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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

護良親王(大塔宮)、暴れん坊の宮様の生涯と壮絶な最期

大塔宮(護良親王)

護良親王(大塔宮)

大塔宮こと護良親王について話してみたい。わしは鎌倉幕府を滅ぼした殊勲者、MVPは護良親王じゃと思っておるんじゃが、後醍醐天皇の血を引くだけに強烈な個性の、まさに「暴れん坊」な宮様である。たしか大河ドラマ「太平記」では堤大二郎さんが演じておられたな。

護良親王の出自

護良親王は、延慶元年(1308)、後醍醐天皇の皇子として生まれた。読み方は「もりよししんのう」なのか「 もりながしんのう」なのかはわしは知らんが、大河ドラマでは後醍醐帝が「もりよし!」と呼んでいたな。

母親は民部卿三位で、異父兄には聖護院准后尊珍法親王がいる。民部卿三位は後醍醐帝の祖父・亀山天皇にも寵愛されており、民部卿三位は祖父から後醍醐帝へのお下がりと言ってもよいかもしれぬな。

第三宮は民部卿三位殿の御腹也。御幼稚の時より、利根聡明に御坐せしかば、君御位をば此宮に社と思食したりしかども、御治世は大覚寺殿と持明院殿と、代々持せ給べしと、後嵯峨院の御時より被定しかば、今度の春宮をば持明院殿御方に立進せらる(「太平記」巻第一)

母親の出自は高貴ではない。しかも文保の和談により大覚寺統と持明院統の間で皇位継承の約束は決まっており、宮が天皇になる目はまったくない。

それゆえ、宮は6歳のときに尊雲法親王として天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入った。「太平記」には「一を聞て十を悟る御器量、世に又類も無りしかば」と記されておルガ、かなりのご器量であったようじゃな。

正中2年(1325)には門跡を継承し、その後、門主となる。ちなみに「大塔宮」と呼ばれたのは、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたからじゃよ。

その後、後醍醐帝は宮を天台座主として送り込む。後醍醐帝が倒幕の志をいつから抱くようになったのかは知らんけど、宮を比叡山に送り込んだのは山門の兵力を期待してのものかもしれぬ。おそらく宮自身、そのことは百も承知であったじゃろう。

今は行学共に捨はてさせ給て、朝暮只武勇の御嗜の外は他事なし。御好有故にや依けん、早業は江都が軽捷にも超たれば、七尺の屏風未必しも高しともせず。打物は子房が兵法を得玉へば、一巻の秘書尽されずと云事なし。

宮は学問も芸術もほったらかして、朝夕ただ武芸に熱中する。その剣術技、打撃技はすさまじく、日々鍛錬を続け、決起のときを待っておったのじゃろう。まさに暴れん坊、宮様らしからぬ御仁じゃよ。

ゲリラ戦で鎌倉幕府を翻弄

比叡山延暦寺の護良親王御遺跡碑

比叡山延暦寺の護良親王御遺跡碑

元弘元年(1331)、後醍醐帝の倒幕計画が鎌倉にバレた 六波羅の兵が迫る中、護良親王は後醍醐帝の身代わりに花山院師賢を比叡山に上らせ、その軍勢を比叡山坂本で撃退した。

この隙に後醍醐帝は笠置山に逃れて挙兵する。じゃが、鎌倉幕府軍の総攻撃に寡兵の笠置山は呆気なく攻略され、けっきょく後醍醐帝は捕えられ、隠岐に遠流となってしまう。

しかし、宮はへこたれない。十津川村や熊野に潜伏しながら後醍醐帝の代わりとして令旨を発し、楠木正成らと連携をとりながらゲリラ戦を展開する。

そして元弘3年(1333)4月、後醍醐帝は隠岐を脱出し、伯耆国船上山で再び兵を挙げ、倒幕の綸旨を発行すると形勢は逆転。京では足利尊氏が裏切り、赤松円心らとともに六波羅探題を攻め滅ぼす。関東では新田義貞が足利のちび(千寿王、後の義詮)を奉じて鎌倉に攻め込む。かくして5月、北条は一族そろって腹を切ることになったのは周知の通りである。

