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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

「治天の君」とは…天皇と上皇はどっちが偉いのか?

リオ五輪メダルラッシュで日本国中が盛り上がっている中、先日表明された天皇陛下の「お気持ち」が議論をよんでいる。

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天皇陛下の「お気持ち」表明

陛下は「憲法に定められた象徴としての務めを十分に果たせる者が天皇の位にあるべきだ」との意向をあらためて表明された。安倍首相の談話ではないが、象徴天皇の公務につねに真摯たらんとしてきた天皇陛下だからこその重みを感じるのう。

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

ここね、もし、いいかげんでちゃらんぽらんな天皇だったら、「年だし、疲れるし、もう摂政に任せるし」で済むわけじゃよ。じゃが、陛下はそうは考えてない。務めを果たせないのならその地位にとどまるべきではないと、こうおっしゃるわけじゃよ。わしも病に倒れて執権の職を辞したとき、まったく同じ気持ちじゃったからな。ということで、つむりの弱いわしなりに考えたことを過日書いておいたので、よければ読んでたもれ。

 「天皇」という称号について

現在の憲法で、「天皇」は日本と日本国民統合の「象徴」と定義されている。「象徴」=「シンボル」じゃな。わしは、これ、なかなかいい表現だと思う。対外的、実質的には「元首」にあたるそうじゃが、それは勝手に外国人がそう考えればよいのであって、わしら日本国民は「天皇」=「象徴」ということでよいのである。

ところで、「天皇」という称号はいつから使われるようになったんじゃろうか。少なくとも大和王権の時代までは、対外的には「倭王」、国内的には「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」「大王」という称号が用いられておった。じゃが、ご存知の通り「倭」という言葉には蔑みの意味が込められていることから、中国との対等外交をめざす厩戸皇子は、隋への国書で「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と「天子」の称号を使っている。

天皇」という称号が使われるようになったのは通説では7世紀後半とされている。つまり天武天皇持統天皇の時代じゃな。「天皇」という言葉は、明確な根拠はないものの、道教最高神天皇大帝」から由来するらしい。ちなみに律令には、祭祀では「天子」、詔書では「天皇」、上表では「陛下」などと、その用法を規定しておるから、われわれもそれを遵守して、適切な用法を心がけることが肝要ということじゃな。

治天の君」と「太上天皇

律令には譲位した天皇は「太上天皇」と呼ぶとの規定があり、ここから「上皇」という尊号が使われるようになったんじゃ。ちなみに、太天皇、つまり上皇が出家すると「太上法皇」つまり「法皇」となる。史上はじめて上皇になったのは持統天皇で、以後、江戸時代の光格天皇まで、これまで59人の天皇上皇となっている。もし、陛下が退位されれば「上皇」となるのかもしれんが、そうなると「上皇」と「天皇」はどっちが偉いのか、という素朴な疑問がどうしても出てくる。

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じゃん!こちら、院政で有名な白河上皇法皇)。

院政が盛んな頃、上皇は「治天の君」といわれ、その権勢は「在世の君」とよばれた天皇をしのいだ。「治天の君」の由来はもちろん大和王権時代の「治天下大王」。白河上皇法皇)は堀河天皇を即位させ、自らは上皇として院政をはじめたが、その権勢の大きさは「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」という有名な言葉からも伺い知ることができる。

堀河天皇が若くして亡くなると、孫の鳥羽天皇を即位させて朝議に君臨してやりたい放題。女性関係もなかなかお盛んだったようで、崇徳天皇平清盛はじつは「白河法皇のご落胤」という噂もあるくらいじゃ。

白河法皇没後は、鳥羽上皇法皇)が「治天の君」になるわけじゃが、そのあと、皇位の継承と治天の座をめぐって、崇徳上皇後白河天皇の間に軋轢が起こって保元の乱が起きたことは周知の通りじゃ。この遺恨は、鳥羽上皇没後の保元の乱へと続いていく。敗れた崇徳上皇は讃岐に配流となり、その後長らく日本最強の怨霊として天皇家を苦しめることになるわけで…… 

