承久の乱で隠岐に流された後鳥羽院。じつはわし、過日、隠岐に行ってきたので、今回はその時の雑感を交えながら、承久の乱のあとの後鳥羽院の隠岐での生活、その後に起きた怨霊騒動について解説するぞ。
なお、承久の乱については今回は割愛するので、こちらの記事を読んでほしい。
隠岐に流された後鳥羽上皇
村上助九郎家の支援を受ける
承久3年(1221)、承久の乱に敗れた後鳥羽院は隠岐島へ流された。隠岐は日本海に浮かぶ孤島で、都から遠く離れた辺境の地である。
我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け
隠岐に上陸するとき、海は大しけで一行は難渋したらしい。じゃが、院がこの歌を詠まれると、それまで荒れていた海がピタッと静かになったという。
後鳥羽院がお暮らしになったのは隠岐国海士郡の中ノ島、現在の海士町である。華やかな宮廷生活から孤独な流人生活へ。当代一流の文化人でありスポーツマンであった後鳥羽院の人生は一変してしまう。それゆえ、さぞかし侘しい生活を強いられたのかと思ったが、土地の有力者である村上助九郎の手厚いお世話のおかげで、それなり生活を送っていたようじゃ。
村上家はこの村の公文(村役人の代表)で、代々、都に海の幸などの贅を送る仕事をしていたという。たいへん裕福な家であったため、幕府から後鳥羽院の生活援助と見張り役を託されたのじゃ。
後鳥羽院は宮中に最初にお茶を持ち込んだ人物らしいとい。そんなわけで後鳥羽院は村上家をたびたび訪れて、お茶を楽しまれたという。食事などももちろん村上家がお世話をしており、いくら村の実力者とはいえ、先の治天の君をお預かりするのは、なかなかに気を遣ったことじゃろう。
村上家は後鳥羽院が亡くなるまで忠勤にはげんだ。村上家は今なお健在で、後鳥羽院の行在所の近くには資料館がある。崩御から今日までの800年間、御墓守をつとめておられるぞ。
和歌に没頭する
後鳥羽院は院政期において文化・政治の両面で積極的に活動した。特に和歌に対する情熱は深く、藤原定家や藤原家隆といった優れた歌人たちを近くに置き、源実朝公とも交流を深めている。
隠岐に流されてからも和歌への情熱は衰えることなく、『遠島御百首』をはじめ、多くの歌を詠んでいる。また、『新古今和歌集』の編纂にも手を加え続け、自らの歌の改訂を行い、『隠岐本新古今和歌集』として今に伝わっている。
命あれば かやがのきばの月もみつ 知らぬは人の 行くすえの空
……命には限りがあり、時にも限りがある。粗末な萱の軒端の月を眺めて思うのは、人の行く末は分からない
今はとて そむきはてぬる世の中に なにとかたらふ やまほととぎす
……京へ帰るという未練を棄ててしまった隠岐での生活に、野鳥たちは何を思い出せと鳴いているのであろうか
浪間より 隠岐の湊に入る舟の 我ぞこがるる 絶えぬ思ひに
……隠岐の港に入る船を見ていると、絶えず京での暮らしが思い出され、船を漕いで帰りたいという思いが募ってしまう
後鳥羽院が隠岐で読んだとされる御製。いずれも強い望郷の念が伝わってくるではないか。仕方がないこととはいえ、現地を訪れたとき、北条の末裔としてはちょっと申し訳ない気になってきたぞ。
「牛突き」に興じる
隠岐での後鳥羽院の生活は和歌だけに留まらず、島の風土や伝統行事にも深く関わった。蹴鞠や武芸なども披露したと聞くが、特に「牛突き」と呼ばれる行事は、後鳥羽院にまつわる神事として現在に伝えられている。