鎌倉幕府にとって後醍醐帝の隠岐脱出を許したのは何よりも失態であった。じゃが、それ以上に厄介だったのは宮のゲリラ戦じゃった。この宮さえいなければ楠木正成ら悪党どももあんなに頑張れなかったじゃろう。後醍醐帝も野望を持ち続けることなく、隠岐でおとなしくしてくれておったかもしれぬしな。

じゃからわしは倒幕のMVPは、足利尊氏でも新田義貞でもなく護良親王だと思っておるんじゃよ。

足利尊氏と対立、後醍醐天皇との確執

さて、建武政権が成立した後のことじゃ。護良親王は天皇の政権を簒奪するのは足利尊氏であるとにらんだ。この宮の見立てはさすがである。いやいやいやいや、尊氏はそんなに大それたことは考えていない、後醍醐帝が大好きだったという者もおるじゃろう。じゃが、結果としてそうなっているんじゃから、宮はやはり慧眼である。

そんなわけで、「逃げ上手の若君」でも、宮が手勢を率いて尊氏の供回りと大立ち回りをする場面がある。もっとも、怪物尊氏には全く歯が立たなかったけどな。「逃げ若」の尊氏は本当にやばすぎる!

それはともかく、護良親王は大和信貴山に兵を集め始めた。「太平記」によれば、後醍醐帝はこれを諌め、比叡山に戻って天台座主の仕事を全うするよう宮に命じたという。じゃが、宮は聞く耳を持たない。

今四海一時に定て万民誇無事化、依陛下休明徳、由微臣籌策功矣。而に足利治部大輔高氏僅に以一戦功、欲立其志於万人上。今若乗其勢微不討之、取高時法師逆悪加高氏威勢上に、者なるべし

「今、尊氏を討たねば北条高時以上の勢力をもちかねない」。宮は足利尊氏の野心をすでに見抜いておったんじゃ。

これに対して足利尊氏は先手を打つ。まずは後醍醐帝が寵愛する阿野廉子と組み、「大塔宮は皇位簒奪のために兵を集めている」 と奏聞する。そして宮が諸国に発した令旨を差し出して弾劾したのじゃ。

ちなみに足利びいきの「梅松論」では、 宮の尊氏排除計画は天皇の意志に沿うものであったが、尊氏に勘づかれて、帝が宮にすべての罪をなすりつけたとしている。

事の真偽はわからぬが、まあ、どっちもありそうな話ではある。

護良親王は後醍醐帝から御所に召し出されたところを捕縛される。身柄は尊氏の弟・足利直義に預けられ、鎌倉二階堂の粗末な土牢に幽閉されてしまうのじゃ。宮にとってはまさに青天の霹靂だったじゃろう。

遂に五月三日、宮を直義朝臣の方へ被渡ければ、以数百騎軍勢路次を警固し、鎌倉へ下し奉て、二階堂の谷に土篭を塗てぞ置進せける。南の御方と申ける上臈女房一人より外は、着副進する人もなく、月日の光も見へぬ闇室の内に向て、よこぎる雨に御袖濡し、岩の滴に御枕を干わびて、年の半を過し給ける御心の内こそ悲しけれ。君一旦の逆鱗に鎌倉へ下し進せられしかども是までの沙汰あれとは叡慮も不赴けるを、直義朝臣日来の宿意を以て、奉禁篭けるこそ浅猿けれ。孝子其父に雖有誠、継母其子を讒する時は傾国失家事古より其類多し。

女官ひとりを除いては付き従う者はなし。日の光もささない暗闇の中、雨が降るたびにその袖を濡らし、滴る岩の雫に枕を乾かすこともできず、半年を過ごされた宮の心中はいかばかりであったか。

ちなみに「太平記」は「孝行な子が父に対して誠実であっても、継母がその子を中傷する時には、国家が傾き家が滅びることが古くから多い」と同情を寄せておる。ここに出てくる継母とは、もちろん阿野廉子である。廉子は側室じゃがわが子を皇統につけたい。尊氏と利害関係は一致したわけじゃ。

