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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

加茂軍議〜北越戦争に臨んだ同盟諸藩の思惑と河井継之助

「加茂軍議」とは、越後方面の戊辰戦争を大きく左右した重要な軍事会議じゃ。長岡藩軍事総督・河井継之助のリーダーシップや戦略的な決断が、歴史に与えた影響などを紹介したいと思う。過日、新潟に遠征し加茂を旅した備忘録も含めて紹介するぞ。

青海神社

青海神社(新潟県加茂市)

北越の小京都・加茂について

新潟県加茂市は古くから京都との関わりがあり「北越の小京都」と呼ばれている。たしかに三方を山に囲まれ、加茂川が流れる落ち着いた街並みはいかにも京都ぽいのう。

町の起源は平安時代まで遡り、青海神社の鳥居前町として栄えたのが始まりとされる。加茂山に鎮座する青海神社は古くから「加茂のお明神さま」と親しまれている。青海郷を開拓した青海首一族は、郷内氏子の護り神として神亀3年(726)に祖神椎根津彦命 (しいねつひこのみこと) と大国魂命 (おおくにたまのみこと)を奉斎し、青海神社を創建した。延暦13年(794)に桓武天皇による平安遷都が行われると、京都賀茂神社の御分霊を祀り、その社領となっている。

戦国時代には上杉氏が支配し、元亀元年(1570)には加茂山要害が築かれている。上杉謙信の母は安産祈願に青海神社に月参りしたという伝承もあるらしい。やがて上杉景勝が会津若松に移封されると加茂は新発田藩領となる。藩主の溝口氏は青海神社の社領寄進、本殿造営等を行い、青海神社を篤く信奉した。そして加茂は江戸期を通じて舟運の拠点として発展し、その後は幕府領となって桑名藩の預かり地として幕末を迎えるというわけじゃ。

幕府領で桑名藩の預地じゃから、わしは加茂は佐幕一辺倒だと思っておった。じゃが、必ずしもそうではないらしい。

というのも、青海神社の祠官・古川茂陵は若き頃に江戸や京都に学び、加茂に帰ってからは尊王思想を普及した。そのためか加茂は幕末には雛田松渓や小柳春堤、村山半牧といった勤王家を多数輩出している。

戊辰戦争が起こると、加茂の勤王家達は越後平定の建白書を高田の新政府軍総督府に献じている。さらには勤王組織「方義隊」を結成し、後に「居之隊」と改組して新政府軍に従軍し、奥羽越列藩同盟軍と戦っている。もちろん、桑名藩の兵として従軍した者も多数おり、他の地域と同様、加茂の地でも勤王と佐幕の対立があったんじゃな。

同盟軍が加茂に集結

新潟県加茂市

小千谷談判が不調に終わり、開戦を余儀なくされた長岡藩は、新政府軍の奇襲によって城を奪われてしまう。長岡藩はいったん栃尾に退いて体勢を整えると、慶応4年5月21日、加茂に進出してきた。

加茂は同盟軍の補給港である新潟から長岡に至るほぼ中間地点に当たる交通の要衝じゃ。加茂の戦略的な重要性について、米沢藩参謀・甘粕備後継成は加茂こう評している。

加茂駅は西南、山を負ひ、東北、川を帯ひ、上条と言ふ村を連ねて、市街、東西に長き事、凡二十町余也。西の方、半里余にして信濃川に接し、又、東の方、山を越へて一里余にして黒水宿に至る。信濃川は与板より、夜中舟を下せば、一夜にして加茂に至る

加茂は「孫子の兵法」における「衢地」である。「衢地」とは複数の国と国境を接している地域である。孫子はこうした土地を得た場合、いたずらに戦うのではなく外交交渉でを隣国と友好を結び、チャンスをうかがえと説いている。同時に、その地を占領すれば天下を狙うことができるという。河井継之助は、この要衝で同盟諸藩と協議し、新政府軍に対して反撃の狼煙をあげようと考えたのじゃ。

皆川嘉治兵衛家

河井継之助が宿陣した皆川嘉治兵衛邸跡(新潟県加茂市)

継之助は、本陣を皆川嘉治兵衛家に定めた。このとき皆川家の主人は没しており、妻が応対した。継之助は「おばあちゃん、これから良い世の中になるよ」と妻に話したという逸話が伝わっている。皆川家は、北越戦争集結の後、よい世の中が来ることを願って、青海神社に亀の噴水を寄進している。

