鎌倉幕府を裏切った足利高氏は、つづいて後醍醐天皇、建武政権に反逆する。その理由はなんだったのか。以前読んだ呉座勇一編『南朝研究の最前線』 にあった細川重男さんの論考を読んだので、わしの考えも備忘録的に書いてみたい。
足利尊氏には源氏嫡流として天下取りの野望があった?
よくいわれるのは、尊氏には源氏嫡流として天下取りの野望があったというものじゃ。それを補強するものとして、足利家時の「置文」の逸話が有名じゃが(足利家時の置文…足利高氏が鎌倉幕府を裏切った理由とは?)、そもそもこの逸話そのものが創作臭くて信用にならん。
延喜天暦の治を模範に天皇親政をめざした建武の新政は、武士たちにはすこぶる不評であった。「これなら北条の世の方がよほどよかった」という者も出てくる始末。じゃが、少なくとも尊氏は多くの恩賞を得ているし、正三位・参議に叙任され、鎌倉幕府では考えられない栄達をはたしている。『梅松論』には「尊氏なし」と、いかにも冷遇されたように書かれているが、じっさいは侍大将ともいえる地位についていて、尊氏は後醍醐帝の皇恩に満足していたという。
じゃが、建武の新政は失政を重ねていく。武士たちの不満が高まるにつれ、尊氏への期待は高まっていく。そんな尊氏を護良親王は「第二の北条」として敵視し、いざこざをおこす。公家と武家とは、やはりうまくいかないものなんじゃろう。
中先代の乱が尊氏反逆の契機に
建武政権への失望が広がっていく中、北条与党が各地で隆起する。そして建武2年、わが遺児・北条時行が挙兵し、成義親王と足利直義が守る鎌倉を奪還する。世にいう中先代の乱じゃな。
直義の窮地を知った尊氏は、後醍醐帝に軍を率いての東下を願い出る。そして、征夷大将軍と総追捕使への任官を求めている。源頼朝が鎌倉開府にあたり任じられた官職じゃ。
じゃが、後醍醐帝は、尊氏の力が強まり、鎌倉幕府を再考するのではないかと警戒し、それを許さない。けぅきょく尊氏は勅許を得ぬまま東下し、後醍醐帝は後追いで征東将軍に任命している。
では、尊氏は幕府再考を目論んでいたのか。細川重男さんは、それをはっきりと否定している。
源氏が将軍であった時代はすでにはるか昔の話。この当時の人々の感覚では、源氏将軍よりも親王将軍の方が馴染みが深かったはず。事実、建武政権で当初、将軍に任官したのは護良親王であり、北条時行挙兵後は成良親王が将軍になっている。「当時、将軍は親王の任官する官職であり、尊氏の任官、ましてや幕府再興は現代人が考えるよりはるかにハードルが高かった」というのじゃ。
また、そもそもの話として、当時の武士たちが尊氏を源氏の嫡流と認めていたかどうかも疑わしいという。たしかに実力者ではあるが、足利氏の高い家格は北条氏との縁の強さによって担保されていたもの。「実朝の死により源氏嫡流は絶えた」という認識が、当時は一般的であり、足利も北条の一味くらいにみなされていたと、こういうわけじゃよ。
それでも尊氏が征夷大将軍への就任を願った目的は何か。細川重男さんは「戦いの勝利のみ」としている。戦の相手は前政権・北条得宗の嫡流。新政権への不満を背景に、北条の権威を旗印に瞬く間に鎌倉を奪還した勢いに、尊氏は苦戦を予想したというのじゃ。しかも、鎌倉を攻めるために京都を進発した先例は、あの富士川の鳥の羽音で逃げ出し、大敗を喫した平維盛じゃ。「鎌倉を目指す自分を、東国武士たちが平維盛に見立てたら負ける」と尊氏は考え、無理筋に征夷大将軍の任官を求めたというのじゃ。
「中先代の乱」と聞いても、現代人からすればマイナーじゃし、知っている人でも尊氏が出陣したらあっさり片付いたと思っているじゃろう。しかしじっさいは、わずか20日余りの戦いとはいえ、遠江、駿河、箱根、相模川で激戦が繰り広げられ、足利軍も大きな犠牲を強いられておるんじゃよ。
