大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習のため、13人を順番にまとめていく企画の12人目は和田義盛のこと。ドラマで演じるのは横田栄司さんということじゃが…和田義盛は、なんかもう、いろいろとw あれもこれも書き出すときりがない御仁なので、今日のところは簡潔にいこうと思うぞ。
和田義盛の出自
和田小太郎義盛は坂東八平氏の一つ、三浦氏の支族である。久安3年(1147)、三浦義明の子・杉本義宗の嫡男として生まれた。杉本義宗は鎌倉の杉本寺に城館を構えており、義盛は相模国三浦郡和田の里(あるいは安房国和田御厨という説も)に所領があったことから「和田」を姓とするようになった。ちなみに、杉本義宗没後に三浦党を率いたのは義宗の弟の三浦義澄で、和田義盛とは叔父甥の関係じゃよ。
治承4年(1180年)、源頼朝公が伊豆に挙兵すると、三浦党も合流すべく三浦義澄以下500余騎が出立した。義盛と弟・小次郎義茂もこの軍勢に参加している。
じゃが、酒匂川まで来たところで増水のために三浦党は渡河できず、その間に頼朝公は石橋山に敗れ、行方知れずとなる。三浦党はやむなく兵を返すが、帰路、鎌倉由比ヶ浜で平家方の畠山重忠との遭遇戦となった。
『源平盛衰記』によれば、畠山三浦は双方に縁者も多いことから戦を避けようとしていた。しかし、そんな事情を知らない小次郎義茂が畠山の陣に戦を仕掛け、合戦になったという(小坪合戦)。
その後、三浦党は衣笠城に拠って戦うが、すでに疲弊しきった三浦党は89歳と老齢だった三浦義明が一人城に残って討死、三浦義澄や和田義盛らは捲土重来を期して、海上を安房に逃れている(衣笠城合戦)。
侍所別当に就任
和田義盛ら三浦党は、海上で頼朝公一行と合流する。『平家物語』によればこのとき、義盛は頼朝公に世が治まれば自分を侍所別当にするよう要求したという。ちょっと、あつかましい感じがするな。
和田の小太郎申けるは、父も死ね、子孫も死ね。只今君を見奉れば、それに過たる悦はなし。今は本意を遂ん事疑ひ有べからず、君今は只侍共に国々をばわけ給へ、義盛には侍所別当をたふべし。上総権の守忠清が、平家より八ヶ国の侍別当を給てもてなされ候しが、浦山しく候しにとぞ申ける。
頼朝公は千葉常胤、上総広常を味方につけ再起を図る。このとき、上総広常への使者となったのが義盛じゃ。上総広常は、このとき必ずしも頼朝公への合力を約していたわけではなく、義盛はかなりの重責を担っていたことになる。
その後、頼朝公のもとには畠山重忠をはじめとする坂東武者が続々とはせ参じてくる。そして頼朝公が鎌倉に入ると、義盛は上総広常とともに常陸を攻め、佐竹秀義を生け捕りにして凱旋した。このとき、義盛は安房での約束どおり、頼朝公から侍所別当に任じられている。三浦党の領袖である義澄をさしおいての大抜擢じゃな。
壇ノ浦の合戦でみせた義盛の「遠矢」
元暦元年(1184)8月、和田義盛は源範頼殿(蒲殿)の軍奉行として、平家追討のため西国へ向かう。山陽道から九州へ渡り、平家の退路を遮断しようという戦略じゃ。
しかし蒲殿の軍は兵糧調達に苦しみ、なかなか九州に渡れずにいた。『吾妻鏡』元暦2年1月12日の条には厭戦気分が蔓延し、和田義盛が「鎌倉に帰りたい!」と言い出したという記述がある。
参州(範頼)周防より赤間関に到る。平家を攻めんが為、その所より渡海せんと欲するの処、粮絶え船無く、不慮の逗留数日に及ぶ。東国の輩、頗る退屈の意有り。多く本国を恋う。和田の小太郎義盛が如き、猶潛かに鎌倉に帰参せんと擬す。