後鳥羽院はあるとき、牛同士が角を突き合わせて争う様子を目撃する。後鳥羽院は、この光景を京都で見た『鳥獣戯画』の一場面に似ていると感じ、都の雅な文化と隠岐の素朴な風景が重なる瞬間に喜びを覚えたらしい。
島の人々はせめてもの慰めに「牛突き」を後鳥羽院に披露した。それがそれが発展、受け継がれて、現在でも伝統行事として島後地区で盛大に行われているというわけじゃ。
普段はやっていないようじゃか、この日は運よく団体客がいたので、牛突きの聖地「隠岐モーモードーム」で牛たちの巨体がぶつかりあう勝負をみることができて大興奮! 闘犬にはまったわしとしては、後鳥羽院にそこはかとなくシンパシーを感じたぞ。
後鳥羽上皇の崩御と怨霊騒動
後鳥羽院の崩御
延応元年(1239)2月22日、後鳥羽院は望郷の想いを抱いたまま配所にて崩御した。宝算60、19年に及ぶ隠岐での配流生活であった。後鳥羽院の死後、葬儀はこの地で営まれ、火葬が行われた。その様子は「増鏡」に記されている。
この浦にすませ給ひて十九年ばかりにやありけむ、延應元年といふ二月廿二日むそぢにてかくれさせ給ひぬ。今一度都へ歸らむの御志ふかゝりしに、遂に空しくてやみ給ひにし事いと忝く哀になさけなき世も今さら心うし。
近き山にて例の作法になし奉るも、むげに人ずくなに心ぼそき御ありさまいとあはれになむ。御骨をば能茂といひし北面の入道して御供にさぶらひしぞ頸にかけ奉りて都にのぼりける。
後鳥羽院の葬儀は近くの山で行われたがまったく人手が足りず、頼りない様子がとても哀れであったという。遺骨は藤原能茂(西蓮)が京都に持ち帰っり、大原の法華堂に納められた。なお、藤原能茂は後鳥羽院お気に入りの籠童で、一説によると後鳥羽院の骨壷をもってその冥福を祈るため諸国行脚の旅に出たという伝承があるぞ。
火葬の際、島の住民や村上家をはじめとする地元豪族たちが上皇の死を悼み、葬儀に参列したのじゃろう。隠岐の住民たちもまた、島の文化や人々と深く関わった後鳥羽院を尊崇し、その死を悼んだことじゃろう。
「顕徳院」への諡号
ところで、京都の九条道家は承久の乱の後、遠流となった後鳥羽院が京に戻れるよう、たびたび鎌倉と交渉していたらしい。
北条義時公は、承久の乱の事後処理として後鳥羽院を隠岐、土御門院を土佐、順徳院を佐渡へ配流した。道家は三上皇の望郷の思いを強く感じていたのじゃろうが、それ以上に心配なことがあったのじゃ。
というのは、もともと穏健派で進んで配流となった土御門院はともかく、後鳥羽院と順徳院は、このまま放置しておけば、崇徳院の前例からみて両院が死後に怨霊化するのは必至とみていたのじゃ。道家は二人が京に戻れるように周旋を試みた。じゃが、3代執権・北条泰時公はこれを決して許さなかった。
やがて後鳥羽院が崩御する。配流後の後鳥羽院は当時は「隠岐院」と呼ばれていたが、ここに朝廷は後鳥羽院の怨霊化を防ぐために「顕徳院」という諡号が贈られたのじゃ。
そしてその3年後、今度は佐渡院(順徳院)が父の後を追うように崩御した。佐渡院は、京に帰れないのであればこれ以上は「存生無益」と断食して餓死したとか、頭に焼き石を置いて自害したと伝えられている。壮烈すぎて、いかにも怨霊になりそうじゃな。朝廷は佐渡院にも「順徳院」の諡号を行なっている。
この「徳」という字の諡号、日本三大怨霊の一人とされる崇徳天皇以来の慣習によるものなんじゃ。崇徳天皇の怨霊は猛威を振るい、京を震撼させた。そこで朝廷は、内乱に敗れ、京都を離れて非業の死を遂げた天皇に「徳」の字を含む諡号を贈り、通常以上に持ち上げることで鎮魂につとめたのじゃよ。壇ノ浦に沈んだ安徳天皇も然り、今回の顕徳天皇、順徳天皇も然りである。
