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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

後醍醐天皇、隠岐脱出大作戦。どうやって島を抜け出したのか?

さてさて、今回は後醍醐天皇の隠岐脱出についてお届するぞ。どこまで真実かはわからんがその経緯は「太平記」にも詳しく記されておるので、まずはそれをベースに紹介したい。

後醍醐天皇

後醍醐天皇

後醍醐天皇、隠岐へ配流

後醍醐天皇の隠岐流しのエピソードをざっくり語るとしようかのう。密かに鎌倉幕府をぶっ潰そうと企んでいた後醍醐帝じゃが、元弘元年(1331年)にその計画が側近の吉田定房にばれてしまう。ヤバいのう、と感じた後醍醐帝は、三種の神器を持ってこっそり京都を脱出し、少数の兵士を引き連れて笠置山にて挙兵したのじゃ。でも、敵の大軍に囲まれてあっさり捕まってしまった(これが元弘の変じゃ)。

幕府の取り調べで、「いや、悪魔のせいだ。わしのせいではない!(天魔の所為)」と必死に言い訳してみたものの、さすがにそれは通じず、幕府は後醍醐帝を廃位にしてしまう。代わりに皇太子の量仁親王(光厳天皇)が即位したんじゃ。後醍醐帝は翌年、隠岐に流されることに決定されたんじゃよ。

明れば三月七日、千葉介貞胤、小山五郎左衛門、佐々木佐渡判官入道々誉五百余騎にて、路次を警固仕て先帝を隠岐国へ遷し奉る。供奉の人とては、一条頭大夫行房、六条少将忠顕、御仮借は三位殿御局許也。其外は皆甲冑を鎧て、弓箭帯せる武士共、前後左右に打囲奉りて、七条を西へ、東洞院を下へ御車を輾れば、京中貴賎男女小路に立双て、「正しき一天の主を、下として流し奉る事の浅猿さよ。武家の運命今に尽なん。」と所憚なく云声巷に満て、只赤子の母を慕如く泣悲みければ、聞に哀を催して、警固の武士も諸共に、皆鎧の袖をぞぬらしける。

これに京の町は大騒ぎ。「正当な皇帝を流すなんて、武家の運命もここまでか」と人々は涙を流しながら叫んだ。警護の武士たちも一緒になって泣きじゃくる始末。じゃが、これは贔屓の引き倒しとも言えるじゃろう。後醍醐帝は自分の息子を皇統にしたかっただけで、普通ならこれは死罪じゃ。賢明な花園院は「王家の恥」「一朝の恥辱」と後醍醐帝について記しておるくらいじゃしな。

ほんとうであれば、光厳天皇が即位したことで世は落ち着くはずだったんじゃ。

用意周到に準備された脱出計画

後醍醐天皇行在所とされる黒木御所

後醍醐天皇行在所とされる黒木御所(隠岐郡西ノ島町)

後醍醐天皇行在所とされる黒木御所(隠岐群西ノ島町)。隠岐に流された後醍醐帝は厳しい監視下に置かれた。普通の人なら諦めちゃうところじゃが、後醍醐帝は諦めなかった! 

畿内では大塔宮や楠木正成が抵抗を続けておったので、後醍醐帝は密かに島の豪族たちと交流し、脱出計画を練り始めたんじゃ。

その証拠として「星野家譜」という資料がある。星野家は隠岐で後鳥羽院のお世話をした村上家と縁があり、後醍醐帝の脱出計画に関する記述があるんじゃよ。以下、黒木御所碧風館のパンフレットからの情報じゃ。

それによると、海人村の村上助九郎邸での酒宴の席上で、後醍醐帝の従者であった「成田小太郎」なる人物が帝の脱出計画への協力を求めた。酒席には星野家当主、村上家当主の他に「名和悪四郎恭長・顕長」が出席していた。もともと勤王の志が篤い4人は意気投合。以後、天皇を伯耆国・名和湊にお迎えする算段が練られたというのじゃ。

