この夏、桶狭間に行ってきたので、今日はそのお話を少々。ごぞんじ、「うつけ者」の織田信長が「海道一の弓取り」今川義元を奇襲して見事に討ちとり、その名を天下に轟かせた、あの有名な合戦があったで地じゃよ。
人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり。一度生を得て 滅せぬ者のあるべきか。
京を目指して尾張に侵攻してきた今川義元に対し、信長は清洲城で「敦盛」のこの一節を謡い、決然として 駆け出したといわれている。小説やドラマでもおなじみの名場面じゃ。ちょうど名古屋方面に行く機会があったので、せっかくなので立ち寄ることにしたんじゃが……桶狭間古戦場跡といわれるところは、なんと2箇所あるんじゃな。
事前に調べてみると、ボランティアガイドを充実させるなど、どちらも「こっちが本物だよ!」とPR合戦に懸命らしい。教科書にものっている有名な観光資源だし、行政区がちがうから、お互いに譲れないところかも。とはいえ、1キロくらいしか離れていない目と鼻の先だし、そもそも合戦はそれなりの範囲で行われたはずじゃから、古戦場という意味では「どちらも本物でよいのでは?」とも思うのじゃがな。
とはいえ、実際に今川義元が討たれた場所は気になる。ということで、せっかくなので両方行ってみることにした。
最初に訪れたのが愛知県豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」。こちらは国指定の史跡。それならば、国がこちらを本物と認定しているのかと思いきや、あくまでも「伝説地」として指定しただけだそうで、ここで義元が討たれたという証拠はないとのこと。それでも今川義元の墓はもちろん、松井宗信ら7人の武将を祭る塚と伝えられている七石表というのもあったぞ。ちなみに、これらを顕彰したのは江戸時代の尾張藩士らしいが、彼らが何を根拠にここを義元戦死の場所としたのかは定かではない。ただ、このあたりはひっそりと静まりかえっていて、いかにもという雰囲気は感じたよ。とりあえず記念撮影。なお、犬は無視しておくれ。
つづいて、名古屋市緑区にある桶狭間古戦場公園へ。こちらは、豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」に比べると、信長と義元の銅像があったり、合戦当時の城や砦、地形などがジオラマ化されていたりで、がぜん立派じゃった。合戦から450年目の2010年に整備されたとのことで、こちらの古戦場公園には、義元首洗いの泉、 義元馬つなぎの杜松というのがあった。義元が休息のために馬をつないだと伝わるこの「ねずの木」は、触れると熱病に罹るとの説明書がある。こう書かれていると試してみたくなるのが人情だよね。それに今はもう枯木なので触っても大丈夫じゃろうが、 エボラ出血熱が世間を騒がせている時節柄、今回は自重しておく。
かつて、この付近は今でこそ 住宅地になっていますが、かつては「田楽坪」と呼ばれる深田だったらしい。
おけはざまと云ふ所は、はざまくみ、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事限りなし。
「信長公記」には桶狭間についてこのような記載があり、地元ではこの「田楽坪」こそが義元最期の場所として伝承されてきた。じっさい、有松町には桶狭間の地名も残っているしね。
ということで、どちらも桶狭間古戦場跡であることは間違いないけれど、今川義元今が討死にした場所は、名古屋市緑区のような気がする。もちろん、決定的な資料でも出てこないと決着はつかないわけじゃがな。