後醍醐天皇が一時配流となった隠岐。ところで、後醍醐天皇の行在所は隠岐のどこにあったのじゃろうか。最初に上陸したのは島前の知夫里島(知夫村仁夫)であったようじゃが、その後の1年半をどこでどう過ごしていたのか。地元では島後の国分寺と島前の黒木御所の2箇所が行在所の候補となっておる。わしも現地に行ってみたことがあるので、この論争について整理し、最後に私見を述べてみたいと思う。
なお、後醍醐天皇の隠岐脱出劇とそのルートについては、下記にまとめてあるので参考にして欲しい。
隠岐ってどんなところ?
まずは隠岐についてざっくりと説明するぞ。隠岐は島根県に所属する日本海の群島型離島である。わしははじめ、隠岐島というのがどーんとあるのかと思っていたが、実際は「隠岐諸島」として島前の西ノ島、中ノ島、知夫里島と島後島の4島のほか大小180余りの島々から成り立っておる。
隠岐は「古事記」の国造り神話に「隠岐三ツ子の島」として登場し、本州や九州と並び大八島の一つに数えられておった。隠岐は黒曜石が採れ、旧石器時代には石器の材料として重宝されていた。隠岐の黒曜石は良質だったので、中国地方はもちろん北陸、四国地方まで運ばれたらしい。また、江戸時代の半ばには北前船の寄港地として大いに栄えたというから、海上交通の要衝であるといってよいじゃろう。
古代日本では全国に国府が置かれたが、隠岐も一国として国司が置かれた。国司が使用した駅鈴は、現在も玉若酢命神社社家の億岐家に残されておる。ちなみに平城宮の木簡には「隠伎国」と表記されているが、その後「隠岐」の表記に統一されたようじゃな。
武家の時代となった建久4年(1193)には、隠岐の地頭職に源頼朝公の側近であった佐々木定綱が補任された。その後、室町戦国期には山名氏や京極氏が支配するが、関ヶ原の頃には堀尾吉晴が治め、江戸時代には松江藩預り地となっておるぞ。
隠岐は遠流の島である。平安時代には小野篁、鎌倉時代には後鳥羽上皇、後醍醐天皇、江戸時代には飛鳥井少将雅賢、小野尊俊が流されている。平安時代までは、それなりの地位にある者のみが流されていたが、江戸期には必ずしもそうではなかったようじゃ。
ともかく、隠岐は島根半島から北東へ約65km。そう簡単に脱出できるようなところではない。よくぞまあ、脱出できたものじゃな。
後醍醐天皇行在所としての伝承が伝わる黒木御所
さて、本題の後醍醐天皇の隠岐での配流生活についてじゃが、現在は行在所の候補として島前・西ノ島の「黒木御所」説と島後島の「国分寺」説の2つがある。
まずは西ノ島の「黒木御所」説じゃ。ちなみに黒木御所の「黒木」とは、皮を削っていない木材を用いて建てた御所という意味で、その粗末さを印象付ける目的でそうしていたのじゃ。
古から黒木御所は別府港の東、湾に突き出た丘の上にあったとされており、隣接する黒木神社には後醍醐帝が祀られている。黒木神社は明治になって「建武の中興発祥の地」として正式に創建されたが、かつてはこのあたりの杜一体が天皇山と呼ばれ、崇められておった。
湾を挟んだ黒木御所の対面には「見付島」がある。ここには番人が常駐し、昼夜を問わず後醍醐帝を見張っていた。黒木御所の周囲は今でこそ鬱蒼とした森になっているが、当時は周囲からその様子が丸見えだったそうじゃよ。
「太平記」に記された黒木御所での流人生活
「太平記」巻第四には、後醍醐帝の黒木御所での生活の様子が記されている。
玉扆(玉座の背後に立てる屏風)に咫尺して被召仕ける人とては、六条少将忠顕、頭大夫行房、女房には三位殿の御局許也。昔の玉楼金殿に引替て、憂節茂き竹椽、涙隙なき松の墻、一夜を隔る程も可堪忍御心地ならず。鶏人暁を唱し声、警固の武士の番を催す声許り、御枕の上に近ければ、夜のをとゞに入せ給ても、露まどろませ給はず。
帝の側にお仕えするのは千種忠顕、藤原行房、三位局(阿野廉子)の3人のみ。かつての華麗な宮殿と比べると、鬱蒼とした竹で囲まれた粗末な建物、松の壁に囲まれた寂しい場所である。しかも、夜明けの合図を告げる人の声や、警備の武士が交代する声が枕元近くに聞こえてくるので、物音が耳に入ってきて少しもまどろむことができない。
天地開闢より以来斯る不思議を不聞。されば掛天日月も、為誰明なる事を不恥。
その寂しさを「空にある太陽や月でさえ、誰のために輝いているのかを恥じてしまう。心を持たない草木でさえも、悲しみで花を咲かせることを忘れてしまうだろう」なんて「太平記」は記しているが、政権転覆を企てたわけじゃから仕方がないとわしは思うがな。
なお、この近くには三位局(阿野廉子)の屋形や隠岐判官の居館跡もあり、「太平記」の記述をリアルに感じることができるはずじゃよ。
地元には他にもさまざまな伝承が残されているぞ。たとえば西ノ島町に伝わる「宇野家家譜」には、後醍醐帝が知夫郡中原にある「与次郎」の家に一泊したとか、翌日に宇野家当主の家を訪れたことが記されているという。