さらに、江戸時代に幕府の御用船をつとめた美田尻の近藤家の先祖は、後醍醐帝の隠岐脱出時に船頭として海を渡り、その後、伯耆に住み着いたという伝承もある。これもまた村上家の配下であったことが想定されるという。

そしてこうした情報は、山伏を通じたネットワークにより共有されていたのじゃろう。隠岐における山伏の拠点は、後醍醐帝がいた黒木御所のほど近くにある焼火神社じゃ。

考えてみれば、厳しい監視を逃れて海を渡るのに、行き当たりばったり、出たとこ勝負というのはあり得ないじゃろう。「太平記」では脱出劇をドラマチックにするために「唯運に任せて」みたいに書いてあるが、そんなことはあり得ない。後醍醐帝の隠岐脱出は、用意周到に計画され、隠岐の豪族の協力があったことは間違いないじゃろう。

夜陰に紛れて脱出作戦を決行

隠岐を脱出する後醍醐天皇

隠岐を脱出する後醍醐天皇

後醍醐帝が隠岐を脱出したのは元弘3年3月(1333)のことであった。在島はわずか一年半、幕府にとってはまさに想定外、驚愕の事件であった。

脱出劇の様子は「太平記」(巻第七、先帝船上臨幸事)に詳しく記されているので、ここではそれを元に再現実況しよう。

まず、後醍醐帝は三位局(阿野廉子)のお産が近づいたことを口実に、千種忠顕を連れて館を出る。

此体にては人の怪め申べき上、駕輿丁も無りければ、御輿をば被停て、悉も十善の天子、自ら玉趾を草鞋の塵に汚して、自ら泥土の地を踏せ給けるこそ浅猿けれ。比は三月二十三日の事なれば、月待程の暗き夜に、そこ共不知遠き野の道を、たどりて歩せ給へば、今は遥に来ぬ覧と被思食たれば、迹なる山は未滝の響の風に聞ゆる程なり。若追懸進する事もやある覧と、恐しく思食ければ、一足も前へと御心許は進め共、いつ習はせ給べき道ならねば、夢路をたどる心地して、唯一所にのみやすらはせ給へば、こは如何せんと思煩ひて、忠顕朝臣、御手を引御腰を推て、今夜いかにもして、湊辺までと心遣給へ共、心身共に疲れ終て、野径の露に徘徊す。

月を待つほどの暗い夜、後醍醐帝は追っ手が迫る恐怖を感じながら、草鞋で泥土の中を進んでいった。今夜のうちに湊までたどり付こうと気ばかり急かされ、心身ともに疲れ果ててしまう。それでも野径の露に濡れながら歩き続けていく。 

その後、夜もかなり更けていたが、千種忠顕は民家の戸をたたき「千波湊」への道筋を尋ねる。すると中から怪しげな男がヌッと出てきた。

夜いたく深にければ、里遠からぬ鐘の声の、月に和して聞へけるを、道しるべに尋寄て、忠顕朝臣或家の門を扣き、「千波湊へは何方へ行ぞ。」と問ければ、内より怪げなる男一人出向て、主上の御有様を見進せけるが、心なき田夫野人なれ共、何となく痛敷や思進せけん、「千波湊へは是より纔五十町許候へ共、道南北へ分れて如何様御迷候ぬと存候へば、御道しるべ仕候はん。」と申て、主上を軽々と負進せ、程なく千波湊へぞ着にける。爰にて時打鼓の声を聞けば、夜は未だ五更の初也。此道の案内者仕たる男、甲斐々々敷湊中を走廻、伯耆の国へ漕もどる商人舟の有けるを、兎角語ひて、主上を屋形の内に乗せ進せ、其後暇申てぞ止りける。此男誠に唯人に非ざりけるにや、君御一統の御時に、尤忠賞有べしと国中を被尋けるに、我こそ其にて候へと申者遂に無りけり。

