源頼朝公は相模川に橋供養に出向いた帰路、落馬がもとで病床に伏し、亡くなった。ただ、その死については、さまざまな憶測があり、暗殺説すらある。はたして頼朝公の死因は何であったのか。
- 源頼朝公が亡くなった原因は「落馬」?
- 糖尿病?尿崩症?「飲水に依り重病」
- 義経や安徳天皇の亡霊に襲われて死亡?
- 馬入川で溺死した?
- 夜這いで曲者に間違えられて殺された!などトンデモ説も
- 源頼朝の死は暗殺だった?
源頼朝公が亡くなった原因は「落馬」?
まず結論から言おう。源頼朝公は落馬がもとで病床に伏し、亡くなったというのが鎌倉幕府の公式見解じゃ。脳卒中など脳血管障害が起きて落馬したのが、落馬により頭部に外傷性の脳内出血を引き起こしたのか、そのあたりはわからん。
しかし、公家の記録にも、建久10年(1199)1月13日に亡くなられたとあるから、それは間違いない。享年53。
関東将軍所労不快とかやほのかに云し程に、やがて十一日に出家して、十三日にうせにけりと。十五六日より聞へたちにき。今年必しづかにのぼりて世の事沙汰せんと思ひたりけり。万の事存の外に候などぞ。九條殿へは申つかはしける。(慈円「愚管抄」)
一月十八日 晴陰 雪飛び甚だ寒し。
早旦閭巷の説に云く、前の右大将所労獲鱗に依って、去る十一日出家するの由、飛脚を以て夜前院に申さる。仍って公澄を以て御使いとして、夜中下向すべきの由仰せらる。また公朝法師宣陽門院の御使いとして相共に馳せ下る。朝家の大事何事に過ぐるや。怖畏逼迫の世か。また或る説に云く、すでに早世すと。( 藤原定家[明月記] )
ちなみに、「落馬」について記しているのは「吾妻鏡」である。建暦2(1212)年2月28日、北条義時や三浦義村らが源実朝公に、相模川の橋の修復について相談した記録があるが、そこに頼朝公の落馬の件が出てくる。
相模の国相模河の橋数箇間朽ち損ず。修理を加えらるべきの由、義村これを申す。相州・広元朝臣・善信が如き群議有り。去る建久九年、重成法師これを新造す。供養を遂げるの日、結縁の為故将軍家(頼朝)渡御す。還路に及び御落馬有り。幾程を経ず薨じ給いをはんぬ。重成法師また殃に逢う。旁々吉事に非ず。今更強て再興有らずと雖も、何の殃事有るやの趣一同するの旨、御前(実朝)に申すの処、仰せに云く、故将軍の薨御は、武家の権柄を執ること二十年、官位を極めしめ給う後の御事なり。重成法師は、己が不義に依って天譴を蒙るか。全く橋建立の過に非ず。この上は一切不吉を称すべからず。彼の橋有らば、二所御参詣の要路として、民庶往反の煩い無し。その利一に非ず。顛倒せざる以前に、早く修理を加うべきの旨仰せ出ださると。 (「吾妻鏡」建暦2年2月28日)
建久9年、稲毛重成 が橋の新設工事を完成させたとき、頼朝公が落成供養に出かけたが帰路に落馬し、ほどなくして亡くなられた。その後、稲毛重成も殺されたため、この橋は縁起が悪いと放置されてきた。しかし実朝公は、「故頼朝将軍は武家の覇となり20年、官位を極めてから亡くなっている。稲毛重成は畠山重忠を讒言した不義で討たれたのだから、橋の吉凶とは関係ない。二所詣の要路だし、庶民にとっても便利だから早く修復せよ」と指示した、とある。
