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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

聖徳太子『未来記』とは? 楠木正成も読んだ予言書の謎と真相

聖徳太子日本国未来記

とつぜんじゃが、みなは『未来記』という書物について聞いたことはあるか? あの聖徳太子が書いたとされる予言の書じゃ。中世の文献には、この『未来記』の名がたびたび登場してくるんじゃが、今日はこの『未来記』について書いてみたいと思うぞ。

聖徳太子『(日本国)未来記』とは

聖徳太子については、そもそも実在すら疑われ始めている。斑鳩に宮や寺院をつくった「厩戸王(皇子)」は間違いなく実在したが、わしらが教科書で習ったような「聖徳太子」は『日本書紀』の創作だというのじゃ。

そのことについては上のブログを読んでもらうとして、『未来記』のことじゃ。聖徳太子は「異能の人」としての伝説が多いが、その一つに「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす)」という能力がある。

そのため中世の日本では、聖徳太子は予言者としても有名だった。さながら現代で言えばノストラダムスといったところじゃろうか。その聖徳太子が残した予言の書が『(日本国)未来記』である。中世に生きた人々の間では、この書は注目されていたのじゃ。

例えば、『平家物語』(巻八「山門行幸」)では、後白河法皇が京から比叡山に逃れ、平家が西国に落ち、木曽義仲が入京してくるくだりで、「開闢より以来かやうなる事あるべしとも覚えず。聖徳太子の未来記にも今日の事こそゆかしけれ」と記されておる。

さらに、藤原定家の『明月記』には、太子の墓所の近くから瑪瑙石に刻まれた予言書が掘り出され、その中には「承久の乱」とその後の武家の世を暗示する記述があったとしている。定家はこれを「愚暗の雑人の筆」と断定したらしいが、聖徳太子の『未来記』の存在が当時の人々の間に浸透していた証拠と言えるじゃろう。

楠木正成、四天王寺で『未来記』をひもとく

わしも存在は噂に聞いておるが、もちろん中身を読んだことはない。そんな中、この『未来記』を実際に読んだとされる男がいる。あの楠木正成じゃ。

『太平記』巻六「正成天王寺未来記披見事」には、そのときの様子が詳しく書かれておる。正成が鎌倉幕府に反旗を翻した元弘2年(1332年)8月3日、住吉神社に参拝したときのこと。正成は寺僧に『未来記』を見せてほしいと頼んだというのじゃ。

「正成、不肖の身として、此一大事を思立て候事、涯分を不計に似たりといへ共、勅命の不軽礼儀を存ずるに依て、身命の危きを忘たり。然に両度の合戦聊勝に乗て、諸国の兵不招馳加れり。是天の時を与へ、仏神擁護の眸を被回歟と覚候。誠やらん伝承れば、上宮太子の当初、百王治天の安危を勘て、日本一州の未来記を書置せ給て候なる。拝見若不苦候はゞ、今の時に当り候はん巻許、一見仕候ばや。」

すると宿老の寺僧が出てきて、特別に見せてくれるという。なぜ、こんな悪党に寺僧がそこまで親切なのかはよくわからん。同じ河内もんだからじゃろうか。

「太子守屋の逆臣を討て、始て此寺を建て、仏法を被弘候し後、神代より始て、持統天皇の御宇に至までを被記たる書三十巻をば、前代旧事本記とて、卜部の宿祢是を相伝して有職の家を立候。其外に又一巻の秘書を被留て候。是は持統天皇以来末世代々の王業、天下の治乱を被記て候。是をば輒く人の披見する事は候はね共、以別儀密に見参に入候べし。」

寺僧が言うには、太子は神代から持統天皇の御代までの歴史を書き記した三十巻の書物「前代旧事本記」を著し、これは卜部家に伝わっている。じゃが、それとは別に秘蔵の書があって、そこには持統天皇以降の末世代々の王業や天下の治乱について記されているというのじゃ。

寺僧は書庫から金軸の書物を取り出してきて、正成に見せた。すると正成は不思議な記述を見つけるのじゃ。

其文に云、当人王九十五代。天下一乱而主不安。此時東魚来呑四海。日没西天三百七十余箇日。西鳥来食東魚を。其後海内帰一三年。如■猴者掠天下三十余年。大凶変帰一元。云云。