千波港はここからわずか50丁(5.5km)だという。しかもこの男は、疲労困憊の帝をみて気の毒に思ったのか、道案内を自ら申し出たうえに、帝を背負って千波湊まで連れて行ったのじゃ。しかも、湊では伯耆に向かう商人船を手配してくれるという親切さ。この男がいなければ後醍醐帝は隠岐を無事に脱出できなかったであろうな。

なお、これは後日談じゃが、君一統が成ってから、後醍醐帝はもっとも忠賞あるべきとしてこの男を捜したが、申し出る者はいなかったらしい。

間一髪!隠岐判官の追っ手を振り切り名和湊へ上陸

隠岐、島前の浜辺

やがて夜が明けると、船人たちは船を出し、港の外へ漕ぎ出していく。このとき、船頭は乗客が只者ではないと感じ、「どこへ向かえばよいか命じてください」と尋ねてきた。

船頭主上の御有様を見奉て、唯人にては渡らせ給はじとや思ひけん、屋形の前に畏て申けるは、「加様の時御船を仕て候こそ、我等が生涯の面目にて候へ、何くの浦へ寄よと御定に随て、御舟の梶をば仕候べし。」と申て、実に他事もなげなる気色也。忠顕朝臣是を聞き給て、隠しては中々悪かりぬと思はれければ、此船頭を近く呼寄て、「是程に推し当られぬる上は何をか隠すべき、屋形の中に御座あるこそ、日本国の主、悉も十善の君にていらせ給へ。汝等も定て聞及ぬらん、去年より隠岐判官が館に被押篭て御座ありつるを、忠顕盜出し進せたる也。出雲・伯耆の間に、何くにてもさりぬべからんずる泊へ、急ぎ御舟を着てをろし進せよ。御運開ば、必汝を侍に申成て、所領一所の主に成べし。」と被仰ければ、船頭実に嬉しげなる気色にて、取梶・面梶取合せて、片帆にかけてぞ馳たりける。 

千種忠顕は下手に隠して置くことはよくないのではないかと考え、船頭に、乗客が帝であることを伝え、出雲か伯耆の安全な場所へ向かうように命じた。そして運が開ければ船頭を取り立てることを約束すると船頭は喜び、急いで船を進めていく。

じゃが、そうこうしているうちに隠岐判官清高(佐々木清高)の追っ手の船が迫ってきた。

今は海上二三十里も過ぬらんと思ふ処に、同じ追風に帆懸たる舟十艘計、出雲・伯耆を指て馳来れり。筑紫舟か商人舟かと見れば、さもあらで、隠岐判官清高、主上を追奉る舟にてぞ有ける。船頭是を見て、「角ては叶候まじ、是に御隠れ候へ。」と申て、主上と忠顕朝臣とを、舟底にやどし進せて、其上に、あひ物とて乾たる魚の入たる俵を取積で、水手・梶取其上に立双で、櫓をぞ押たりける。去程に追手の舟一艘、御座舟に追付て、屋形の中に乗移り、こゝかしこ捜しけれ共、見出し奉らず。「さては此舟には召ざりけり。若あやしき舟や通りつる。」と問ければ、船頭、「今夜の子の刻計に、千波湊を出候つる舟にこそ、京上臈かと覚しくて、冠とやらん着たる人と、立烏帽子着たる人と、二人乗せ給て候つる。其舟は今は五六里も先立候ぬらん。」と申ければ、「さては疑もなき事也。早、舟をおせ。」とて、帆を引梶を直せば、此舟は軈て隔ぬ。

船頭は逃げ切れないと判断し、後醍醐帝と千種忠顕を舟底に隠す。そして、その上に干し魚の俵を積み、水手たちを立たせた。

追っ手が船に乗り移ってきて捜索を始める。そこで船頭が、「そういえば、冠を付けた人と立烏帽子をかぶった人が乗った船をみかけましたが、今は五六里先を進んでいるでしょう」と嘘情報を伝えると、追っ手はそれを追いかけていってしまった。

ちょろい、ちょろすぎるではないか!

