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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

源頼朝上陸地〜石橋山に敗れた頼朝はなぜ房州で再起できたのか

浦賀水道を渡り、安房へ行って来たんじゃが、源頼朝公が上陸した地の石碑があったので、今回は石橋山の戦い後、安房に逃れた頼朝公がどう行動したのかを紹介してみたいと思うぞ。

源頼朝上陸地

源頼朝上陸地

源頼朝、石橋山に敗れ、安房に脱れる

浦賀水道

房総半島側から浦賀水道を臨む

治承4年(1180年)8月23日、伊豆で平家打倒の兵を挙げた源頼朝公じゃったが、石橋山の合戦で大庭景親に敗れてしまった。頼朝公一行は数日間山中を逃げ回り、命からがらどうにか真鶴岬に出て、小船で脱出し安房国へと逃れた。

この間、三浦氏も畠山重忠らによって衣笠城を攻められ、三浦義明が討死している。じゃが、義明の子・義澄らは城を落ちて安房へ向けて船出しており、海上で運よく頼朝公と合流することができた。頼朝公も三浦党との再会はさぞかし心強かったことじゃろう。

このとき和田義盛が、頼朝公に「もし天下をとったらわしを侍所別当にしてください」と頼み、頼朝公が「気の早いやつだ」と笑いながら、それを承諾したという逸話は有名じゃな。さすが和田ちゃん、さぞかし場の空気も和んだことじゃろう。

まあ、そのあたりのことはこちらの記事を読んでもらうとして、今回は先を急ぐ。

安西景益の参陣

8月29日、頼朝公は現在の鋸南町竜島の浜に上陸すると、まずは安房丸厨(現在の南房総市丸山町あたり)の豪族・安西景益に書状を送った。安房の在地領主の多くは平忠常の乱以後、もともと源氏との縁が深い。なかでも安西氏は保元の乱で源義朝殿に従っており、「吾妻鏡」によれば景益は幼少期の頼朝公と面識があったらしい。

頼朝公はひとまずこの地から小山氏や葛西氏といった関東の豪族に参向を求める書状を遣わし、自身は房総半島一の実力者・上総広常の元へ向かうことにした。

その途上の9月3日、民家に泊まっていた頼朝公を長狭常伴が襲撃してきた。長狭氏は安房の豪族の中でも平氏との結びつきが強く、浦賀水道周辺の利権をめぐり三浦氏とも対立していた。じゃが、この計画は事前に三浦義澄に露見したため失敗におわり、長狭常伴は返り討ちにあってしまったのじゃ。早々に平氏方を打ち破ったことは、房州の武士たちに対してよきアピールとなったことじゃろう。ちなみに、現在も「一戦場」という地名が残っており、そこで戦があったと考えられている。

翌日、安西景益が一族と在庁官人を連れて頼朝公のところへやってくる。景益は「上総広常の元へ行くのは危険である。長狭常伴のような連中が沢山いる。迎えに来させた方が良い」と助言し、頼朝公はこれを受け入れ、和田義盛を上総広常に、安達盛長を千葉常胤に遣わせることとしたのじゃ。

このとき、頼朝公は館山の洲崎神社へ参拝し、2人の使者が上総氏、千葉氏の合力を取り付けて守備よく戻ってきたならば、神領を寄進するという願文を奉納し、後日、実際に寄進しているそうじゃよ。

また、景益がおさめていた丸厨からはこの時、頼朝公に馬が献上されている。もともと丸厨の地は源頼義殿が前九年の役で安倍一族を征伐したときにに得た所領であり、源義朝殿が父・為義殿から譲渡された最初の土地でもある。平治元年には若き頼朝公の出世を祈願して伊勢神宮に庄園を寄進しており、その後、頼朝公は上西門院蔵人に補されている。これを聞いた頼朝公は、20年以上昔のことに思いを馳せ、涙を流したという。そして、再起がかなったときには新たな御厨をこの地につくり、伊勢神宮に寄進することを約束したそうじゃ。

短い期間ではあったが、景益のもてなしで命の洗濯をした頼朝公。ちなみに、その後の景益にじゃが、北条政子さまご懐妊の時には洲崎神社に安産祈願をしている。さらには源範頼殿の平家追討軍に参加して西海にも出陣。建久6年(1195)の頼朝公上洛に従った武者の中にも、その名が記されているぞ。

千葉常胤の参陣

千葉常胤

千葉常胤騎馬像(千葉市郷土博物館)

ほどなくして安達盛長が千葉常胤のところから帰ってきた。千葉氏は桓武平氏良文流の流れをくむ下総国の有力在庁官人で、上総広常の又従兄弟にあたる。常胤は息子の胤正、胤頼と一緒に盛長に面会したらしい。「吾妻鏡」にそのときの様子が記されている。

常胤、具に盛長之述る所を聞くと雖も、暫く發言せ不。只眠るが如し。而して件の両息同音に云はく、 武衛(頼朝)虎牙の跡を興して狼唳を鎮め給ふ。縡の最初に其の召し有り。服應に何ぞ猶豫の儀に及ばん哉。早く領状之奉を献ぜ被る可し。
常胤云はく、心中領状更に異儀無し。源家中絶の跡を興令め給ふ之條、感涙眼を遮り、言語之覃ぶ所に非ざる也。
其の後、盃酒有り。次でに當時の御居所は指し被る要害の地、又御嚢跡に非。速かに相摸国の鎌倉に出で令め給ふ可し。 常胤門客等を相率ひ、御迎の爲、參向可し之由、之を申す。