それでも蒲殿の軍は豊後国へ渡り、葦屋浦の戦いで平家の退路遮断に成功する。九郎殿(源義経)も屋島の戦いに勝利し、平家は長門国彦島においつめられた。
そして運命の壇ノ浦の合戦。『平家物語』によると、このとき義盛は、平家を相手に馬上渚から遠矢を射ちかけ、「その矢を射返してみろ」と挑発した。もっとも、射返されて、味方から失笑されてしまうわけじゃがな。
源氏の方には、和田小太郎義盛、船には乗らず馬に打ち乗り、鐙の端踏み反らし、平家の勢の中を、差し詰め引き詰め散々に射る。本より精兵の手利きにてありければ、三町が内のものをば、外さず、強う射けり。中にも殊に遠射たると思しき矢を、「その矢賜たまはらん」とぞ招きける。
新中納言知盛卿、この矢を抜かせて見給へば、白箆に鶴の本白、鴻の羽割り合はせて矧いだる矢の、十三束三伏ありけるに、沓巻より一束ばかりおいて、和田の小太郎平義盛と、漆にてぞ書き付けたる。平家の方にも精兵多しと言へども、さすが遠矢射る仁やなかりけん。
ややあつて伊予の国の住人、仁井紀四郎親清、この矢を賜たまはつて射返かへす。これも三町余を、つとい渡いて、和田が後ろ一反ばかりに控へたる、三浦の石左近太郎が、弓手の腕に、したたかにこそ立つたりけれ。三浦の人ども寄り合ひて、「あな憎や、和田の小太郎が、我ほどの精兵なしと心得て、恥ぢかきぬるをかしさよ」と笑ひければ、義盛、安からぬ事なりとて、今度は小舟に乗つて漕ぎ出だし、平家の勢の中を、差し詰め引き詰め散々に射ければ、者ども多く手負ひ射殺さる。
平家が壇ノ浦に滅びると、頼朝公は九郎殿と不仲となりこれを追討、続いて奥州藤原氏を攻めた。義盛ももちろん従軍し、阿津賀志山の戦いで藤原国衡が大敗を喫し逃亡すると、義盛は先陣をきってこれを追撃したという。そして、藤原泰衡の首が幕府軍に届けられると、畠山重忠といっしょに首実検を行っている。ちなみに、奥州合戦後、義盛と重忠は国衡を討ち取った戦功をめぐり言い合いになっている。2人の言い合いは、なかなか迫力がありそうじゃな。
宿老として十三人の合議制に参画
建久3年(1192)、義盛は侍所別当職を梶原景時と交代した。『吾妻鏡』には、景時が「一日だけでも」と義盛に頼みこみ、義盛が所領へ帰る暇の間だけということで職を預けたが、そのまんまと職を奪われてしまったとある。さすがにそんなマヌケな話があるとは思えんから、梶原景時を悪者にするための創作のようにも思えるが、義盛らしいと言えば義盛らしいではないか。
頼朝公没後、2代将軍に頼家公が就任すると、十三人の合議制がしかれ、義盛はここに名を連ねるが、御家人たちの結束は急に崩れていく。まず、梶原景時がやり玉に挙げられた。御家人たちは景時の専横を憎み、弾劾状を作成して頼家公に直訴するが、このときの急先鋒が義盛であった。侍所別当を景時に奪われたのがよほど悔しかったのじゃろう。
弾劾状を受け取った大江広元は、その取扱いを思案していた。すると、そこへ和田より森が怒鳴り込んできた。
和田左衛門の尉と廣元朝臣と御所に参会す。義盛云く、彼の状定めて披露せらるか。御気色如何にと。未だ申さずの由を答う。義盛眼を瞋らして云く、貴客は関東の爪牙耳目として、すでに多年を歴るなり。景時が一身の権威を怖れ、諸人の欝陶を閣く、寧ろ憲法に叶わんやと。廣元云く、全く怖畏の儀に非ず。ただ彼の損亡を痛むばかりなりと。義盛件の朝臣の座辺に居寄り、恐れずんば爭か数日を送りべけんや。披露せらるべきや否や。今これを承り切るべしと。殆ど呵責に及ぶ。(「吾妻鏡」正治元年11月10日)