このことからも頼朝公が、落馬がもとで病に伏し、薨じられたことは間違いない。しかし、残念なのは、頼朝公が亡くなった建久10年前後の「吾妻鏡」の記事がすっかり欠落してしまっていることじゃ。そのため、これがいかにも不自然ということで、幕府にとって不名誉な、あるいは北条にとって不都合な真実が隠蔽されたのではないかと邪推されてしまっているようじゃ。
一説には、徳川家康が、武家政治をはじめた頼朝公の最期があまりにも不名誉な内容であったため、該当箇所を削除させたという話もある。もちろん江戸期、「吾妻鏡」は徳川家以外にも伝わっているわけで、これは俗説に過ぎない。
「吾妻鏡」に頼朝公の死について直接的な言及がないのは幕府の手落ちとしかいえない。ただ、本能寺の変であれ、坂本龍馬暗殺であれ、歴史には謎がつきもので、あれこれ邪推するのも楽しいものではある。まして頼朝公の死ともなれば、それもむべなるかな、ではある。
とそこで、頼朝公の死因について、巷間言われていることを、ざっと整理しておこう。
糖尿病?尿崩症?「飲水に依り重病」
医学的に言われているのが「糖尿病」と「尿崩症」である。というのも、公家であった近衛家実の日記「猪隈関白記」には、「前右大将頼朝卿、飲水に依り重病」との記載がある。「飲水に依り重病」とは、水をやたらと欲しがる病ということから、「糖尿病」のことだというのじゃ。
もしそうだとすれば、糖尿病による体調不良で落馬したということも考えられる。そして、糖尿病からなんらか合併症をおこしたのかもしれない。「吾妻鏡」には、頼朝が歯の病に苦しんだという記載がしばしばあり、京から薬が届けられたり、薬師堂に祈願をしたりしている。虫歯や歯周病に悩んでいたとすれば、それは糖尿病の影響なのかもしれない。
「尿崩症」ではないかという指摘もある。この病は、抗利尿ホルモンが欠乏し、大量に尿が出て、強いのどの渇きで水がやたらと飲みたくなるらしい。落馬したときに脳の中枢神経を損傷したのか、あるいは脳腫瘍などが進行していて中枢尿崩症にいたったのか、これもうなずける見解である。
義経や安徳天皇の亡霊に襲われて死亡?
『保暦間記』には、橋供養の時、義経殿や安徳天皇の亡霊をみて落馬したという記述がある。
大将軍相模河の橋供養に出で帰せ給ひけるに、八的が原と云所にて亡ぼされし源氏義廣・義経・行家以下の人々現じて頼朝に目を見合せけり。是をば打過給けるに、稲村崎にて海上に十歳ばかりなる童子の現じ給て、汝を此程随分思ひつるに、今こそ見付たれ。我をば誰とか見る。西海に沈し安徳天皇也とて失給ぬ。その後鎌倉へ入給て則病付給けり。([保暦間記])
八的が原というのは、いまの辻堂あたりらしい。現代人からすれば、何をバカバカしいとなるかもしれぬが、中世は亡霊や祟りが深く信じられていた時代じゃ。武家の覇をきわめた頼朝公でも、心にひっかかるものがあったのかもしれぬ。日頃の過労やストレスも相当なものであっただろう。何らかの病気で意識が混濁したり、幻覚を見たとしても不思議ではないいう。
亡霊の祟りというのはどうかと思うが、過重労働から幻覚を見て落馬し、それが原因で亡くなったとすれば、頼朝公は過労死ということになり、これまた納得ではある。
馬入川で溺死した?