それはともかく、すでに加茂に会津藩、米沢藩、桑名藩、村松藩、幕府衝鋒隊が集結していた。そこで継之助は早速、市川正平治邸に会津藩越後口総督・一瀬要人を訪ね、長岡奪還のための軍議を主催するように要請した。こうして開かれるのが「加茂軍議」というわけじゃ。

実況!加茂軍議

加茂軍議は会津藩の招集により、慶応4年(1868)5月22・23日の2日間にわたり、市川正平治邸で始まった。市川正平治は、豪農・豪商として近隣の経済界に大きな恩恵をもたらした大庄屋じゃ。このとき市川邸は会津藩の宿陣地になっていたが、これ以降は同盟軍における事実上の本営となる。

それでは、加茂軍議初日の様子を甘粕備後の日記をもとに大雑把ではあるが実況風に紹介していこう。

米沢藩、盟主の要請を固辞

市川正平治邸跡

同盟軍の本営となった市川正平治邸跡(新潟県加茂市)

まず口火を切ったのはの会津藩家老で越後口総督を務めた一ノ瀬要人である。冒頭、一ノ瀬は米沢藩に同盟軍の越後口の指揮をとるように要請する。

この時点でも会津の方針は武備恭順。攻められれば戦う覚悟はあるが、表向きは恭順の姿勢を崩してはいない。これは藩主・松平容保の意向であり、一ノ瀬はる奥羽越列藩同盟の雄である米沢藩に全体の戦闘指揮を要請したのじゃ。

じゃが、米沢藩には大藩の会津を差し置いてという遠慮がある。さらに言えば、下手に盟主にされてしまうと、万が一のときに面倒なことになりかねないという打算もあった。

一ノ瀬「先の白石会議でも越後口担当は米沢藩と決まっている。ついては貴藩に向後の作戦指揮をお願いしたい。」

中条豊前(米沢藩大隊頭)「いやいや、ここは会津藩が主宰すべきであろう。石高、兵力からみて会津が指揮を取るのがよいでしょう」

秋月悌次郎(会津藩 軍事奉行添役)「越後は上杉の故地。越後の民も上杉勢の出陣を待っているはずです。藩祖・上杉謙信公がなんと言われるであろうか」

甘粕備後(米沢藩 参謀)「それをいうなら、貴藩の祖・保科正之公は2代将軍秀忠公から奥羽鎮撫を仰せつかって23万石を授かったと聞いています。しかも会津は越後に15万石余の分領もあり、民も服している。ここは会津藩が号令するべきではないでしょうか」

秋月「この戦いは大義の戦です。領土の多寡で盟主を決めるようでは列藩同盟の義の心はどこにいってしまうのでしょうか。薩長の野望をくじくためにも謙信公以来の義をもって、米沢藩が盟主になるべきです」

軍議は会津米沢両藩の思惑もあり、のっけから紛糾してしまう。

長岡・河井継之助、村松藩の裏切りを難詰する

ここで登場するのが河井継之助じゃ。黙って聞いていた継之助が突然から咆哮したのじゃ。

河井継之助(長岡藩軍事総督)「知行の多寡で忠義は変わらぬとのご議論。ならば、我が長岡藩は7万4千石の小藩とはいえ忠孝の心は三百諸侯のどこにも負けてはいないと自負します。だから長岡は義をもって立ち上がり、薩長を迎え撃った。それなのに村松藩の裏切りにあい、城を失う羽目になった。まずは村松藩の責任を問いたい」

森重内(村松藩家老)「裏切りではござらぬ。私どもがこの場にいることこそ、その証です」

河井「何を言いやがる。お前ら、俺たちに銃をぶっ放したじゃねぇか。村松の裏切りさえなければ長岡は負けなかったのだ。どうしてくれるんだ」

田中勘解由(村松藩家老)「あれは手違いによるものです。断じて村松は裏切ってなどいない!」

田中勘解由が言うように、長岡落城時の村松藩の発砲は混乱による者である。じゃが、継之助の追及は収まらない。みながこの光景に唖然とする中、弁解に行き詰まった田中勘解由は、突然に自らの腹に短刀を突き立てたのじゃ。