じゃが、この諡号はあまり効果的ではなかったようじゃ。
四条天皇の死。皇統は後鳥羽院の子孫に
そもそも後鳥羽院は崩御前から生霊として都人に畏れられていた。天福元年(1233)には後堀川院の中宮藻璧門院竴子が出産時に落命し、続けて文暦元年(1234)5月には仲恭天皇が、同年8月には後堀川院がそれぞれ崩御している。さらに嘉禄元年(1225)には承久の乱で都に攻め上がるよう積極論を煽った大江広元が没し、続けて尼将軍・北条政子が落命している。
そして後鳥羽院が崩御すると、今度は怨霊として猛威を振い出す。まず延応元年(1239)末の12月、三浦義村が没した。ご存知のとおり、義村は承久の乱のときに後鳥羽院への合力を拒否し、弟・三浦胤義を見捨てて幕府についた鎌倉の重鎮である。そして直後の年明け正月、夜空に不吉な妖霊星(彗星)が現れた。すると1月24日、北条泰時公とともに京に攻め上り、初代六波羅探題をつとめた北条時房も死亡してしまうのじゃ。
きわめつけは仁治3年(1242)の四条天皇崩御である。なんと13歳の若さであった。四条天皇は女房たちを転ばせようと御所の廊下に滑石を撒くいたずらをしようとしていたが、自分が転んでしまい、それが元で亡くなったらしい。なんとも奇怪な、珍妙な最期と言わざるを得ず、宮中は後鳥羽院の怨霊に恐怖した。
まだ少年だった四条天皇に後継ぎがいるはずもない。皇位継承は揉めに揉めたが、執権・北条泰時公の意見により、承久の乱で中立的立場をとった土御門院の皇子が即位し、後嵯峨天皇となる。後嵯峨天皇は後鳥羽院の孫である。
仲恭天皇の廃帝により、後鳥羽院の子孫は皇統から永遠に排除されるはずだったのじゃが、これにより復活。現代の天皇家ももちろんその系譜上にある。こうなると四条天皇の命を奪ったのが後鳥羽院の怨霊であるという指摘は、妙に説得力が増すではないか。
執権泰時の死。猛威を振るう後鳥羽院の怨霊
そして同年6月には北条泰時公が没する。日頃の過労に加えて赤痢を発症したとされるが、世間は後鳥羽院の祟りと考えた。泰時公は承久の乱で京の軍勢を蹴散らした総大将じゃからな。
「執権殿の最期は高熱で苦しんで、かなり酷かったんだって」
「まるで『平家物語』の平清盛のような最期だったらしいぞ」
「そういえば北条義時も北条政子も大江広元も、みんなこの季節に死んだよね」
「顕徳院さん(後鳥羽院)が島流しになったのも、この季節だったっけ?」
「後堀河天皇(四条天皇の父)が20代の若さで崩御したのもこの時期だったな」
「祟りじゃ。これはまちがいなく後鳥羽院の怨霊のせいじゃ」
加えてこの頃、鎌倉で大火が発生したり、全国的な旱魃が起こるなどの凶事も続いていた。ここに至り、朝廷と幕府は怨霊の鎮魂に本格的に乗り出したのじゃ。
まず、朝廷は先に贈った「顕徳」という諡号を取り消し、あらためて「後鳥羽」の追号を贈った。諡号が改名された例は、歴史上後鳥羽院のしかない。「顕徳」は「崇徳」の例に倣って贈られた諡号だが、これが神仏の御意に叶わなかったと考えられたからじゃ。「顕徳」の諡号そのものが怨霊のレッテル貼りになり、後鳥羽院がお怒りになったったというのじゃよ。
後鳥羽院の離宮跡には御影堂が建立された。後の水無瀬神宮じゃ。さらに幕府は鶴岡八幡宮北方に後鳥羽院、順徳院を合祀する新若宮をつくる。世間は後鳥羽院の怨霊鎮魂に躍起となったんじゃよ。
後鳥羽院は怨霊にはなりたくなかった?!
