今日5月9日は、最後の六波羅探題北方、普恩寺流の北条仲時の命日。湯口聖子さんの漫画『「夢語り」シリーズ』の影響もあり、女性にたいへん人気があるらしいのう。
普恩寺流・北条仲時について
北条仲時は、普恩寺流で第13代執権である北条基時の子。は、普恩寺北条氏は、極楽寺流の分流で、始祖は北条重時の四男・北条業時。業時の孫で13代執権もつとめた基時が普恩寺を創建したことからこの名が定着した。北条庶流の中でもなかなかの家格と名家である。
仲時は元徳2年(1330年)に上洛し、鎌倉幕府最後の六波羅探題北方をつとめ、摂津守護を兼務した。元弘の乱では、大仏貞直、金沢貞冬ら関東からの軍勢と協力し、笠置山に篭城した後醍醐天皇を攻め、天皇を隠岐島に配流した。さらには護良親王や楠木正成らの追討・鎮圧にも尽力してくれた。
じゃが、後醍醐天皇が隠岐を逃れ、再び兵を挙げると、桂川で赤松則村の侵入をよく防いだが、足利高氏の裏切りもあって、六波羅軍は各地で敗れた。
五条橋のふもとから七条河原まで、探題館を包囲する討幕軍は五万余騎。ここに至って北条時益・仲時は、帝と院を守護して関東に下向、再起を期すことを決意する。
なお、もうひとりの六波羅探題・北条時益についてはこちらに書いたので、よければ読んでほしい。
妻・北の方、今生の別れ
「太平記」には、そのときの様子が記されている。仲時は妻・北の方をよび、息子の松寿を連れて落ちのびるように命じる。
「日来の間は、縦思の外に都を去事有共、何くまでも伴ひ申さんとこそ思ひつれ共、敵東西に満て、道を塞ぎぬと聞ゆれば、心安く関東まで落延ぬとも不覚。御事は女性の身なれば苦しかるまじ。松寿は未幼稚なれば、敵設見付たりとも誰が子共よもしらじ。只今の程に、夜に紛れて何方へも忍出給て、片辺土の方にも身を隠し、暫く世の静まらん程を待給ふべし。道の程事故なく関東に着なば、頓て御迎に人を可進す。若又我等道にて被討ぬと聞給はゞ、如何なる人にも相馴て、松寿を人と成し、心付なば僧に成して、我後世を問せ給へ。」
「道中は敵があふれ、鎌倉まで無事に落ちのびることができるとは思えない。 貴女は女性の身だから、夜陰に紛れて逃げ、田舎で世の中が静まるのを待ちなさい。もし私が討死にしたと聞いたなら、だれか良い人と再婚してほしい。そして松寿を育て、僧にして一族の後世を弔ってほしい」と涙を流して別れを告げるのじゃ。
これに対し、北の方は仲時の鎧の袖を引いて、涙を流しながらこう言う。
「などや角うたてしき言葉に聞へ侍るぞや。此折節少き者なんど引具して、しらぬ傍にやすらはゞ、誰か落人の其方様と思はざらん。又日比より知たる人の傍に立宿らば、敵に捜し被出て、我身の恥を見のみにあらず、少き者の命をさへ失はん事こそ悲しけれ。道にて思の外の事あらば、そこにてこそ共に兎も角も成はてめ。憑む陰なき木の下に、世を秋風の露の間も、被棄置進らせては、ながらうべき心地もせず。」
「なんと薄情なことをいうのですか。女ひとり、子どもをつれて逃げることなどできません。道中でもしものことがあれば、そこで一緒に死にましょう。頼りにできるものも無く、 秋風のふきすさぶ世間に捨てられて、この命を永らえることなんてできません」
そう言われて、さすがに仲時も離れがたく、周囲の者もまた、涙を流さない者はなかったと。
しかし、別れの時は迫ってくる。光厳天皇に付き添っていた六波羅探題南方の左近将監北条益時が仲時の屋敷中門までやってきて、出立を促す。
南方左近将監時益は、行幸の御前を仕て打けるが、馬に乍乗北方越後守の中門際まで打寄せて「主上早寮の御馬に被召て候に、などや長々敷打立せ給はぬぞ。」と云捨て打出ければ、仲時無力鎧の袖に取着たる北の方少き人を引放して、縁より馬に打乗り、北の門を東へ打出給へば、被捨置人々、泣々左右へ別て、東の門より迷出給ふ。
行々泣悲む声遥に耳に留て、離れもやらぬ悲さに、落行前の路暮て、馬に任て歩せ行。是を限の別とは互に知ぬぞ哀なる。十四五町打延て跡を顧れば、早両六波羅の館に火懸て、一片の煙と焼揚たり。
かくして、これが今生の別れとなる。「戦は武士のならい」とはいえ、愛する妻子との別れはやはり辛いもの、目頭が熱くなるのう……
北条仲時の最期
その後、仲時は正慶3年(1333)5月9日、京都から鎌倉へと向かう途上の近江国番場宿の蓮華寺で一族432人とともに自刃、壮絶な最期を遂げる。
野伏、悪党らに一夜にして周囲を囲まれ、佐々木道誉に行く手を阻まれ、進退窮まり、最期まで付き従った者どもに「我が首を捕り、生きのびよ」と告げたという。
武運漸傾て、当家の滅亡近きに可在と見給ひながら、弓矢の名を重じ、日来の好みを不忘して、是まで着纏ひ給へる志、中々申に言は可無る。
其報謝の思雖深と、一家の運已に尽ぬれば、何を以てか是を可報。
今は我旁の為に自害をして、生前の芳恩を死後に報ぜんと存ずる也。
仲時雖不肖也。平氏一類の名を揚る身なれば、敵共定て我首を以て、千戸侯にも募りぬらん。早く仲時が首を取て源氏の手に渡し、咎を補て忠に備へ給へ。(「太平記」)
享年28。仲時はさすがに鎌倉武士じゃ。この将の下に裏切者、卑怯者などいるはずもなし。
血は其身を浸して恰黄河の流の如く也。死骸は庭に充満して、屠所の肉に不異。彼己亥の年、五千の貂錦胡塵に亡び、潼関の戦に、百万の士卒河水に溺れなんも、是にはよも過じと哀なりし事共、目もあてられず、言に詞も無りけり。
一族自決の様子を「太平記」はこう伝えている。わしら一族が東勝寺で自決し、鎌倉幕府が滅亡するまで、13日前のことじゃ。
なお、本件についてはこちらの記事を読んでもらえれば幸いじゃ。