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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

北条時政公のこと~強引な権力奪取でのし上がった初代執権

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送開始前に予習をしようと思い立ち、本日は北条義時公についてまとめておこうと思う。源頼朝公室・政子殿や初代得宗義時公の御父上であり、北条執権政治の嚆矢である時政公。大河では坂東彌十郎さんが演じることになっておるぞ。

北条時政

北条時政(画:歌川芳虎、Wikipedia)

北条時政の出自

北条時政公は保延4年(1138)の生まれ。北条氏は、桓武平氏の庶流で、上総介平直方の5代孫とされ、血とは北条時家(時方とも、母は伊豆掾伴為房の娘である。曾孫の時方が伊豆国田方北条(現在の静岡県伊豆の国市)に土着して、以後、北条を称したというのが通説じゃ。

時政公の前半生については不明なことが多いが、伊豆国の在庁官人であったことはまちがいない。嘉応2年(1170)4月には、伊豆大島に流されていた源為朝殿が反乱を起こした際、その討伐に加わっていたという。

ふつうにおわれば、一地方豪族で終わりだった時政公の転機は、やはり源氏の貴公子・源頼朝公がここ伊豆に流されてきたことに尽きる。時政公は蛭ケ小島に流されてきた頼朝公の監視役を伊藤祐親とともに命じられていた。しかし、時政公が京都大番役をつとめて伊豆へ戻ってくると、なんと娘の政子殿が頼朝公と恋仲になっており、大姫が生まれていた。40過ぎて官位もない、さえないおっさん「北条四郎」こと時政公は、人生を懸けた勝負に出て、後の北条氏勃興への道を切り開くことになる。

ちなみに「太平記」によれば、時政の前生は箱根法師で、そのときの善行により、末代までの繁栄を約束されていたとあるぞ。

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源頼朝の舅として鎌倉幕府創成を支える

治承4年(1180)、頼朝公は平家追討の兵を挙げた。時政公は頼朝公の舅として挙兵計画を練り、伊豆目代であった山木兼隆を討つ。石橋山の戦いでは大庭景親に敗れるが、頼朝より早く、海路安房国に逃れ、同地で合流した。

その後、坂東武者の支持を得た頼朝公は鎌倉に進出するが、時政公は義時公とともに甲斐国へ赴く。時政公は武田信義甲斐源氏を糾合して南下し、鉢田の戦いでは平家軍を破り、駿河を手中にする。その後、富士川の戦いで、源氏は平氏に圧勝するが、時政公の貢献は極めて大きかったといえるじゃろう。

時政公はもともと仕事ができるタイプだったようじゃ。平家滅亡後、義経殿に後白河院が頼朝公追討の宣旨が下されたと聞くや、頼朝公は時政公に率兵上京を命じる。時政公は院近臣を迅速に処断し、京の治安維持につとめた。そして義経殿追討のため、守護地頭の設置を認めさせるなど、めんどうな職務をテキパキ処理した。

その後は、京都から戻り、奥州征伐の戦勝祈願のため北条の地にを建立している。現在はこぢんまりとした境内じゃが、鎌倉時代には、伊豆屈指の大寺院だったらしい。

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権力闘争に勝利して「執権」となる

鎌倉幕府草創期を支えていた時政公であったが、頼朝公が亡くなり、頼家公が2代将軍になると、その政治力を発揮し始める。頼家公が御家人の反発を招くと、すぐさま宿老13人による合議制が敷かれ、時政公は義時公とともに名を連ねている。

その直後、辣腕をふるっていた侍所別当梶原景時が、御家人66人による弾劾で、鎌倉から追放される事件が起こる(梶原景時の変)。このとき、時政公は弾劾状に署名してはいないが、そもそも事件のきっかけは時政公の娘・阿波局がつくっており、追放された景時ら一族が北条の勢力圏内で殺されていることから、やはり時政公は何らか関与していたのじゃろう。

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建仁3年(1203)、頼家公が病に倒れ、危篤状態に陥る。すると、時政公は頼家公の外戚で、北条の最大のライバルであった比企能員を自邸に招いて誅殺し、一族もろとも葬ってしまう。そして頼家公を伊豆に流してこっそりと殺害し、実朝公を3代将軍にすえつけてしまう。じつに鮮やかなクーデターじゃな。

なお、この一連の騒動については、背景には専制を強める将軍とその近臣勢力と、有力御家人との間の対立があったことから、時政公は御家人の総意としてこれをすすめたという説もある。事の真偽はわからぬが、あり得る話ではあるな。じっさい、この時期、まだ北条の力は小さい。時政公の独断でこれだけのことをできるかといえば、やや疑問ではある。

ただし、この事件以後、時政公は将軍外戚、政所別当として実権を握ることになる。鎌倉幕府では政所別当を「執権」と称していた。初代の執権は大江広元じゃが、事実上、政権を握ったという意味では、ここに北条執権政治が始まったといってよいじゃろう。

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さすがにやりすぎ、牧氏事件で失脚

3代将軍となった源実朝公は、将軍の「旗本」ともいえる武蔵国内の御家人北条時政公の指揮下に入るように命じた。もちろん、時政公の指示によるものじゃが、これは時政公と武蔵有力御家人畠山重忠とその一族との間に軋轢を生んだ。

元久2年(1204)、時政公の後妻・牧の方が、畠山重忠に謀反の疑いありという訴えを起こす。すると時政公は討手を差し向け、武蔵国二俣川(現在の横浜市旭区二俣川)で重忠を討ち取ってしまう。このとき、義時公や時房殿は反対し、時政公を諫めたという。畠山重忠は時政公の娘婿でもあったしな。じゃが、時政公が武蔵を支配するためには、人望厚い畠山重忠はどうしても排除しておきたかったんじゃろう。

ということで、かなり強引に政権基盤を固めてきた時政公であったが、後妻の牧の方と共謀して、実朝公を排除し、娘婿の平賀朝雅を将軍にしようとたくらんだのは、いかにもやりすぎ(牧氏事件)であった。牧の方は京都の公家の出で、時政公との間に、かわいい政範が生まれている。この政範は若くして亡くなっているが、時政公と牧の方は政範を嫡男として考えていたふしもある。この頃には時政公と前妻の子・政子殿と義時公の間には埋めがたい溝ができていたようじゃ。

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伊豆・北条郡に於て卒去

けっきょく時政公はこの牧氏事件で政子殿と義時公によって伊豆に追放されてしまう。そして10年後、二度と歴史の表舞台に現れることなく、伊豆で没している。

北条時政の墓

北条時政の墓(願成就院

 

ちなみに、時政公には子が多い。

源氏から京都の公家まで、実に幅広い婚姻関係を結んでいることがわかる。この人脈からしても、時政公の政治基盤の強固さがよくわかる。

箱根法師としての前世で積んだ功徳が、頼朝公という貴種との縁をつなぎ、それを担いでの果断な大博打に打って出て勝利した時政公。時勢を察知する先見性に優れていたことは間違いない。

北条時政公は晩節を汚したということで評判がすこぶる悪い。ただし、時政公だけを悪くいうのは、やはりアンフェアじゃろう。というのも、北条歴代はみな、ライバルを蹴落として政権基盤を固めていったわけじゃからな。これは時政公のDNAがしっかりと受け継がれている証左であろう。

大河ドラマ坂東彌十郎さんが、名もない東国の一豪族に過ぎなかった北条氏を鎌倉幕府の権力者に押し上げた実力者をどう演じるか。今から楽しみである。