北条高時.com

うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

鳥羽伏見の戦い…なぜ旧幕府軍は薩長軍に敗れたのか

慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発した。ということで、今年はじめての更新は、鳥羽伏見の戦いについて書こうと思う。

鳥羽・伏見の戦い

鳥羽伏見の戦い

鳥羽伏見の戦いとは

まずは鳥羽伏見の戦いのあらましをざっくり。慶応4年(1868)1月3日、大阪から入京をしようとした旧幕府軍と新政府軍(というか薩長両藩)が鳥羽と伏見で衝突、戦端が開かれた。

両軍の兵力は、新政府軍5,000人に対して旧幕府軍は15,000人。兵力数には歴然とした差があったが、旧幕府軍は開戦当初から苦戦が続いた。やがて新政府軍に「錦の御旗」が登場すると、淀藩や津藩があいついで裏切り、旧幕府軍は大いに後退した。

それでも会津桑名両藩は徳川慶喜の出馬により劣勢挽回を画策、慶喜もまたこれに同意する。じゃが、決戦前夜、慶喜は夜陰に紛れて側近とともに城を抜け出し、海路こっそり江戸へ逃亡してしまう。置き去りにされた兵たちは戦意を喪失。鳥羽伏見の戦いは新政府軍の圧勝に終わったのじゃ。

圧倒的に優勢だったはずの幕府軍

鳥羽伏見の戦いは、どう考えても旧幕府側の戦略戦術がお粗末すぎじゃ。戦力的にみても薩長軍5000に対し旧幕府軍は15000と数の上でも圧倒していたし、大坂湾には榎本の海軍もいた。やり方さえ間違えなければ、あんな惨敗を喫する戦いにはならなかったはずじゃ。

よく「装備の差が出た」といわれる。たしかに土方歳三が鳥羽伏見の戦いの後、「もう刀の時代は終わった」といったように、会津藩や新選組は旧式装備だった。でも、当時の旧幕府歩兵はフランス式調練を受け、火器の装備という点でも薩長軍と同等以上だったから、それはちょっと違うかと。

では、なぜ、旧幕府軍は敗れたのじゃろうか。

そもそも徳川慶喜は戦うつもりはなかった

徳川慶喜は水戸の出身ということもあり、朝敵となることを極度に恐れていたので、とにかく戦を避けたかった。大政奉還の後、小御所会議で王政復古が宣言され、辞官納地が決定すると、慶喜は激昂する会津・桑名藩士らを押さえて、大坂城へと退いている。これは京都で不測の事態が起こるのを回避するためじゃ。

慶喜の真意は、あくまでも新政府への参画だった。そこで松平春嶽、徳川慶勝、山内容堂らを通じて、政治的な巻き返し工作を行っていたんじゃ。

西郷吉之助と大久保一蔵は、松平春嶽や山内容堂らを抑えて、その思惑通り、慶喜の排除に成功した。しかし徳川家は800万石の大大名。もし徳川家だけが領地没収となれば、旧幕府軍や譜代大名は黙ってはいない。それならば、ここで慶喜を新政府に参画させ、運用経費は各藩で応分の負担をすればよいのではないか。春嶽らは、こう説いて回り、岩倉具視はこの案を受け入れている。

岩倉にしてみれば、天皇中心の新政府さえ樹立できればそれでよく、徳川と一戦交えるリスクを計算してのことじゃろう。そこで岩倉は、会津、桑名両藩の帰国と、慶喜が軽装で上洛することを条件に、慶喜を迎え入れると譲歩を見せたんじゃよ。

もちろん、西郷、大久保はこれに反発した。しかし、岩倉はこれに与しない。徳川の実力はこの時点では薩長をしのいでいたし、岩倉は薩長と慶喜を両天秤にかけたといえるじゃろう。

慶喜は会津、桑名を抑えられず

徳川慶喜

徳川慶喜

ということで、このままいけば慶喜は新政府の参与として、めでたく迎えられたかもしれなかった。しかし、ここで会津藩主・松平容保と桑名藩主・松平定敬は「大兵を以て入京するにあらずんば、(岩倉)具視の奸譎薩の權謀に陥らん」と異議を唱える。さんざん煮え湯を飲まされた彼らにしてみれば、当然な意見じゃろう。むしろこの機会に大挙上京し、君側の奸を除くべし、と、城中の抗戦派は大いに気勢をあげている。