「溺死」という説も根強い。「承久記」にはこんな記述がある。
建久九年十二月下旬の此相模川に橋供養(稲毛重成、亡妻供養の為)に有し時、聴聞に詣玉て、下向の時より水神に領せられて、病患頻りに催して半月に臥し、神疲屈め命今は限りと見へ給ふ時、孟光(北条政子)を病床に語て曰く、「半月に沈み、君に階老を結て後、多年を送き。今は同穴の時に臨めり」。(「承久記」)
「水神に領せられて」などの記述から、橋供養で溺れ、大量の水を飲んだことが死に繋がったのではという説じゃ。相模川河口付近は、古来より「馬入川」とも呼ばれているが、これは頼朝公の馬が突然暴れて川に入り、落馬に至ったという伝承にちなんだものである。とはいえ、橋供養で落馬してから亡くなるまで、かなりの日数があるから、まったく無関係とは言わぬが、死因を溺死とするのは無理がある。
なぜ馬がとつぜん暴れだしたのか。やはり義経殿や安徳天皇の亡霊に驚いたんじゃろうか。「盛長私記」のなかにも、頼朝公は橋供養の最中、亡霊が多く出現し、驚いた馬から落馬したという伝承が出てくる。また、「広益俗説弁」には、平家の残党から襲撃を受けて落馬したという話が記されている。
いずれも江戸時代の記録で史料的価値は低いが、人々がそう思っていたことは裏付けられるであろう。武家の棟梁でもあり、馬術が巧みであったであろう頼朝公が落馬したというのは、ちょっと考えにくいから、こういう俗説が生まれたのかもしれない。
夜這いで曲者に間違えられて殺された!などトンデモ説も
頼朝公にとって不名誉なトンデモ説もある。たとえば、水戸光圀が編纂させた「真俗雑録」に出てくる話じゃ。
頼朝公が愛人の元へ夜這いに行こうとした時、警護していた御家人の安達盛長が曲者と間違えて頼朝公を斬ってしまったというのじゃ。この曲者が頼朝公だったと気付いた盛長はその場で切腹しようとしたが、頼朝公は「急病で死んだことにしておけ」と言い残し、息を引き取ったという。
さらにトンデモ説としては、妻の政子さまに殺されたというのがある。ある日、頼朝公が妻の政子に「御家人の中で一番イケメンなのは誰か?」と尋ねたところ、政子さまが「それは畠山重忠です」と答えたため、猜疑心の強い頼朝公が二人の関係を疑って政子さまの寝所に忍び込んだところを、曲者と勘違いした政子さまに薙刀で斬り殺されたというのじゃ。
このほかにも、政子さまが浮気ばかりする頼朝公に頭にきて暗殺したという話も、おもしろおかしく伝承の類として語り継がれているらしい。
もはやバカバカしいとしかいえないが、もし、ほんとうにそうだとしたら、さすがに「吾妻鏡」に書くことはできわな。
源頼朝の死は暗殺だった?
トンデモ説も含めて、頼朝公の死がいろいろと邪推や憶測を呼ぶのは、「吾妻鏡」にきちんと記録がないからじゃが、わりと真剣にいわれているのが、「源頼朝公は暗殺された」 という説じゃ。その黒幕としては、どうしても北条氏が登場する。たしかに北条が黒幕であれば、「吾妻鏡」に頼朝公の死にまつわる記録が一切ないことの合理的な説明がつくからな。そこで、頼朝公暗殺説についても、いちおうまとめておこう。
暗殺の黒幕は北条氏?
頼朝の死は暗殺であったという説は、かなり根強い。というのも、この時期、頼朝公が急速に京都に接近し、御家人の不審を招いていたという説があるのじゃ。
鎌倉幕府は、京都から独立した東国武士団による「地方独立政権」をめざしたものであった。京都の貴族に搾取されることなく、関東の武士たちが生きていくために、頼朝公はその旗頭でなければならなかった。このことは、承久の乱における尼将軍政子さまの演説にもしっかり語られている。
しかしこの時期、頼朝公は、搾取する貴族の側にすり寄ろうとしていた節がみえる。じっさい頼朝公は、娘の大姫を後鳥羽天皇に入内させようと働きかけている。この計画は大姫が亡くなったことで頓挫しているが、これはすなわち天皇家の外戚となることじゃ。やろうとしていることは藤原摂関家や平清盛と同じである。これは関東武士団にとって裏切り行為であり、そこに危機感を感じた北条氏をはじめとする御家人たちは、武士の利益代表団体としての鎌倉幕府を守るために、頼朝公暗殺に動いたというのじゃ。
たしかにそう考えれば、「吾妻鏡」に頼朝公の死にまつわる記述が一切ないことの説明がつくわけで、なかなかおもしろい説ではある。じっさい、北条時政公は亀の前事件で頼朝公に面目をつぶされておるし、曽我兄弟の仇討も北条や御家人が糸を引いた頼朝公暗殺未遂事件だったという人もいるし、うなずけないことはない。
ただこれ、ふつうに考えて、北条がそんなリスクを犯すかというところに疑問がある。ここで頼朝公がいなくなることは、鎌倉幕府にとってはメリットよりデメリットが大きすぎるではないか。頼朝公亡き後の北条のやり口からみて、そう考える人がいるのは理解できるが、現実にはありえないじゃろう。
首謀者は土御門通親?