はじめ常胤はまるで眠っているかのように発言をしなかった。それをみていた息子たちは、「頼朝様が眠れる虎が目を覚ますが如く、先祖の英雄の跡を思い起こして平家を攻めようとし、最初に我が家に呼びかけられているのに、なぜん躊躇しているのですか。早く承諾しましょう」と督促した。

すると常胤は、「心はすでに決めてある。ただ源氏の途絶えていた権勢を盛り返そうとの御心に、わしは猛烈に感動して涙が溢れ、言葉が出ないのだ」と答えたそうじゃ。

その後、酒が振舞われると常胤は鎌倉へ向かうことを献策し、頼朝公に従うことを決意する。決起した常胤はまず、平氏方の下総代官・藤原親政を攻め、これを生捕りにする。そして一族と兵300騎を率いて頼朝公の下へ参陣したのじゃ。

ところで、千葉氏のもとには、平治の乱で敗れた源義朝殿の大叔父・源義隆殿の子が配流されていた。常胤は源氏への旧恩から、その子を養育していた。後の毛利頼隆じゃ。

常胤は頼隆を伴って頼朝公の前に伺候した。頼朝公は源氏の孤児に哀れみと温情を示し、常胤より上座に据えるなどの厚遇を施している。

そして常胤には「司馬(常胤)を以て父と為す之由」と仰せになり、その労に心から謝したと伝えられている。

上総広常の参陣

さて、もう一人の有力者・上総広常は「兵を集めているため遅くなる」と言ってすぐに参陣しなかったが、治承4年9月19日、ようやく2万騎の兵を率いてやってきた。

上総広常

上総介広常(大日本六十余将 Wikipedia)

このとき、頼朝公は、大軍を率いた広常の参陣を喜ぶどころか、逆にその遅参を咎めたという。「吾妻鏡」にはこうある。

上総権介廣常、当国周東・周西・伊南・伊北・廰南・廰北の輩等を催し具し、二万 騎を率い、隅田河の辺に参上す。武衛頗る彼の遅参を瞋り、敢えて以て許容の気無し。
廣常潛かに思えらく、当時の如きは、卒士皆平相国禅閤の管領に非ずと云うこと無し。 爰に武衛流人として、輙く義兵を挙げらるの間、その形勢高喚の相無くば、直にこれ を討ち取り、平家に献ずべしてえり。仍って内に二図の存念を挿むと雖も、外に帰伏の儀を備えて参る。然ればこの数万の合力を得て、感悦せらるべきかの由、思い儲くの処、遅参を咎めらるの気色有り。これ殆ど人主の躰に叶うなり。これに依って忽ち害心を変じ、和順を奉ると。

「吾妻鏡」には、広常は2万の軍勢を背景に頼朝の器量を見定め、場合によっては討ち取ってしまおうと考えていたと記されている。ある。しかし、数万の味方を得て喜ぶだろうと思ってやって来たのに、反対に遅参を咎められたことから、かえって頼朝公の将としての器を見直したというのじゃ。

広常の遅参については、周辺の平氏方を掃討していたことが理由で本来は咎め立てされるものではないと、この逸話そのものを創作とみる人もいる。まあ、真偽のほどは疑わしいかもしれんが、いずれにせよ広常の合力を得たことで頼朝公の兵力は飛躍的に充実した。もはやこの勢いは止めようがない。

その後、頼朝公は武蔵国に向かい、足立遠元、葛西清重、畠山重忠、河越重頼、江戸重長らを臣従させることに成功した。かくして頼朝公は「鎌倉」を目指して進軍していくのである。

なお、上総広常については他にも書いたものがあるので、よければそちらもよんでほしい。

源頼朝上陸地・竜島に残る伝承

源頼朝上陸地付近

さて、最後に頼朝公が上陸したとされる竜島に残る伝承についても少し。場所は、現在の鋸南町竜島で、そこには石碑があり、千葉県指定史跡に指定されておるぞ。

命からがら海路この地へ逃れてきた頼朝公について、「吾妻鏡」治承4年8月29日条にはこう記されている。

武衛(頼朝)、(土肥)実平を相具し、掉を扁け、舟を安房國平北郡獵嶋于着け令め給ふ。北条殿以下の人々、之を拝し迎へ、数日の鬱念一時に散開すと云々。

頼朝公は疲労困憊、しかも高貴な身であったが故、水に濡れるのが嫌で漁師におぶってもらって上陸したという。

このとき頼朝公はサザエをふんでけがをしてしまう。癇癪を起こした「竜島のサザエのツノなど無くなってしまえ!」と怒鳴ったらしい。すると不思議なことに、それ以後、竜島のサザエはツノが無くなってしまったと言うのじゃ。

また、漁師たちに親切にされた頼朝公はそれに報いるために「わしが天下をとったなら、おまえたちに安房一国を与えよう」と言ったそうじゃ。すると漁師たちは、「粟なら裏の畑でも取れるから、それよりも苗字をください」と言ったそうじゃ。安房と粟を勘違いしたんじゃな。それを聞いた頼朝公は「そうか、ばかだなぁ」と笑いながら行ったらしいが、それを漁師たちはまたまた勘違い。苗字をくれたと思ったらしく、この辺りの漁師は「左右加」「馬賀」を名のるようになったそうじゃ。

どこまで本当かは知らんが、現地で聞いた面白い話なので参考まで。

それにしても敗軍の将であった源頼朝公がこんな短期間の間に房州で勢力を立て直し、あっという間に鎌倉に府を構えてしまったの事実には驚かされる。それだけ関東における平氏の評判が悪く、中央への憤りが溜まっていたということじゃろう。

千葉常胤ではないが、そうした不満分子にとって「源氏再興」という大義はとにかく効いた。時の流れ、勢いというものはこういうものなんじゃろう。