「第九十五代の天皇の時に、天下は一度乱れ、主君の座が安定しない。この時、東から来る魚が四海を呑む。日が西天に没して三百七十余日後、西から来る鳥が東の魚を食う。その後、天下は再び一つに統一される。猿のような者が三十余年の間天下を支配するが、大凶変の後、一つの元に帰る」

「人王九十五代」は後醍醐帝、「東魚」はもちろんわし北条高時、「西鳥」は正成の暗示であろう。この予言によれば、隠岐に流された後醍醐帝は370余日で京にもどり、高時は正成らに滅ぼされてしまう。 その後、後醍醐帝の下で3年間世は治まるが、「猴(みこう、サル)の如き者 」があらわれ天下を掠めとり、30年余りで天下は帰一する。

「猴の如き者 」とはもちろん足利尊氏に他ならないが、もちろんこの時の正成はそれを知る由もない。ただ、鎌倉滅亡後、正成はこの話を護良親王にしたのではないか。それゆえ護良親王は足利尊氏を執拗に警戒し、粛清を図り、返り討ちに遭ってしまったではないか。

まあ、それはわしの推測じゃが、いずれにせよ正成はこの予言に勇気百倍、鎌倉を相手に奮戦したというのが『太平記』の筋書きじゃな。なお、正成が本当にこの『未来記』を読んだのかどうかは、歴史的にははっきりしておらん。これは一つの物語であり、軍略の一環であった可能性も指摘されておる。

じゃが、これが正成の士気を高め、彼の戦略に影響を与えたという物語が、後世にどれほどの影響を与えたかは計り知れないじゃろう。

江戸時代にはベストセラーに

ほんとうに楠木正成がこれを読んだのかはわからぬが、『未来記』はその後も広く世に知られ続け、江戸時代には一大ブームになっている。

延宝7年(1679)、江戸の書店で聖徳太子の『先代旧事本紀大成経』(七十二巻本)が出版された。この『先代旧事本紀大成経』は全72巻で構成され、そのうちの69巻「未然本紀」が『未来記』だということで、にわかに注目を集めベストセラーになったのじゃ。

ところがじゃ、幕府はこれを早々に偽書と断定し、出版を差し止めてしまった。そして江戸の版元や、関係者の神道家や僧らを処罰したのじゃ。何か政権にとって不都合なことが書いてあったのか。あるいは人心をいたずらに惑わす書と判断されたのか。

まとめ:人間は予言の中に未来の答えを求めてしまうもの

ちなみに「未然本紀」は現代の研究者からすでに「偽物」に断定されている。四天王寺で楠木正成がみたという『未来記』もまたフィクションで、『太平記』の舞台装置と考えるのが妥当である。

小峯和明さんは『中世日本の預言書』(岩波新書)に、つぎのように書いておられる。

〈聖徳太子未来記〉は、名称は同じでも文書であったり碑文 であったり、ものによってまったく姿かたちが異なる。内容も多種多彩で一定しない。〈聖徳太子未来記〉は聖徳太子 に擬せられた予言をさす普通名詞とみなすべきものである」

つまり、中世にはあちこちから体裁を問わず現れ、広まり、ゆき渡っていたようじゃ。現代でもそれらは好き勝手に使われて、聖徳太子の予言としてネットの海を漂っている。

聖徳太子は、鎌倉幕府の成立や蒙古襲来、南北朝の争乱、秀吉家康の天下統一、さらには黒船来航、東京遷都、太平洋戦争、東日本大震災まで予言したことになっている。最近では「2052年には富士山が大噴火する」という予言もあったぞ。

ここまでくるとオカルトトンデモの誹りは免れないじゃろう。じゃが、人間はいつの時代も未来を知ろうとし続けてるものなんじゃな。聖徳太子然り、ノストラダムス然り、アカシックレコード然り、ネットに定期的に現れる未来人然り。我々は予言の中に、未来の答えを求めてしまうものなんじゃろう。

このブログもオカルトトンデモの流布に加担しておるのかもしれんが、それもまた人間の性、時代の流れに即したもということで許してほしい。