両脇にいた村松藩士が短刀を取り上げ切腹を押し留めたが、鮮血を飛び散らせて号泣する田中の姿に軍議は騒然となってしまう。

河井継之助、長岡城奪還を主張

河井継之助

河井継之助

ここで継之助は、これを好機と見たのか舌鋒鋭く自論を展開し始める。

河井「我が藩は義のために、会津を助けるために戦ったが、無念にも故城を失った。ご一同、ここは一致団結して長岡城奪還の議を策してはいかがでござろうや」

継之助の作戦は、すぐさま進発して見附を占領し、その後、軍を3分して長岡城に迫るというものである。この発言にいち早く同調したのが桑名藩雷神隊隊長の立見鑑三郎じゃ。

立見「わが桑名も城は西軍に占領されている。だが、必ずやこの戦いに勝利して故城を奪還しようと思う。そのためにも、我ら桑名藩は長岡城奪還に尽くしたい」

清水軍次(村松藩士)「わが藩には奥畑伝兵衛という豪の者がおります。明日にでも加茂に呼んで出陣させましょう」

水谷孫平治(村上藩家老)「我が藩主は幕閣に参加し徳川に忠節を尽くしてきました。われわれも長岡城奪還に協力いたします」

祝新兵衛(上山藩側用人)「天保の飢饉で上山藩は越後の民と長岡の商人に救われました。その恩に報いるべく、城下の回復にご協力を申し上げます」

この展開に一ノ瀬要人は継之助の言い分に理解を示し、「長岡城奪還こそ同盟軍の第一義である」と発言し、加茂軍議の初日は終了する。

河井継之助、軍議をリードする

加茂軍議2日目も会津藩の一ノ瀬要人の発言から始まった。この日も一瀬はあらためて米沢藩に総指揮をとるよう要請したが米沢藩は煮え切らない。

甘粕「我が藩の越後口総督・色部長門は新潟を動けず、この軍議に参加することができません。ついては副総督の千坂兵部が加茂に来る手筈になっています。その時にあらためて協議するということでいかがでしょうか」

のらりくらりとした米沢藩の態度にイラッとした者もいたであろうが、甘粕の大人の回答をみな一旦は受け入れた。じゃが、ここで継之助は、またぞろ村松藩の裏切り疑惑を持ち出し、村松藩の非難を始めるのじゃ。

河井「ところで、村松藩の裏切り行為。これについてあらためて問いたい」

田中「だから、あれは手違いじゃと申しておるではないか……」

継之助、しつこい(苦笑)。一説によると、田中勘解由が切腹未遂を起こしたのは初日ではなくこの後だったともいういう。

それはとおもかく、この継之助の執拗さは、軍議を主導するための作戦だったのではないじゃろうか。何事も気で圧倒するのは継之助の強みじゃ。継之助にしてみれば客将気分の米沢なんぞあてにならない。あくまでも越後口の戦いは長岡主導でやり遂げるべきと考えていたはずじゃ。こうして加茂軍議2日目も継之助が終始議論をリードした。

長岡藩軍事掛・花輪求馬、三間市之進から具体的な作戦計画も発表された。2人とも継之助の股肱之臣じゃ。東西十里にも及ぶ防衛戦を寡兵で守ることに利はない。「ここは先手必勝、攻撃あるのみ」と、長岡藩は与板方面、海岸沿いから柏崎方面、今町、見附を奪取して長岡城を攻める三方面作戦を提案したのじゃ。

桑名・立見鑑三郎「薩長など、何するものぞ」

立見尚文(鑑三郎)

立見尚文(鑑三郎)

継之助の積極策には軍議に参加した若者たちが賛同したようじゃ。

河井「そもそもこの軍議は何のためにやっているのだ。守りを固めて大義を唱えているだけでは情勢は変わらない。一気呵成に戦線を越後各地に広げることが肝要である」

山田陽次郎(会津藩軍事方添役)「我が藩の佐川官兵衛も申しておりました。我が主君が恭順を示してもそれを薩長が受け入れないのは同盟軍が劣勢に見えるからだと。守勢斬退ではなく攻勢に転じるべきです」

立見「我が藩は同盟には属していませんが、主君・松平定敬公の忠節を天朝に届けるため、薩長の輩と戦う所存です。そのためにも加茂を奥羽越の首府と見立て、傀儡の新政府軍に戦いを挑むべきです。そのためにも米沢藩にはさらなる協力をお願いします」

山田「長岡藩は我が会津の義を守ために立ち上がり、故城を失いました。その恩義に報いるためにも我が藩は長岡城奪還に全力を尽くさねばなりません。それが会津藩を守ることになるのです」

