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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

北条仲時の最期~近江番場宿・蓮華寺を訪ねてきた

米原市 番場の蓮華寺を訪問してきた。そう、北条仲時以下430余命が自刃したお寺じゃ。前々から行こう行こうと思っていたのじゃが、ようやく念願がかなったというわけ。

北条仲時

北条仲時

なお、北条仲時、六波羅探題南方・北条時益についてはこちらの記事も参考にしていただければと思う。

takatokihojo.hatenablog.com

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番場宿の蓮華寺

名神高速の米原ICをおりてほどなく、番場宿・蓮華寺に到着。番場宿は中山道の62番目の宿場で、中世には東山道の宿駅として栄えたところ。ご年配の方には、長谷川伸の戯曲『瞼の母』に登場する番場の忠太郎でおなじみかもしれんぬな。 

番場宿

番場宿

蓮華寺は聖徳太子の創建で、はじめは法隆寺と呼ばれたが、落雷により焼失。その後、弘安7年(1284)、法然上人の法曾孫である一向上人が、領主で鎌刃城主の土肥三郎元頼の帰依を得て「八葉山蓮華寺」として再興された。

歴代天皇の尊崇も厚く、花園上皇から勅願寺院としての勅許を得て、菊の御紋を下賜されている。時宗一向派大本山の一大念仏道場として隆盛した時期もあったが、現在は浄土宗のお寺にもどっている。

番場峠で進退きわまった北条仲時

北条仲時は普恩寺流北条氏で、第13代執権・北条基時の子。普恩寺仲時とも呼ばれる。元弘元年(1331年)の元弘の乱では、大仏貞直や金沢貞冬ら関東からの軍勢と協力し、笠置山に篭る後醍醐天皇を攻め、天皇を隠岐島に配流した。さらに護良親王や楠木正成らの追討にも力を尽くしたが、足利高氏の裏切りによって敗れる。

仲時らは再起を期し、光厳天皇 、後伏見上皇、花園上皇を奉じて鎌倉を目指す。その途中、元弘3年5月7日、ここ番場峠に到着する。

菊の御紋のついた山門(勅使門)に到着。その脇には「血の川」という説明書きがあった。

本堂前庭にて四百三十余名自刃す。鮮血滴り流れて川の如し。故に「血の川」と称す。

駐車場にクルマを止めて到着早々、いきなり「太平記」にある凄惨な有り様を想像させられ、思わず合掌。このあたりの記述には、北条高時腹切りやぐら以上のリアルさを感じてしまう。

蓮華寺

蓮華寺

番場峠まで来た仲時以下六波羅軍であったが、行く手には、山賊、強盗、あぶれ者などが一夜のうちに集まり、伊吹山麓で出家していた先帝第五の宮(亀山天皇の第五皇子、五辻宮家を作った守良親王?)を担ぎ出し、錦旗を掲げて待ちかまえていた。

仲時は行幸を山へと進め、佐々木(六角)時信を後陣に、糟屋三郎宗秋を先陣に配し、峠を越えようとするが、敵は5千の兵で難所を固めている。仮に命がけで戦い、敵を追い散らしても、美濃国には足利に味方する土岐一族、吉良の一族も遠江国に城郭を構えて待ち受けているという。後陣に残した佐々木時信の向背も、いまとなっては定かではないし、佐々木道誉にいたっては、まったくあてにならない。

かくして進退きわまった仲時は、蓮華寺の本堂前で鎌倉武士らしく、潔く腹を切った。
今は我旁の為に自害をして、生前の芳恩を死後に報ぜんと存ずる也。仲時雖不肖也。平氏一類の名を揚る身なれば、敵共定て我首を以て、千戸侯にも募りぬらん。早く仲時が首を取て源氏の手に渡し、咎を補て忠に備へ給へ。
これをみた糟谷三郎宗秋は、涙が鎧の袖にかかるのをおさえ、仲時の腹に刺さっている刀を抜き、仲時の膝に抱きつくようにして切腹した。
宗秋こそ先自害して、冥途の御先をも仕らんと存候つるに、先立せ給ぬる事こそ口惜けれ。今生にては命を際の御先途を見終進らせつ。冥途なればとて見放可奉に非ず。暫御待候へ。死出の山の御伴申候はん。
そして、仲時に従った432人悉く、この場で腹を切って自害した……というのが、「太平記」で描かれた事のあらまし。鎌倉陥落、北条一族が東勝寺で集団自決する13日前のことじゃ。 

蓮華寺

蓮華寺

このみ寺に、仲時の軍やぶれ来て……

蓮華寺の境内には斎藤茂吉の歌碑もある。茂吉の恩師・佐原窿応が蓮華寺49世住職になった縁でここを訪れ、短歌を残してたのじゃ。
このみ寺に、仲時の軍やぶれ来て、腹切りたりと聞けば悲しむ ……
松風のおと聴く時はいにしへの聖のごとく我は寂しむ
北条仲時ら430余名の供養塔は境内の右手奥、山へと続く参道をあがっていったところにある。墓碑の周りには紅葉が生い茂っていて、きっと秋には、この一帯を鮮血のように真っ赤に染めるのじゃろう。

蓮華寺

蓮華寺

ところで……蓮華寺本堂には宝物室があり、志納で拝観できるらしい。ただ、今回は事前の調べもなく訪問したため、そうとは知らず、お宝を見ずして、蓮華寺を後にしてしまった。

宝物室には、自刃した北条方の将士を記す「陸波羅南北過去帳」(重文)のほか、「北条仲時公肖像」「仲時所持の長刀」「仲時所持の鑓」「仲時護持の塔」などがあるらしい。

なんたる不覚……

六はら山

六はら山

そんなふうに自分を責めていると、どこからともなく「大守、またお越しください」と、仲時の声がどこからとなく聞こえてきたような気がした。次回は、秋に訪れたいぞ。

ちなみに、北条仲時の墓は、こちら「六はら山」にあるらしい。なんでも江戸時代、彦根藩 井伊の殿様が、馬に乗って蓮華寺を参拝した日の夜「我を馬上から見下ろすとは何事ぞ」と、仲時に夢の中で叱責されたことから、山頂に仲時の墓だけ移転したそうじゃよ。