宮は「今は武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふ」とこぼしたという。幼いころから父の理想を実現するために尽力してきた。鎌倉を倒したMVPは自分であり、楠木正成である。尊氏なんぞ勝ち馬に乗っただけの裏切り者にすぎない。にもかかわらず、父は息子である自分よりも尊氏の言葉を信じた。そして自分はあっさり見捨てられてしまったのじゃ。宮はさぞかし父帝を恨んだことじゃろう。

じゃが、後醍醐帝にしてみれば、これは宮の尊氏への嫉妬とみたのかもしれぬ。あるいは、自分の言うことを聞かなくなってきた宮が邪魔になっていたとか。これだけの暴れん坊じゃ。ひょっとしたら帝の地位を脅かす存在になるかもしれない。阿野廉子に吹き込まれて、そんな妄想を抱いたかもしれぬな。

だからといってこんな土牢に……これ、わしの愛犬の寝ぐらよりひどいぞ。

鎌倉宮土牢

護良親王が幽閉されたとされる鎌倉宮土牢

暴れん坊の宮様、壮絶な最期

建武2年(1335)7月、北条時行が信濃に挙兵し、鎌倉が北条に奪還された(中先代の乱じゃ)。このとき、幽閉されていた大塔宮は、そのどさくさで足利直義に殺されてしまうのじゃ。

直義は、時行が前征夷大将軍であった宮を奉じて、鎌倉で執権政治をはじめることを危惧したともいわれているが、まあ、たんに邪魔だったんじゃろう。

大塔宮の最期について、「太平記」(巻十三)はこう記している。刺客として送り込まれた淵辺義博と壮絶な闘いを繰り広げておる。

宮はいつとなく闇の夜の如なる土篭の中に、朝に成ぬるをも知せ給はず、猶灯を挑て御経あそばして御坐有けるが、淵辺(義博)が御迎に参て候由を申て、御輿を庭に舁居へたりけるを御覧じて、「汝は我を失んとの使にてぞ有らん。心得たり。」と被仰て、淵辺が太刀を奪はんと、走り懸らせ給けるを、淵辺持たる太刀を取直し、御膝の辺をしたゝかに奉打。宮は半年許篭の中に居屈らせ給たりければ、御足も快立ざりけるにや、御心は八十梟に思召けれ共、覆に被打倒、起挙らんとし給ひける処を、淵辺御胸の上に乗懸り、腰の刀を抜て御頚を掻んとしければ、宮御頚を縮て、刀のさきをしかと呀させ給ふ。淵辺したゝかなる者なりければ、刀を奪はれ進らせじと、引合ひける間、刀の鋒一寸余り折て失にけり。淵辺其刀を投捨、脇差の刀を抜て、先御心もとの辺を二刀刺す。被刺て宮少し弱らせ給ふ体に見へける処を、御髪を掴で引挙げ、則御頚を掻落す。篭の前に走出て、明き所にて御頚を奉見、噬切らせ給ひたりつる刀の鋒、未だ御口の中に留て、御眼猶生たる人の如し。淵辺是を見て、「さる事あり。加様の頚をば、主には見せぬ事ぞ。」とて、側なる薮の中へ投捨てぞ帰りける。 

宮は長いこと土牢に閉じ込められていたので足元もおぼつかない状態じゃったが、心は「八十梟」のように強固なままであったという。刺客の淵辺は力自慢で、宮の胸に乗りかかり首を斬ろうとする。じゃが、宮は首をすくめて刀に食らいつき、刀先を一寸余りへし折流のじゃ。そこで淵辺は刀を投げ捨て脇差で宮の心臓を二度刺し、宮の髪を掴んでようやく首を斬り落とした。

淵辺が土牢を出て宮の首を確認すると、噛み切られた刀先が口の中に残っていた。しかも宮の目は爛々と淵辺を睨みつけているではないか。淵辺は気味が悪くなったのか、宮の首を近くの藪に投げ捨てて逃げ去ったというのじゃ。

いやいや、凄まじい……

護良親王の最期

護良親王にまつわる伝承の数々

その後、足利尊氏と後醍醐帝の対立は決定的となり、時代は南北朝の動乱に突入する。後醍醐帝は吉野へと逃れるはめになるが「ほれみたことか!」という大塔宮の声が聞こえてきそうじゃよ。