同時代の人々が、鎌倉政権を「先代」、北条時行を「中先代」、尊氏以降の足利政権を「当御代」(後代)と読んだことも、時行の鎌倉奪還はわれわれが思う以上に大きな事件であったことの傍証になるのではないか(単なるわしの北条贔屓と言われればそれまでじゃが)。
「八方美人で投げ出し屋」も、愛されキャラだった尊氏
つまり、尊氏は弟・直義の窮地を救うため、時行への対抗上、征夷大将軍への就任を願い出ただけで、この時点では幕府再興などという大それた考えはなかったというのじゃ。それゆえ、北条時行を破り、鎌倉を奪還した尊氏は、後醍醐帝からの帰京命令を当初は受け入れている。
じゃが、直義に「兄者、京都に行ったら殺されます」といわれると、あっさり帰京をとりやめてしまう。そして鎌倉では味方してくれた武士に気前よく恩賞をあたえ、後醍醐帝の不信を増幅させてしまう。さらに、これは直義あたりに「義貞が兄者を讒言しています」と囁かれたのか、新田義貞を君側の奸として討伐するよう求めたりもしている。
事ここに至り、後醍醐帝は尊氏討伐を決意し、新田義貞を差し向けることになる。
すると尊氏はこの事態に恐懼し、「朝敵になるのは嫌だ!お前らのせいだ!俺は知らん!」と直義をなじり、周囲が止めるのも聞かずいきなり断髪。隠居を宣言して寺にひきこもってしまう。
しかし直義の劣勢を聞くと一念発起。「直義が死んだら、俺だけが生きていてもしかたがない!」と叫んで出撃。新田軍を蹴散らし、ここに南北朝の動乱がはじまるのじゃ。尊氏……弟思いなのはよいが、ちょっと支離滅裂じゃな。躁鬱気味で「八方美人の投げ出し屋」といわれる理由がよくわかるわ。
そんな尊氏は、なぜか人に愛される、魅力的なキャラであったことはまちがいない。夢窓疎石は尊氏のことをこう評している(『梅松論』)。
身命を捨給ふべきに臨む御事度々に及といへども、笑を含て怖畏の色なし
(合戦で命の危険にあうのも度々だったが、笑みを含んで死を恐れる様子がない)多く怨敵を寬宥有事一子のごとし
(慈悲深く、他人を恨むことを知らず、仇敵すら許し、我が子のように接する)御心広大にして物惜の気なし
(御心が広く、物惜しみすることなど全くない)
ひとことでいえば「無私の人」ということか。度量も大きく、愛されキャラであった尊氏は、先代の遺児・北条時行を破って鎌倉を実力で奪還すると、以後、武士たちの声望を集め、どんどん祭り上げられていく。その筋書きを書いたのは直義か? もっとも直義は後に尊氏に殺されてしまうがな。
尊氏は「小さな正義感を頼りに、迷いながら生きた人物」
かつて吉川英治原作『太平記』が大河ドラマになったことがある。足利尊氏役は真田広之で、脚本を担当した池端俊策さんは「英雄というより、小さな正義感を頼りに、迷いながら生きた人物」として、尊氏を描いたと語っているが、これ、言い得て妙という感じじゃ。
おそらく尊氏自身には、頼朝公のように幕府を開いて天下を取ってやろう!などという大それた野望はなかったはず。そもそも、後醍醐帝は足利尊氏をかなり厚遇しておった。高氏が後醍醐帝に反逆する合理的な理由はないんじゃよ。
おそらく、八方美人で、気前よく周囲の期待に応えるうちに、南北朝の騒乱になり、将軍になり、幕府を開き、弟を殺し、我が子を殺し…後世には「逆賊」と呼ばれ、木像が梟首されたり…あんまり幸せな人生ではないな、こりゃ。
そう考えてみると、高氏よ、わしや赤橋とともに、鎌倉幕府の立て直しに尽力したほうがよかったのではないか? まあ、長崎父子はそれをよしとはしなかったじゃろうが。
閑話休題、後醍醐帝への反逆はもちろん、北条への裏切りもまた、尊氏自身の意図や覚悟があって為したものというよりは、その都度その都度の判断の結果で、全て成り行きということのようじゃ。
まあ、殊更に書かなくても、みんな、そう思っているじゃろな。駄文、許しておくれれ。
わしの備忘録ということで。