しかし、米沢藩はまだ煮え切らない。そこには「長岡城を回復することにどれほどの価値があるのか」という疑念がある。中条豊前は、各藩とも兵力が十分ではなく進軍手配もままならない中での不安を正直に吐露した。すると立見は「薩長など、何するものぞ」と声を荒げる。これをみた一ノ瀬は立見を一喝するが、立見も負けてはいない。

一ノ瀬「いくら桑名の若造が吠えても、我が会津藩の方針は恭順にある。いたずらに攻め込むことはしない」

立見「我が藩の家老・吉村権左衛門も同じことを申しておりましたな。しかし、我らは本営であった柏崎を奪われ、今はこうして流浪する身です。加茂は我が預地です。ここを本拠に反撃しなければ天下の形勢を変えねばジリ貧です」

河井「加茂は越後六藩の中心。敵もここに我々が集結しているとは思っていないはず。ここを本営に一気に長岡を回復するのが肝要だ」

会津・一瀬ノ要人、米沢藩のさらなる派兵を求める

もともと一ノ瀬は会津藩内でも主戦派である。京都守護職であった松平容保の番頭役でもあった一ノ瀬は、主君の汚名を晴らしたいという気持ちは大きかった。故城を追われた河井の熱声は心に響いたことじゃろう。

一瀬「河井殿、さぞや無念であったであろう。会津を救うために貴藩は戦ってくれました。我が藩はその恩義に報いるべく、越後に止まって長岡城奪還に全力を尽くす所存。ただ、我々は地理不案内なため進軍手配はどうか貴藩に委ねたい。そして我が藩はさらなる増兵をしたいと思う。米沢藩も今以上のご出兵を図り、同盟諸藩を導かれよ」

一ノ瀬は米沢藩に覚悟を迫った。というのも、米沢藩はこのときわずか600しか兵を派遣していない。これは全藩兵の1割程度であり、とても本気とは思えない。そこで一ノ瀬は米沢の面目を保ちながらも圧をかけたのじゃろう。

じゃが、兵をさらに増やせば莫大な費用がかかる。それがわかっているだけに中条豊前と甘粕備後は沈黙する。しかしこの時、米沢藩の末席から大きな声が上がったのじゃ。

大滝甚兵衛(米沢藩軍目付)「我が藩には遠祖から守り伝えてきた鉄砲隊がございます。その銃撃は当代随一、必ずやお役に立つはず。これをもって謙信公の第一義を守って見せます」

事ここに至り甘粕は藩を挙げて長岡城奪還への全面協力を約束することになる。甘粕にしてみれば、小藩の長岡に軍議を主導され、物事が決まっていくのはさぞかし面白くなかったであろうが、このあたり、継之助との覚悟の差が出た。

河井「今、京阪では新聞というものがあり、そこには越後で新政府は負けていると書かれているそうです。諸外国の新政府に対する見方も変わってきているやに聞きます。残念ながら我が藩は城を奪われましたが、もしここで同盟諸藩が思いもよらぬ作戦で長岡を回復し、敵を掃討することができれば、薩長傀儡の新政府の評判が地に落ちる。心ならずも薩長に与している親藩譜代の態度も変わり、天下の形勢は一変するはず。薩長が自壊することは必定」

こうして同盟諸藩は一致団結して反転攻勢に出ることを約し、加茂軍議は終了するのじゃ。

米沢・雲井龍雄が「討薩ノ檄」を起草する

雲井龍雄

雲井龍雄

加茂軍議終了の2日後には米沢藩の千坂兵部が加茂に到着する。そして増員された米沢藩兵も加茂に集結してきた。煮え切らなかった米沢藩もどうやら本気を出してきたようじゃ。

米沢藩はもともと石高の割に武士の数が多い。これは上杉家が関ヶ原で敗れて会津から米沢へ減封となったときに、直江兼続の方針で武士を解雇しなかったことによる。

米沢藩兵は宿営先の大昌寺では兵を収容しきれず、付近の民家に分宿した。そして6月には米沢藩士・雲井龍雄が加茂に到着する。はじめ雲井は必ずしも佐幕派ではなく、明治新政府から王政復古の大号令が発せられたときには、新政府の貢士に推挙されていた。藩門閥の士を差し置いての抜擢である。雲井の能力が藩内外で知られていたことの証左じゃろう。