じゃが、当のご本人はどうやら怨霊にされるのは不本意だったらしい。もちろん、後鳥羽院(このときは隠岐院)自身は京に帰りたいと思っていたし、それを許さぬ鎌倉への恨みはあったはずである。じゃが生前、後鳥羽院は「崇徳院のように怨霊にはされたくない」と周囲に漏らしていたとされている。
この世の妄念にかかはられて、魔縁ともなりたることあらば、この世のため、障りなすことあらんずらん
後鳥羽院が晩年に著した「後鳥羽院御置文案」にはこのように記されており、ここに自分は怨霊にはなりたくないという心情を吐露している。
また、関白近衛兼経の『岡屋関白記』建長元年(1249)3月27日条には、愛妾・伊賀局亀菊のところに亡くなった後鳥羽院が現れ、霊託を下したというのじゃ。
われ没後かならず思うところを行うべし、しかるごときの時、人定めて崇徳院のごとき沙汰を致すか、全く願うところにあらず、止め申すべきなり。
後鳥羽院は死後、崇徳院のように怨霊と思われたくないので、御廟を建てたりするのは本意ではないと託宣したという。「怨霊にはならず、必ず成仏したい」という後鳥羽院の意思表明じゃな。
ところで、竹田恒泰さんは著書『怨霊となった天皇』で「怨霊が生まれる3条件」を紹介している。これを読むと、まさに今回の後鳥羽院のケースがぴったりと当てはまるのじゃ。
怨霊が成立するためには、死者が深い恨みを持っていた事実と、そのことを残された者たちが知っている事実、そして残された者が負い目を感じていることの3つが条件になる。
そう、怨霊をつくるのは生きて残された者たちなんじゃ。崇徳院だけではなく、菅原道真然り、平将門然り。怨霊とは、なろうとしてなれるものではないし、なりたくなくてもなってしまうものなんじゃな。このことは後鳥羽院の怨霊騒動をみるとよくわかる。後鳥羽院は残された者たちによって怨霊にされてしまったのじゃ。じつに皮肉じゃのう。
隠岐に残る後鳥羽院の遺徳
後鳥羽院は亡くなる13日前に近臣の水無瀬親成に宸翰(手紙)を書き残している。そこには、「親成に摂津国水無瀬・井内両荘を与えたい。そこで自身の菩提を弔ってほしい」と綴られ、手形(手印)が押されている。都から遠く離れた隠岐で、自分に尽くしてくれた親成に報いたいと、筆をもつ後鳥羽院の姿が目に浮かぶようではないか。
現在、後鳥羽院の行在所の隣りには隠岐神社がある。現在、後鳥羽院の火葬塚は宮内庁の管理となっているが、江戸の初期頃には廃れていて、片石があるだけのひっそりとしたものだったらしい。
そうした中、やはり隠岐に流されてきた飛鳥井雅賢はこれを憂い、村上家の支援を受けて後鳥羽院の顕彰につとめた。その後は歴代の松江藩主の支援もあり、「後鳥羽院神社」が創建され、島民たちはそこで祭祀を取り行うようになったようじゃ。
じゃが、明治6年(1873)、明治天皇の発願により後鳥羽院の御霊が水無瀬神宮に奉遷されると、翌年には後鳥羽院神社も取り払われてしまう。
後鳥羽院が公式に顕彰されるのは昭和になってからである。紀元二千六百年、その記念行事の一つとして、島根県は隠岐神社の創建を始め、昭和14年(1933)に完成をみる。その年は後鳥羽院崩御700年の節目であり、「後鳥羽天皇七百年祭」が厳かに執り行われた。境内には後鳥羽院の歌碑が点在してお。なんと蹴鞠場まであるんじゃよ。
そして平成31/令和元年(2019)、この地で後鳥羽院来島800周年の記念顕彰事業が行われた。刀剣をこよなく愛した後鳥羽院にちなみ、隠岐神社への刀剣奉納を実施。優れた刀鍛冶による「御番鍛冶」を現代に復活させようと、クラウドファウンディングによる資金集めの行われた。それによって現代刀界の巨匠が集い、最高峰の日本刀がここに納められたのじゃ。
後鳥羽院は、隠岐の地で崇敬され、今なお島民に愛されているんじゃな。
生きても死してもバツグン!後鳥羽院の存在感
隠岐での後鳥羽院の生活やその後の怨霊騒動を紹介したが、いかがだったじゃろうか。隠岐は確かに京のように雅ではないが、自然豊かで飯もうまい。村上家のお世話でそれなりの生活は送ることができていたはずじゃ。和歌に牛突きにと、後鳥羽院は意外にもエンジョイしていたように思ったりするのじゃが、どうじゃろうか。
治天の君にして、当代一流の文化人でありスポーツマンであった後鳥羽院。死後は心ならずも怨霊にされてしまったたが、生きても死しても存在感バツグンじゃな。
ちなみに…わしも足利に裏切られ、新田に攻められ、一族門葉とともに鎌倉で腹を切った。本来であれば怨霊になってもおかしくないのじゃが、徳宗大権現として祀られたことによりそうはならなかった。そもそも、わが恨みは次郎時行が受け継いでくれたしな。
まあ、みなも怨霊になって後の世に迷惑をかけることのないよう、くれぐれも頼むぞ。