ところで、打ち捨てられた宮の首はその後、どうなったんじゃろうか。いくつかの伝承が残されているぞ。いくつか聞き齧ったものを紹介しておこう。

ひなづる伝説

まず、宮に寵愛を受けていた「ひなづる姫」が、宮の首を守って甲斐に逃れたという伝承がある。なんでも姫は宮の子を身ごもっていたが、姫は産後すぐに他界し、赤子も間もなく亡くなったらしい。山梨県都留市の石船神社には、宮の首級とされるミイラが御神体として安置されておるそうじゃよ。

戸塚に伝わる「首洗いの井戸」

横浜市戸塚区柏尾町の王子神社に「首洗いの井戸」がある。この辺りの伝承によれば、宮の打ち捨てられた首は侍女(側室か?)が運びこみ、井戸で洗い清めた後に埋葬したという。ちなみに、この付近の字名は「よつぐひ」というが、これは侍女が鎌倉から山を四つ越えて逃走した「よつごえ」からきたとか、宮の首を清める際に井戸に四本の杭を打ち祭壇としたためといわれておるぞ。

妙法寺中興の祖・日叡は大塔宮のご落胤?

鎌倉大町の妙法寺にも宮にまつわる伝承がある。妙法寺は日蓮が20数年にわたり住んだ霊蹟で、「松葉ヶ谷の法難」の舞台となったことで有名じゃ。この妙法寺中興の祖である日叡は、宮と側室の「南の方」のご落胤だといわれている。日叡はこの地に宮の墓を建て、菩提を弔ったというのじゃ。ちなみに宮の墓は理智光寺跡の谷にあり、宮内庁が管理しているが、じつは妙法寺裏山の山頂にもあるんじゃよ。 

じつは淵辺義博とともに奥州に逃れた?

そしてもう一つ面白いのが、刺客の淵辺義博は「勤王の士」で、じつは宮を殺害していないという伝承じゃ。淵辺は「親王の首は捨てた」と足利直義に嘘をついて宮を匿い、その後、ともに奥州石巻に逃れたというのじゃ。宮は石巻に住んで11年後の正平元年にて薨去したとされ、一皇子宮はその御陵墓と伝えられている。この地には「お御所入」「御隠里」など、宮が住んでいたことを偲ばせるような地名があり、過去には歴代仙台藩主や有栖川宮熾仁親王なども参拝しておられるそうじゃ。

鎌倉宮と護良親王

護良親王の皇子には興良親王(陸良親王)がいる。興良親王は建武政権崩壊後も後醍醐帝に仕え、征夷大将軍としてに南朝のために戦っている。

後醍醐崩御後も後村上天皇への忠勤に励んでいたが、正平15年/延文5年(1360)、興良親王はとつぜん足利義詮と通じ、赤松氏範らと共に南朝の賀名生行宮を焼き討ちにした。じゃが、この寝返りは失敗、南都に逃亡した後の消息は不明じゃ。

鎌倉宮

鎌倉宮(denkei / PIXTA)

やがて、時は流れて明治2年2月(1869)、明治天皇は非業の最期を遂げた大塔宮を讃え、終焉のこの地に神社造営の勅命を発する。御自らつけた宮号は「鎌倉宮」。

そして明治6年(1873)、 鎌倉宮に参拝された明治天皇は皇居に戻られた後、「自分は周囲の助力により 明治維新を成し遂げることが出来たが、護良親王の御奮闘と御最期を思い出す度に 涙を抑えることが出来ない。親王の英姿を広く永く伝えたい」 と太政大臣・三条実美公に話し、鎌倉宮を官幣中社に列している。

ということで大塔宮について紹介してきたが、いかがじゃったかのう。大塔宮は宮様らしからぬ気骨の人である。父帝・後醍醐譲りの強烈な個性と不屈の精神、そして悲劇的な最期に魅力を感じる者は少なくないじゃろう。

まあ、鎌倉にとっては厄介な存在じゃったがな。この宮さえいなければ、わしも腹を切らずに済んだじゃろうと思うと、かなり複雑ではあるがな。