島の旧家・木村家には、隠岐を脱出するときに難渋していた後醍醐帝を背負って自宅にお迎えし、邸内の大石の上で休息してもらったとある。その大石は「御腰掛の石」として現在も残っており、その時に賜ったとされる木造愛染明仏龕と鳳乳石は、同家の家宝として今に伝わっている。
また、美田尻の近藤家の先祖は、後醍醐帝の隠岐脱出時に船頭として海を渡り、その後、伯耆に住み着いたという伝承があるらしいぞ。
現地に行ってみるとよくわかるが、この地には「太平記」の記述を裏付けるような伝承の類がたくさん残されている。地元の方々が郷土に伝わる歴史を何代にもわたって大切に語りついできた重みをひしひしと感じることができるのじゃ。それゆえ、この地での北条の評判はあまりよくないかもしれない。
それはともかく、こうしてみてくると「後醍醐天皇行在所は西ノ島の黒木御所で決定」でよいように思えてくる。江戸時代にこの地を治めた松江藩も行政文書に黒木御所を後醍醐帝の行在所として記しておるくらいじゃしな。
じゃが、明治になると本土の歴史学者を中心に、島後島の「国分寺」説が新たに提起され、にわかに注目されるようになったのじゃ。
明治後、文献を根拠に提起された「国分寺」説
明治の歴史学者が支持した「国分寺」説の根拠は次のようなものである。
まず、『増鏡』に後醍醐天皇の行在所は「海づらよりは少し入りたる国分寺と言ふ寺を、よろしき様に取り払いて、御座しまし所に定む」という記述がバッチリあるということじゃ。
また、『太平記』には「佐々木隠岐判官貞清(清高)、府(こう)の嶋と云所に、黒木の御所を作て皇居とす」という記述がある。「府の嶋」とは国府のあった島という意味で、それはつまり島後島の国分寺に他ならない、西ノ島は「別府」であり「府の嶋ではない」というのじゃな。
さらに強力な根拠として出てきたのが、出雲平田の鰐淵寺に伝わる後醍醐天皇宸筆の願文が発見されたことじゃ。
これは「倒幕の所願を遂げたら薬師堂を造営する」という後醍醐天皇の願いをこめたものじゃが、その目録には僧・頼源が「国分寺において賜った」と記されていたのじゃ。もっとも、この目録には貼り紙はなされており、頼源の自筆ではないことがわかり疑義もあるようじゃがな。
それでもこれらを根拠に「国分寺」説がにわかに有力となり、あれよあれよという間に島後島の国分寺跡が「後醍醐天皇行在所」として国史跡に指定されてしまうのじゃ。
いきなり本土の歴史学者が、本物は「黒木御所ではなく国分寺である」と断じたことに、西ノ島の島民はさぞかし怒り心頭だったじゃろう。そりゃあそうじゃ。郷土の歴史を根底からひっくり返されるようなもので、心穏やかでいられるはずがない。
ちなみに、たまたま島後島でお会いしたガイドさんは、「まあ、なんとも言えませんけど…島後は国史跡で、島前は県史跡ですからねぇ」と言っておったけどな。
あからさまに島前と島後でもめているようなふうにはみえないが、お互いに言い分はあるようには思えたぞ。
「黒木御所」説と「国分寺説」説、軍配は?
ということで、後醍醐天皇行在所が本当はどちらにあったのか、現時点でも決着はついていない。そこで、現地で両方を訪ねたわしが独断と偏見ではあるが、この論争に決着をつけたいと思う。
結論から言えば、わしは「黒木御所」説を推したいと思う。
たしかに「増鏡」の記述は重要で、歴史学者的にはこちらを推すのはセオリーかも知れぬ。「府の嶋」もはやり国府であり別府じゃないように思うし、鰐淵寺に伝わる後醍醐帝宸筆の願文も疑義はあるかもしれんが有力な情報である。
じゃが、国分寺周辺には後醍醐帝にまつわる伝承の類がほとんどないんじゃよ。たった1年半とはいえ、もし後醍醐帝がここにいたのであれば、もう少し何か伝わっていてもよさそうなものじゃが、まるでない。
何より、この内容は黒木御所跡に隣接する碧風館のガイドさんの説明と、その時にいただいた資料をもとに書かせてもらっているのじゃが、そこからは「黒木御所こそが本物だ!」という思いが伝わってくるんじゃよ。
実際に両方を訪れ、周囲をぶらぶらしてみると、やはり「黒木御所」説に軍配を上げたくなると思うぞ。
あるいは…「じつはどっちにもいた!」説はないじゃろうか。なんせ、あの帝のご気性である。最初は国分寺に入ったが「あれが気に食わん」「これが気に食わん」となんのかんのと難癖をつけ、隠岐判官を困らせて途中から黒木御所にお遷りになったとか。もちろん、隠岐からの脱出、協力者との連絡のしやすさを計算に入れておったのかもしれぬ。
いやいや、これはあくまでも帝を隠岐にお流しした鎌倉の太守の戯言じゃ。忘れておくれ。
隠岐は自然豊かで海産物もうまい。後醍醐帝も後鳥羽院のように島でおとなしくしておってくれたら鎌倉は安泰、南北朝の動乱も回避できたんじゃが…
まあ、じっとしておられる御方ではないわな。