もうひとつ、頼朝公の死は村上源氏の土御門(源)通親によるものだという説がある。この時期、朝廷内には親幕派と反幕派の激しい対立があった。親幕派の代表は九条兼実、反幕派は土御門通親じゃ。
頼朝公は当初、九条兼実と結んで朝廷工作を行っていた。しかし、後鳥羽天皇や公家たちは、兼実の門閥重視、故実先例に厳格な政治姿勢に反発していた。こうした中で土御門通親が暗躍し、兼実は追い詰められていく。
それでも兼実は入内させた娘の任子に皇子が生まれることに望みをかけていた。しかし、産まれたのは女子であり、これを機に多くの公家に見切りをつけられ、兼実は失脚し、関白を辞職する。
このとき頼朝公は、大姫入内をすすめるために丹後局と通親に接近し、兼実とは距離を置きはじめていたらしい。じっさい、兼実の日記には、頼朝公上洛のときの土産物が「馬二匹」であり、これをしょぼすぎると不満を記している。
しかし、通親が宮廷を牛耳りはじめてから、頼朝公の周辺で不可解なことが起き始める。まず、大姫が急な病に倒れて死亡してしまう。そこで頼朝公は次女の三幡を入内させるべく、自ら上洛の準備をはじめる。その矢先、親幕派の一条能保・高保父子が相次いで死亡する。そして頼朝公の落馬、死である。幕府は頼朝公死後も三幡を入内させようしたが、三幡も急な病にかかり、死んでしまう。しかも、通親が遣わした医師の薬を飲んであと、というタイミングでの急死じゃ。
藤原定家の日記「明月記」によると、頼朝公の死が京に報らされたとき、土御門通親は全く驚かなかったという。しかも、この一大事を天皇上皇に報告せぬまま都合の良い除目をおこない、そこで初めて頼朝公の死の聞いて驚いたふりをしたという。そして門を閉じて自邸に引きこもった直後に、親幕派の公家が通親を襲撃しようとする事件が起こった(三左衛門事件)。定家はこうした通親の行動を「奇謀の至りなり」と記し、あたかもこうなることを予期していたのではないかと、不審感を露わにしている。いずれにせよ、この一件により、土御門通親の権勢はいよいと盤石となる。
ということで、頼朝公暗殺は反幕派公家の土御門通親が首謀者であったというわけじゃが、仮にそうだとしても通親には協力者がいたはずである。ここでまたぞろ名が出てくるのが北条である。
たしかに北条時政公であれば頼朝公を落馬させたり、その後に暗殺することもできなくないかもしれない。ただ前にも書いたが、幕府草創期のこの時期、頼朝公を葬るのは北条にとっても、鎌倉にとってもリスクが高く、とても考えられない。
大江広元の名をあげる人もいる。広元は京都出身で通親とは親しかったし、三左衛門事件で通親がピンチになったとき、幕府を主導して通親排斥の動きを封じ込めている。それに、広元の長男・親元は通親の猶子になっておるほどじゃしな。ただ、これもまた証拠があるわけではない。それに、承久の乱で後鳥羽院との戦いに断固たる決意を示した広元を疑うのは、わしには荒唐無稽に思えるがな。
ということで、やはり頼朝公暗殺説は考えにくい。脳卒中をおこしたのか、糖尿病で体調不良だったのか、落馬で外傷性の脳内出血を引き起こしたのか、そのあたりはわからないが、やはり落馬が原因で、病に伏し、亡くなったという通説がいちばんしっくりくるように思う。
なんでもかんでも北条の謀略にしてはいかんぞ。