今はかうと心安く覚て迹の浪路を顧れば、又一里許さがりて、追手の舟百余艘、御坐船を目に懸て、鳥の飛が如くに追懸たり。船頭是を見て帆の下に櫓を立て、万里を一時に渡らんと声を帆に挙て推けれ共、時節風たゆみ、塩向て御舟更に不進。水手・梶取如何せんと、あはて騒ぎける間、主上船底より御出有て、膚の御護より、仏舎利を一粒取出させ給て、御畳紙に乗せて、波の上にぞ浮られける。竜神是に納受やしたりけん、海上俄に風替りて、御坐船をば東へ吹送り、追手の船をば西へ吹もどす。さてこそ主上は虎口の難の御遁有て、御船は時間に、伯耆の国名和湊に着にけり。

これでもう安心、と思っていると、一里後方から百余艘の追っ手の船がやってくるのが見えた。船頭は急いで船を進めようとするが、風が凪ぎ、潮の流れも逆で船は進まない。船員たちも動揺している。

すると後醍醐帝が仏舎利を取り出し、波の上に浮かべたんじゃ。すると突然風向きが変わり、船は東へ進み、追っ手の船を振り切ったんじゃ。

これで無事に伯耆の名和湊にたどり着いた後醍醐帝は、名和長年らと合流し、やがて鎌倉幕府を滅ぼす大逆転劇へとつながっていったんじゃ。まさに一世一代の大脱出じゃった!

まとめ:隠岐脱出のその後

この後、後醍醐帝は名和長年に迎えられ、再び船上山に行宮を設置し、各地に討幕の綸旨を発した。後醍醐帝を逃す失態を犯した隠岐守護・佐々木清高は、懸命に船上山に攻め寄せたが、名和長年の巧みな戦いぶりに翻弄されて大損害。この幕府方の敗北により、近隣の諸将が徐々に天皇方に馳せ参じてしまう。

こうした事態に鎌倉幕府は大規模な兵を西国に送ることを決め、山陽道からは名越高家が、山陰道からは足利高氏が船上山に攻め上がることになった。

じゃが、名越高家は赤松則村に討ち取られてしまい、足利高氏は反旗を翻して六波羅攻めに転じたことは、みなも知っての通りじゃ。高氏は、完全に空気を読んでの裏切りじゃな。

承久の乱の後、隠岐に流された後鳥羽院はそこで余生を過ごされた。わしも長崎も後醍醐帝も同じようにおとなしくなると踏んでいたのじゃが、これは甘かった。承久の頃の鎌倉とわしの時代では、幕府の権威、勢いがぜんぜん違うからな。

そしてなんといっても、大塔宮や楠木正成の反乱を早々に鎮圧できなかったことも痛恨の極みである。

閑話休題 この事件は鎌倉幕府の崩壊と新時代の幕開けを象徴する重要な瞬間であった。後醍醐帝の隠岐脱出は、巧妙な計画と豪族たちの協力で実現した歴史的逆転劇と言えるじゃろう。幕府の想定を超える行動力に後醍醐帝の強い意志と運命を変える力を感じざるを得ず、わしにはとてもマネができぬよ。

この事件は鎌倉幕府の崩壊と新時代の幕開けを象徴する重要な瞬間であった。後醍醐帝の隠岐脱出は、巧妙な計画と豪族たちの協力で実現した歴史的逆転劇と言えるじゃろう。幕府の想定を超える行動力に後醍醐帝の強い意志と運命を変える力を感じざるを得ず、わしにはとてもマネができぬよ。

後醍醐天皇の道(黒木御所碧風館)

後醍醐天皇の道(黒木御所碧風館)

なお、こちらは黒木御所碧風館の展示「後醍醐天皇の道」。中国地方には後醍醐帝の遷幸、還幸に関する伝承地が120もあるらしいぞ。黒木御所は「建武の中興発祥の地」とうことで、鎌倉者には若干のアウエイ感があるが、なかなかに興味深い場所なんで、機会があれば訪れてほしい。

隠岐

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