、ここに来る前にわしは知覧にも立ち寄ったんじゃ。神風特攻隊として出撃していった若者たちの遺書や手紙を読み、いたたまれぬ気持になった。いつか、知覧のことも書きたいとは思うのじゃが、ちょっといまは無理。

最近、日本の周辺はきな臭くなってきており、国防をめぐる議論も活発になってきておる。わしは「憲法9条のおかげで平和が保たれている」というほど楽観者ではないし、「集団的自衛権」の嚆矢も必要だと思っている。「防衛増税」にもヒステリックに反対するものでもない。

さりとて昨今の「勇ましい」意見には少し距離を置きたいとも思っておる。「百年兵を養うのは、ただ平和を護らんがためである」という山本五十六の言葉をかみしめたい。