「びびってんじゃねえよ!」とつっかかる義盛の様子が目に浮かぶようじゃ。けっきょく景時はこれをきっかけに失脚し鎌倉を退去する。そして、さいごには一族もろとも討伐されてしまう(梶原景時の変)。そして景時の失脚により、義盛は侍所別当に復職するのじゃ。
その後の比企能員の変で、義盛は北条に与して比企氏討伐に参加している。しかし、このとき、頼家公がわが子・一幡と比企一族が討たれたことを知って大激怒。義盛と仁田忠常に北条氏討伐の御教書を出した。これを受け取った義盛は思案の末、北条時政に報告することにした。ちなみに仁田忠常は北条氏によって滅ぼされており、賢明な判断であったといえよう。
頼家公が追放され、実朝公が将軍になると、初代執権に北条時政公が就任した。時政公は策謀によって畠山重忠に謀反の嫌疑をかけ、討伐軍を発した。このとき義盛も一手の大将軍として出陣している(畠山重忠の乱)。その後、時政公は実朝公廃立を画策して失敗し、代わって義時公が2代執権に就任する。
このあたりの一連の流れは、鎌倉北条氏の凄まじい権力闘争を感じさせるが、その刃はやがて和田義盛に向けられるのじゃ。
北条義時との確執、和田合戦で敗れて滅亡
義盛には鎌倉の宿老として、侍所別当として、頼朝公股肱の臣としての自負心があった。幕府内における自身の実力を過信していたふしもある。
承元3年(1209)、義盛は上総国司の職を望み、実朝公に内々に願い出た。これはもちろん、北条への対抗心の表れであろう。すでにこのとき、義時公は相模守、時房殿は武蔵守に叙任していたし、「そんなら俺も!」と義盛は思ったんじゃろうな。
じゃが、実朝公はこれを了としたが、北条政子さまが「それは頼朝公の先例にかなわない」と反対した。しかし義盛はあきらめず、今度は大江広元にねじこんだ。
左衛門尉義盛上総の国司所望の事、以前は内々に望むなり。今日すでに款状を大官令(広元)に付す。始めには治承以後度々の勲功の事を載せ、後には述懐す。所詮一生の余執ただこの一事たるの由と。
治承寿永以来の勲功に対する「一生の余執」といったあたりに、義盛の自信の程が伺えるではないか。けっきょくこの願いは聞き届けられなかったが、こうした義盛の振る舞いと自負心は、身の破滅へとつながっていく。
建暦3年2月、泉親衡の郎党青栗七郎の弟で安念坊という僧が千葉成胤を訪ね、頼家公の遺児・千寿丸を擁し、義時公打倒の兵を挙げたいとの協力を求めてきた。成胤はすぐに安念坊を捕縛し、義時公の元へ連行したが、彼の自白により義盛の子の義直、義重、甥の胤長の関与が疑われた。
このとき、義盛は鎌倉を留守にしていたが、すぐさま戻って御所にかけつけ、「累日の労苦」「数度の勲功」に免じて、息子たちを赦免するよう願い出た。その結果、義直、義重は赦されたが、胤長は事件のっ中心人物であるということで、陸奥国へ配流となった。義盛はこれに納得せず、一族を率いて再交渉にやってきた。
義盛(木蘭地の水干・葛袴を着す)今日また御所に参る。一族九十八人を引率し、南庭に列座す。これ囚人胤長を厚免せらるべきの由申請するに依ってなり。廣元朝臣申次たり。而るに彼の胤長は今度の張本たり。殊に計略を廻すの旨聞こし食すの間、御許容に能わず。即ち行親・忠家等が手より、山城判官行村方に召し渡さる。重く禁遏を加うべきの由、相州(義時)御旨を伝えらる。この間胤長の身を面縛し、一族の座前を渡す。行村これを請け取らしむ。義盛が逆心職而これによると(『吾妻鏡』建暦3年3月9日の条)