雲井は薩摩の横暴と毀誉褒貶を憎んだ。その思いで有名な「討薩ノ檄」を起草した。この「討薩ノ檄」は、文章の迫力において、古今の数ある檄文の中でも名文と評価する人が少なくない。

薩賊、多年譎詐万端、上は天幕を暴蔑し、下は列侯を欺罔し、内は百姓の怨嗟を致し、外は万国の笑侮を取る。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。

この檄文は同盟諸藩に回付され、堂々たる主張に河井継之助や佐川官兵衛も感服したといわれれておるぞ。

大昌寺(新潟県加茂市)

大昌寺(新潟県加茂市)

大昌寺は青海神社の程近くにある。弘化4年(1847)に加茂が桑名藩の預地となってから藩の会所となっていた。

北越戦争の時は、桑名藩や米沢藩、旧幕府軍の兵が宿営し、記録には「当町は軍勢四千人余り止宿。当寺は初めより桑名藩の御宿」とある。雲井が「討薩ノ檄」をかきあげたのもこの地である。

裏山には戊辰戦争殉難者の墓石があるそうで、わしも行ってみたんじゃが、残念ながら見つけることができなかった。

長岡城奪還に成功するも……

大黒古戦場パーク

大黒古戦場パーク(新潟県長岡市)

かくして同盟諸藩は長岡城奪還を作戦目標に行動を開始する。6月2日には長岡藩きっての精鋭・山本帯刀率いる牽制隊が新政府軍が集結する今町の攻略に出発した。

新政府軍はこれを主力とみて応戦するが、継之助はその隙をついて主力をもって側面から攻撃をかけ、今町を占領に成功した。継之助の采配が光る見事な陽動作戦じゃった。

大黒町周辺でも激闘が繰り広げられた。主力の米沢藩兵はこの地で80名以上の戦死者を出している。そうした中で、7月24日、継之助は魔物が住むと言われた八丁沖を700名の兵とともに渡渉、この奇襲作戦により見事に長岡城奪還の成功する。この快挙に城下の人たちは酒樽を開け、盆踊りで出迎えたというエピソードが残っている。

大黒方面から臨む八丁沖(北越戦争伝承館より)

大黒方面から臨む八丁沖(北越戦争伝承館より)

じゃが、長岡城奪還後も束の間、新政府軍の反撃が始まる。このとき、米沢藩兵の到着が遅れて、継之助は「米沢狐め!」と怨嗟の声を上げたと伝えられている。

新町口では薩摩軍の猛攻を仕掛けてきた。継之助は自ら督戦すべく戦場に向かったが左膝に被弾し、戦線を離脱する。しかも、弱り目に祟り目、踏んだり蹴ったりとはこのことか、なんと新発田藩が裏切り、新政府軍の新潟上陸を手引きしたのじゃ。

7月29日、長岡城は再び落城。新政府軍はその後も続々と兵力を増強して越後平野を覆い尽くしていく。ここに北越戦争の帰趨は決着したのじゃ。

まとめ:「加茂軍議」の歴史的意義

新潟県加茂市

新潟県加茂市

ということで、「加茂軍議」についてつらつらと書いてきたがいかがじゃろうか。最後に、加茂軍議の歴史的意義について、感想を書いておこう。

そもそも戊辰戦争において奥羽越列藩同盟は全般的に統一的な戦術指揮に欠けていた面が否めない。新政府軍が薩長土の強権のもとに攻め込んでくるのに対して、各藩の思惑もあり、どうしても守勢的であり、寄せ集めの印象が否めない。

じゃが、北越戦争においては河井継之助のリーダーシップと戦術眼により、「新政府は北越で負けている」という風評が生まれ、西郷吉之助が乗り出して来るほどの健闘、善戦となった。同盟軍の結束を生み、統一的な作戦計画が練られた「加茂軍議」を、加茂市では貴重な「歴史資産」として考えているらしい。かくいうわしも、それにのせられて今回、加茂を訪れたわけじゃがな。

それにしても継之助の戦線離脱は痛い。もし健在であれば北越戦争の行方が違ったものになっていたのではないじゃろうか。冬将軍の到来まで持ち堪えれば…そんなことを考えたりしてしまうぞ。

いずれにせよ、越後の小さな町に幕末史を回天させたかもしれない歴史舞台があった事実は、もう少し知られてもいいと思うけどな。