このブログは太守のブログゆえ、鎌倉幕府滅亡後の話はあまり興味はないのだが、とりあえず建武の新政の話だけはしておこう。
天皇親政をめざした後醍醐天皇
建武の新政が、あっさりと瓦解したことはみなも知っているはず。理想とする天皇親政は、摂政・関白も院も将軍もなく、政治権力を天皇に一元化するというもの。その思想のベースは宋学(朱子学)の大義名分論にある。
「君君たらずとも臣臣たらざる可からず」というあれじゃ。
「梅松論」には、後醍醐帝の親政への決意がこう記されている。
保元・平治・治承より以来、武家の沙汰として政務を恣にせしかども、元弘三年の今は天下一統に成しこそめづらしけれ。君の御聖断は延喜・天暦のむかしに立帰りて、武家安寧に比屋謳哥し、いつしか諸国に国司・守護を定め、卿相雲客、各其の位階に登りし躰、実に目出度かりし善政なり。武家、楠・伯耆守・赤松以下山陽・山陰両道の輩、朝恩に誇る事傍若無人ともいひつべし。 御聖断の趣、五畿七道八番にわけられ、卿相を以て頭人として決断所と号して新たに造らる。是は先代引付の沙汰のたつ所也。むかしのごとく武者所ををかる。新田の人々を以て頭人にして諸家の輩を詰番せらる。古に興廃を改て、今の例は昔の新儀なり、朕が新儀は未来の先例たるべしとて新なる勅裁漸く聞えけり。
「延喜・天暦のむかしに立帰り」と、醍醐天皇・村上天皇の治世を目標にしているというんじゃな。そうすると、いかにも復古的な印象を受けるが、いっぽうで「朕が新儀は未来の先例たるべし」と、過去の先例にとらわれず、全て自分が決めていくことを宣言している。自信満々な感じじゃな。
後醍醐天皇は「欠徳の君」?
もっとも、これができるのは堯舜のような伝説的な帝王だけ。まして後醍醐帝は、『太平記』ですら「徳欠くる則(とき)は、位有りといへども、持(たも)たず」と記すような「欠徳の君」なんじゃから、うまくいくはずがない。
元弘の変で、苦楽を共にした側近の万里小路藤房でさえ、諫言を聞き入れられず出家してしまっている。「綸言汗の如し」なんてことはまるでなく「朝令暮改」のオンパレード。建武の新政は、有名な「二条河原の落書」にみられるような世相の混乱をもたらしておる。
此比都ニハヤル物。夜討強盗謀綸旨。召人早馬虚騒動。生頸還俗自由出家。俄大名迷者。安堵恩賞虚軍。本領ハナルヽ訴訟人。文書入タル細葛。下克上スル成出者。器用ノ堪否沙汰モナク。 モルヽ人ナキ決断所。キツケヌ冠上ノキヌ。持モナラハヌ笏持テ。内裏マジハリ珍シヤ……
洛中の治安も風紀も乱れ、地方からは武士たちが訴訟のために上洛してくる。それを裁くのは能力のない役人たち。人事も恩賞もでたらめ。この人、倒幕が成功したのは、武士たちの不満が頂点に達していたことを忘れて、天皇としての自分の威光のおかげ、と勘違いしていたんじゃろうな。
こんな調子の建武政権じゃから、数年ともたずに瓦解し、ついには南北朝の騒乱をもたらす。残念ながら、後醍醐帝は単にわがままでお騒がせ天皇だった、という結論になる。
ちょっと毒を吐きすぎたか。北条の幕府も「道違ふ則は、威有りといへども、保たず」とさんざんに言われておるから、偉そうにはいえる立場ではないがな。
建武政権はなぜ、瓦解したのか
鎌倉幕府もそうじゃったが、このころ、いちばんアタマが痛い問題は、土地相続をめぐるトラブルじゃ。さらに貨幣経済もすすみ、惣領制が崩れてくると、武家はどんどん困窮し、政権への不満が高まっていた
建武政権でも雑訴決断所をつくってこれに対処したが、もちろん簡単にはいかない。あちらを立てればこちらが立たずで、じつに難しい問題だからな。
けっきょく北条を倒して生まれた新政権は期待外れで、武家の生活はあいかわらず苦しいまま。そんな中、武士の期待を一身に集め、台頭してきたのが足利尊氏というわけじゃよ。
一般に、建武政権は公家ばかり優遇して武家を蔑ろにしたといわれておる。ただ、尊氏そのものはかなり厚遇されておるし、後醍醐帝もまさか裏切られるとは思ってもいなかったじゃろう。
かくして南北朝の騒乱がはじまる。全国の武士たちが長きにわたり戦い続けたのも、この土地問題による対立が根本にある。
政事とはじつにむずかしい。為政者とはつらいものじゃ。ミカドも、きっと、わしらの苦労をわかってくれたことじゃろう。