「玉骨は縦令南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」これは後醍醐天皇の最期の言葉である。
後醍醐天皇の崩御
足利尊氏の裏切りにより、吉野に逃れた後醍醐天皇。その後は新田義貞に尊良親王や恒良親王らを奉じて北陸行を命じ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝に対抗させようとした。じゃが、劣勢を覆すことができないまま病に倒れてしまう。
延元4年 / 暦応2年(1339年)8月、後醍醐帝は義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌15日に吉野で崩御した。宝算52(満50歳没)。左手に法華経、右手に剣を持ち、つぎのような言葉を残し、座したまま亡くなったと伝えられているぞ。
朝敵を悉く亡ぼして、四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり。朕則ち早世の後は、第七の宮(後村上天皇)を天子の位に即け奉り、賢士忠臣、事を謀り、義貞・義助が忠功を賞して、子孫不義の行無くば、股肱の臣として天下を鎮むべし。之を思ふ故に、玉骨は縦令(たとい)南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。若し命を背き義を軽んぜば、君も継体の君にあらず、臣も忠烈の臣にあらじ。
「朝敵をすべて滅ぼして、四方の国を平和にしたいとただそれだけを思っている。朕は早く世を去った後は、第七皇子(後村上天皇)を天皇の位に就け、賢明な士や忠誠心のある臣が国のことを計り、義貞(新田義貞)や義助(脇屋義助)の忠誠の功績を称えて、もしその子孫が不正を働かなければ、国を支える重要な臣下として天下を治めさせるべきだと考えている。こう考えているからこそ、たとえ私の体が南山の苔の下に埋もれたとしても、魂は常に北の宮中の天を仰ぎ続けるだろう。もし命令に背いて正義を軽んじるならば、君主も正統な君主ではなく、臣下も忠義ある臣下ではないだろう」
朝敵討滅と京都奪回への凄まじい執念じゃ。ふつう、天皇陵は南側に面してつくられるものじゃが、後醍醐天皇陵はご自身の意思で北面、つまり京都に向かってつくられているそうじゃ。足利尊氏と直義の兄弟は、これを聞いてガクブルだったことじゃろう。
怨霊となった後醍醐天皇
『太平記』には、後醍醐帝の怨霊話がしばしば出てくる。たとえば、湊川で楠木正成を討ち取った大森盛長の妖刀を、鬼女に化けた正成が奪いにくる話。もちろん正成を動かすのは後醍醐帝の怨霊じゃ。
後醍醐帝が吉野で崩御したときには、車輪のようなものが都に向かって毎晩のように光りながら飛んで行き、不穏な出来事を色々と起こしたともいう。そして都では疫病が流行り、ついに足利直義が病に倒れる。人々は、平重盛が早世して平家の運命が尽きたように、直義の死によって天下はまた乱れるだろうと噂した。幸い、光厳上皇が石清水八幡宮に御願書を遣わして直義は回復したが、尊氏もまた後醍醐天皇の怨霊を強く意識したことじゃろう。
足利尊氏は後醍醐天皇の菩提を弔うために、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿に、光厳上皇の院宣を受けて天龍寺を開創する。そして開山には夢窓疎石を迎えて、後醍醐天皇の七回忌法要と落慶式を盛大に営んだ。
しかし、南北朝の動乱はそれからもしばらく続き、尊氏は弟の直義、息子の直冬を殺害するなど、その余生はけっして穏やかではなかった。
足利義満の時代に南北朝は合一する。じゃが、南朝は両統迭立の約束を反故にされてしまい、以後は後南朝が激しく抵抗を続けた。その後も守護大名や鎌倉公方が反乱したり、応仁の乱がおこったりと、足利の治世は必ずしも安寧ではなかった。
これも後醍醐天皇の怨霊のせいなんじゃろうか。わしにはよくわからん。
なぜ後醍醐天皇は政争に破れたのか
「太平記」には、崇徳院を中心に後鳥羽院、淳仁天皇、後醍醐天皇ら、そうそうたるメンツの怨霊が国家転覆を計画する場面が描かれている。出羽国羽黒の山伏・雲景は天龍寺を訪れようとしていたが、愛宕山の大天狗・太郎坊に誘われて、その場面に出くわスノじゃ。
太郎坊は密議をこらす怨霊たちをよそに、雲景にこう話す。
それ仁とは、恵を四海に施し、深く民を憐れむを仁と言ふ。それ政道と言ふは、国を治め人を憐れみ、善悪・親疎を分かたず撫育するを申すなり。しかるに近日の儀いささかも善政を聞かず……
もはや末世になり「仁政」は廃れてしまっていると、太郎坊はいう。そして、前世での行いが多少よかったからといって、卑賤のものが天下を取ったところで、それはかりそめのことにすぎないというのじゃ。
されば、近年武家の世を執る事、頼朝卿より以来、高時に到るまですでに十一代、蛮夷の賤しき身を以て世の主たる事、かならず本儀にはあらねども、世澆季に及ぶ験に力無し。時と事とただ一世の道理にあらず。
頼朝公から高時まで11代、武家が天下をとったことで、世の中が力で争う時代になった。これは本来のあるべき政道の姿ではないけれど、道徳が廃れた末世であれば仕方がない。そもそも、こんな世になったのは誰のせいというわけではなく、その時代に生きる人々が自ら招いたことだというのじゃ。
先朝(後醍醐天皇)高時を追伐せらる。これかならずしも後醍醐院の聖徳の到りにあらず、自滅の時到るなり…
そして、鎌倉幕府が滅んだのは、べつに後醍醐天皇の聖徳のおかげではなく、単なる高時の自滅だと。このあたりは、言い返せぬわ。
先朝(後醍醐天皇)、随分賢王の行ひをせんとしたまひしかども、真実、仁徳撫育の叡慮は総じて無し。絶えたるを継ぎ廃れたるを興し、神明・仏陀を御帰依有るやうに見えしかども、憍慢のみ有つて実儀おはしまさず。
後醍醐天皇も賢明な君主たろうと努力はされたが、徳も情けも欠けていて、驕る気持ちばかりが強くて実が伴わなかった。そのため、運の傾いた高時を滅ぼすことはできても、高時よりも劣る足利に天下を奪われてしまった、というのじゃ。
運の傾く高時、消え方の燈の前を扇と成らせたまひて亡ぼしたまひぬ。その理にむく いて、累代繁栄四海に満ぜし先代をば亡ぼしたまひしかども、まことに堯・舜の功、聖明の徳おはせねば、高時に劣る足利に世をば奪はれさせたまひぬ。
足利はわしより劣るのかwww このあたりは異論がある者もいるかもしれんが、でも、この天狗は世の中をよくみておる。「太平記」は儒教の大義名分論と、仏教の因果応報論が作中に通底しておる。そしてこの観点から、後醍醐帝は「欠格の君」として描かれており、評価はすこぶるよろしくない。
もちろんこれは太平記史観による暗君論であり、研究者の評価は別物である。じゃが、少なくともわしの立場からすれば、南北朝の動乱はわが国皇統史における汚点じゃし、無用な争いを呼び込んだ後醍醐帝は「欠格の君」と断じざるを得ない。
まあ、その評価や人物像ついてはまたあらためて書くことにしたいが、とりあえずこちらの記事も読んでもらえると嬉しいぞ。