しかし、義時公は毅然としてこれをはねつけた。しかも、胤長を和田一族の面前に引き出してきて、これを裁いた。義盛にとって、このうえない「恥辱」であり、義盛の逆心の一因になったと、『吾妻鏡』は記している。
事件の後、鎌倉の胤長邸は没収となった。そこで義盛は、罪人の屋敷は一族に下げ渡されるのが慣わしであると主張し、自分のものにしようとした。この願いはいったんは聞き届けられたのじゃが、義時公はそれを無視して、別の御家人に胤長邸を下げ渡してしまったのじゃ。
相州(義時)胤長が荏柄前の屋地を拝領せらる。則ち行親・忠家に分け給うの間、前給人和田左衛門の尉義盛が代官久野谷の彌次郎を追い出し、各々卜居する所なり。義盛欝陶を含むと雖も、勝劣を論ずることすでに虎鼠の如し。仍って再び子細を申すに能わず。先日一類を相率いて、胤長が事を参訴するの時、敢えて恩許の沙汰無く、剰えその身を緬縄し、一族の眼前を渡し、判官に下さる。列参の眉目を失うと称し、彼の日より悉く出仕を止めをはんぬ。その後義盛件の屋地を給い、聊か怨念を慰めんと欲するの処、事を問わず得替す。逆心いよいよ止まずして起こると(『吾妻鏡』建暦3年4月2日の条)。
泉親衡の乱を発端とする一連の流れは、義時公が短気な義盛を挑発したという人がいるが、まあ、そうかもしれん。義盛はちょっと調子こいていたしな。あるいは、泉親衡の乱そのものが、黒幕は義盛だったという説もある。そのあたりは歴史の闇の中じゃが、いずれにせよ、義盛は横山党とともに兵を集め、鎌倉は騒然となった。
一触即発の事態を憂慮した実朝公は使者を義盛邸へ送った。このとき義盛は「上(実朝)に於いては全く恨みを存ぜず。相州(義時)の所為傍若無人の間、子細を尋ね承らんが為発向すべき」と答えたという。かくして、鎌倉での市街戦がはじまるのじゃ。
和田義盛の乱の詳細については以前に書いたので割愛するが、三浦義村の合力を得られなかったのは義盛にとっては誤算であったじゃろう。義村は同心を約束したにもかかわらず、変心して義盛謀反を義時に通報した。義盛はさぞや無念だったじゃろう。
義盛の死により、義時公は政所と侍所の別当を兼ねることとなり、北条執権体制は盤石となった。こうしてみると、やはりこの一連の流れは、短慮な義盛を利用した義時公の計画どおりのようにも思えるな。
なお、和田義盛は生き残り、落武者となって南伊豆の青市に身を寄せたという伝承がある。義盛は庄屋の娘と結婚し、子も生まれ、名を山田と改めたというのじゃ。ちなみに、青市には和田義盛の墓がある。
また、『源平盛衰記』によれば、義盛は木曾義仲の愛妾であった巴御前を娶ったという伝承もある。「あのような剛の者に子を産ませたい」と頼朝公に申し出て、そうして生まれたのが剛勇で知られる朝比奈義秀というのじゃ。もちろん、義秀の年齢からして、そんなことはありえないのじゃが、義盛ならさもありなんという気はしないでもない。
義盛は武勇において御家人の尊敬を受ける人物であったのは間違いない。ただ、直情下向というか、猪突猛進というか、思慮に欠ける面があったことは否めない。「俺が俺が」みたいな、自信が前面に現れるタイプじゃな。その結果、義時公の挑発にまんまと乗り、破滅してしまったというわけじゃ。
人間、調子にのってはいかんな。己を知り、分を知り、足るを知り、謙虚でなければいかんなと、あらためて思う次第じゃ。