天皇親政をめざした後醍醐天皇

鎌倉に武家政権が誕生してからも、天皇家において「治天の君」が最重要ポストであることは変わりなく、院政は続いていく。後白河法皇源頼朝公に「日本一の大天狗」と言わしめたし、後鳥羽上皇承久の乱北条義時公追討の院宣を発するなど、「治天の君」は天皇の上に君臨し、その権能をふるっている。天皇の父ないし祖父である上皇が朝議における決定権、影響力があったということは、現代の感覚でもわかるじゃろう。で、これに不満をもったの天皇がいる。そう、後醍醐天皇じゃよ。

もともと後醍醐天皇は、兄の後二条天皇の遺児・邦良親王皇位につくまでの中継ぎの即位じゃったが、自分の子に皇統を継がるために、まずは父であり「治天の君」であった後宇多上皇院政を停止する。じゃが、持明院統大覚寺統による両統迭立を支持する鎌倉を滅ぼさなければ、最終的に皇統をわが子に継がせることはできない。かくして、後醍醐天皇の倒幕運動がはじまったんじゃな。

後醍醐天皇の「建武の新政」が大失敗したことは教科書で習ったとおりなので割愛するが、ここで注目して欲しいのが足利尊氏の行動じゃ。尊氏は、隠居状態じゃった光厳上皇を「治天の君」として担ぎ出し、弟の光明天皇を即位させる。自らは征夷大将軍になって後醍醐天皇に対抗。いわゆる南北朝の争いじゃな。この時期、光厳上皇院宣後醍醐天皇の綸旨はどちらも権威があり、効力があった。というか、もはや受け取る者のご都合次第で利用のし放題。無茶苦茶だったんじゃよ。

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最終的には紆余曲折を経て、天皇親政を志向する後醍醐天皇南朝は、光厳上皇光明天皇ラインの院政維持の北朝に吸収され、室町幕府3代将軍・足利義満の代に南北朝の合一が成る。その後も院政は形式的には続いていくが、戦国時代、織豊政権江戸幕府武家の権力が移っていく中で、朝廷の政治権力そのものが失われていく。この間、「治天の君」という存在は事実上消滅する。そして、江戸時代末期に閑院宮出身の光格天皇が、息子の仁孝天皇に譲位したが、これが現時点では最後の譲位というわけじゃな。

なお、光格天皇は幕末の尊王攘夷運動に少なからず影響した人物ということで、ご興味があればこちらの記事をご参考に。 

伊藤博文は卓見だったが……

このように歴史を紐解くと、皇位継承をめぐって、さまざまな対立と権力闘争が繰り返されていたことがわかる。白河法皇後白河法皇後鳥羽上皇後醍醐天皇……まことに僭越ながら、天皇のキャラによっては、とんでもない紛争がおこったりもしてきたわけじゃ。もちろん、この対立を利用する輩、魑魅魍魎はいつの時代にもいるわけで、伊藤博文天皇を終身在位とし、皇室典範に退位規定を盛り込まなかったことは、その当時としては卓見だったとわしは思う。まあ、権謀術数をもって幼少の天皇を「玉」として担ぎ出し、さいごは武力で無理やり政権を奪取した長州出身の伊藤博文は、その利用価値、便利さを腹の底から感じていたということかもしれんがな。

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じゃが、時代は変わり、長寿社会における天皇のあり方も見直しが必要なことは確かじゃ。幸い憲法天皇の政治権力、関与を禁止した象徴天皇制の現代に、こうした問題がおこることは想像しにくいしな。ただし、天皇上皇も権威という意味で利用価値が高いことは今も変わらぬ事実。天皇陛下のお言葉を都合のいいように解釈して世論を動かそうとするメディア、エセ識者、政治家もいるからな。

今回の陛下の「お気持ち」表明は、そうしたことも十分にご配慮され、象徴天皇のお立場ギリギリのところでなされたものだけに、やはり重く受け止めねばならぬということじゃな。

天皇に討たれた朝敵のわしが、片腹痛いことで申し訳ないが、そゆことで。

(´-`).。oO(でも、後醍醐天皇が、今上の陛下のようなお人だったら、わしもさあ…)