「徳川慶喜公伝」には、こんな記述がある。

(徳川慶喜)公は感冒にて蓐中におはしけるが、板倉伊賀守罷り出でて、「将士の激昂大方ならず、此ままにては済むまじければ、所詮兵を率いて御上京あるより外、せんすべなかるべし」との旨を反復言上せり。公乃ち読みかけて伏せ置きたる孫子を披きて示し、「敵を知り己を知れば百戦危うからずということあり。今日に於ても緊要なる格言と思ふなり。試に問はん、譜代・旗本の中に、西郷吉之助に匹敵すべき人材ありや」伊賀守暫く考へて、「さる人は候はず」と答ふ。「さらば大久保一蔵に匹敵すべき者ありや」伊賀守また無しと申す。
公は「如何にも其通ならん、斯く人物の払底せる味方が、薩州と開戦すとも、いかでか必勝の策あるべき、結局は徒に朝敵の汚名を蒙りて祖先を辱むるのみなれば、決して戦を主張すべきにあらず」と、固く制止せられしに、伊賀守は、「台旨誠にさることには候へども、将士等の激昂甚しければ、所詮制し得べしとも思はれず、若し何処までも彼等の請を拒み給はば、畏けれども上様を刺し奉りても脱走しかねまじき勢なり」と申す。
公聞召して、「よもや累代の主人に刃を加ふる事はあるまじきながら、脱走せんは勿論なるべし、斯くてはいづれにも国乱の基たるべし」と、深く嘆息せられける

幕府に人材がいるかいないか、そこは議論が分かれるところかもしれんが、とにもかくにも、慶喜の苦悩がよみとれる。こうしてみると、鳥羽伏見の戦いは慶喜の意に沿わない戦いであったことがあらためてわかる。

薩摩藩邸焼き討ち事件

しかし、なんとか暴発を防いでいた慶喜の計算を狂わせたのが、薩摩藩邸焼き討ち事件だった。西郷吉之助は、武力討幕に備えて益満休之助や伊牟田尚平を江戸に遣わし、浪人や盗賊を使って略奪行為をはたらかせ、撹乱工作をすすめていた。これに対して幕府は庄内藩に命じて薩摩藩邸を攻め、この報せが大坂城に届く。

十二月二十八日に至りて、薩邸焼討の飛報は忽如として江戸より達す。此報をもたらしたるは大目付滝川播磨守勘定奉行並小野内膳正等なるが、播磨守は聞ゆる者にて、関東の形勢、討薩の已むべからざるを切論せしかば、旗本の諸隊・会桑二藩の悲憤やる方なく、上下を挙りて挙兵を公に迫れり。事此に至りては、公の力も討薩論の鋒鋩を挫き難く、空しく手を拱きて傍観するの已むを得ざるに至る。

ちなみに、このとき慶喜は風邪を引いて臥せっていましたようじゃが(仮病だなw)、明治になって当時の状況を聞かれると、「するなら勝手にしろというような少し考えもあった」と述懐している。慶喜さん、さいごはなんだか投げやりな感じじゃな。まあ、その気持ちは、わしもわからんではないけどな。

かくして慶喜の意向などもはや無関係に「討薩の表」を掲げ、1万5000の兵が京に向かって進発する会津、桑名両藩の帰国、軽武装という姿とは程遠く、これはもう軍事行動とみなされても仕方がない。

敗因は戦略戦術の不在と現場指揮官の能力不足

こんなふうに怒りに任せて始めてしまった戦だから、旧幕府軍には周到な戦略戦術や統一的な指揮など期待はできなかった。

とりあえず老中格の大河内正質を総督に任命、直接本隊の指揮をとり伏見方面に向かったのは若年寄で陸軍奉行の竹中重固、またの滝川具挙は別働隊として鳥羽方面を北上していく。

古来、京都は攻めるに易く守るに難きところ。そのため、攻めるのであれば、まずは京の七口をおさえて、物資兵糧を断つのが定石のはず。しかし当初、竹中重固は、自分たちは「慶喜公上京の御先供」であるから、薩摩軍は旧幕府軍に道をゆずり、戦わずして入京できると考えていたらしい。

そんなわけだから、旧幕府軍には戦術もなにもあるわけがなく、ただひたすら鳥羽街道、伏見街道を密集縦隊のまま行軍し、待ち構える薩摩軍の銃火の格好の標的となってしまった。

「薩長何するものぞ!」という油断と過信があったんだろうが、いすれにせよ圧倒的な兵力差と優秀な装備を発揮することなく惨敗したその用兵は、あまりにも稚拙といわざるを得ない。この戦術の不在と現場指揮官の能力不足こそが、鳥羽伏見戦争の直接の敗因なんじゃよ。

ちなみに、竹中重固は、あの天才軍師・竹中半兵衛の末裔だそうな。ご先祖様はあの世でさぞかし嘆いておられたことじゃろうよ。

もっとも開戦当初こそ散々だった幕府軍も2日目には盛り返し、かなり善戦していたん。しかし、戦いは錦旗の登場、淀藩、津藩の裏切りにより一方的な展開となりはじめる。「譜代・旗本の中に、西郷吉之助に匹敵すべき人材ありや」という慶喜の懸念は、はからずも当たってしまうことになったわけじゃ。

その後、徳川慶喜は兵を置き去りにして、海路、江戸へ逃げ帰っている。

「だから言ったじゃないか、俺はもう知らないからな」

慶喜のそんな声が聞こえてきそうじゃな……