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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

建長の政変〜足利泰氏はなぜ自由出家で処罰されたのか

北条得宗家による専制政治が始まるのは北条時頼公の時代である。宝治合戦で三浦が滅び、建長の政変で摂家将軍を廃して親王将軍を擁立したことで、将軍権力が弱まり執権北条氏、特に得宗家への権力集中が進んだのじゃ。今回は「建長の政変」についてまとめておくぞ。

建長寺所蔵の北条時頼像

建長寺所蔵の北条時頼像(Wikipedia)

将軍派・執権派の対立と宮騒動

まずは「建長の政変」に至るまでの経緯をざっくりと。北条泰時公の死後、執権の職は経時公、時頼公へと継承されていくのじゃが、この間の北条氏の地位は盤石ではなかった。摂家将軍との主導権争いが続き、将軍は名越流北条氏や三浦氏、千葉氏らを味方に引き込んで、将軍権力を執権から取り戻そうと画策していた。

寛元2年(1244)、執権経時公は藤原頼経から頼嗣への将軍交替を推し進めた。幼少だった三寅も鎌倉へ下向して20年余り、4代将軍としての自我も出てきて執権が目障りになっていたのじゃろう。いつしか敵対的な態度が目立つようになってきた。このため幕府内には将軍派、執権派が形成されるようになり、これを案じた経時公の措置である。

じゃが、頼経は引き続き鎌倉に居座り「大殿」と称して存在感をアピールし続けた。そのため経時公の心労は大きく、ついに病に倒れ、執権職を弟の時頼公に譲り、没してしまったのじゃ。

するとこれをチャンスとみた藤原頼経は名越光時と結託し、時頼公を排斥しようと謀を巡らした。幸い、この陰謀はすぐさま露顕し、頼経は京都に送還され、光時もまた失脚した。世にいう「宮騒動」(寛元の政変)じゃよ。

なお、北条経時公と藤原頼経、宮騒動については、こちらの記事にも書いたので、詳しくはそちらを読んでほしい。

三浦・安達の対立と宝治合戦

宮騒動に続き、得宗の権力が強化される契機となったのが宝治合戦じゃ。有力御家人である三浦と北条が激突した事件じゃ。宝治元年(1247)、北条氏と外戚・安達氏は三浦一族とその与党を滅ぼした。

三浦は北条得宗家と縁戚関係を結びながらも、常に微妙な関係にあった。三浦義村死後に家督を継いだ泰村は北条への反抗心はなかった。じゃが、弟の三浦光村は北条を激しく敵視した。将軍頼経の京都送還に同行した光村は、頼経に「必ず今一度鎌倉へお迎えします」と涙ながらに語ったと伝えられている。将軍派の有力御家人といってよいじゃろう。

それでも時頼公は三浦との融和を模索していた。じゃが、高野山から武闘派の安達景盛が25年ぶりに戻ってくると様相は一変する。景盛は執拗に三浦の粛清を説き続けた。安達が三浦の風下に甘んじることを警戒し、執権派として三浦をぶっつぶす決意に燃えていたのじゃ。

北条・安達と三浦の緊張関係が高まり、鎌倉に戦雲が漂い始めると、時頼公は泰村に和平の書状を送り、戦の回避に努めようとした。じゃが、このことを知った景盛は、子息の義景、孫の泰盛を叱咤し、三浦邸への襲撃を命じた。事すでに三浦も光村を中心に臨戦態勢である。ここに至り、時頼公は安達に同心し、宝治合戦が始まったのじゃ。

宝治合戦の詳細についてはこちらの記事を読んでもらうとして、戦は北条の勝利に終わる。泰村、光村、毛利季光ら一族は頼朝公法華堂に会して自刃し、将軍派の千葉秀胤も討伐される。これにより北条の敵対勢力は一掃されたというわけじゃ。

建長の政変、北条時頼打倒計画

宮騒動、宝治合戦に続き、時頼公の政治的優位を決定づけたのが「建長の政変」である。建長3年(1251)、了行法師、矢作左衛門尉、長久連らが謀反の嫌疑で捕えられたのじゃ。

了行法師は宝治合戦で三浦とともに打撃を受けた千葉氏の庶流・原氏の出である。宋に渡ったあとは九条家に仕えていたこともあり、前将軍頼経とも近しい。北条憎しの動機は明白である。了行法師は勧進と称して謀反計画を回覧していたのが発覚したのじゃ。

辛巳 雹降る。地に於いて積もるの事三寸。今日未の刻の一点に及んで世上物騒なり。近江大夫判官氏信・武蔵左衛門の尉景頼、了行法師・矢作左衛門の尉(千葉の介近親)・長次郎左衛門の尉久連等を生虜る。件の輩謀叛の企て有りと。仍って諏方兵衛入道蓮佛の承りとして、子細を推問す。大田の七郎康有をして詞を記す。逆心悉く顕露すと。その後鎌倉中いよいよ騒動す。諸人競い集まると。 (『吾妻鏡』12月26日条)

この事件そのものは謀反人たちの死罪などで、あっさりと沈静化した。じゃが、どうやらここに足利が一枚噛んでいた気配があるのじゃ。

不可解な足利泰氏の自由出家

じつは、了行法師の事件が発覚する20日ほど前に、足利泰氏が幕府に届け出ることなく出家し、処罰されるという事件が起きている。

宮内少輔泰氏自ら出家の過を申す。これに依って所領下総の国垣生庄これを召し離たる。陸奥掃部の助實時これを給う。これ不諧の上、小侍別当の労危うきに依ってなり。当庄は泰氏朝臣始めて拝領するの地なり。始めて入部するの刻、この処に於いて素懐を遂げること有り。不思議とはこれを謂わざんや。然るを泰氏朝臣各々以て相州の縁者たり。その上父左馬の頭入道は関東の宿老たり。頻りに子細を申し嘆くと雖も、人に依って法を極むべからざるの由御沙汰に及ぶと。(『吾妻鏡』12月7日条)

泰氏は突然、幕府に無断で出家したため、もらったばかりの下総国埴生庄を取り上げられたのじゃ。理由は「窮乏していて将軍の身の回りの世話をする小侍の筆頭職をやりきれない」「山林で僧として修行したいという素懐を遂げたもの」とある。泰氏は時頼公の縁者で父の政義も幕府重鎮であったが、人によって法を曲げる訳にもいかないので、こうした沙汰に及んだと『吾妻鏡』は記している。

じゃが、それにしても処分が重すぎるきらいがある。泰氏の出家の動機、タイミングから見ても、その不自然さは多くの研究者も指摘しておられるようじゃ。

ご存知の通り足利は源頼朝公と同じ河内源氏の名門で、北条とは代々蜜月な間柄である。泰氏の「泰」はもちろん北条泰時公から賜ったものじゃ。

泰氏ははじめ、名越流北条朝時の娘を正室に迎え、(斯波)家氏、(渋川)義顕を儲けている。じゃが、後に北条時氏公の娘(経時公、時頼公の姉妹)を正室として頼氏を儲けている。このとき、朝時の娘は側室に格下げになり、後継者と目されていた家氏は廃嫡(尾張足利家、後の斯波氏の祖となる)、宗家は正室の子である頼氏が嗣ぐことになった。そんな経緯もあって、泰氏は宮騒動で粛清された名越流とはそれなりに近しい関係にあったようにも思われる。

さらに、細川和男さんによれば、建長の政変で処罰された長久連が鎌倉時代末には足利の家臣であることを示す史料があるという。また、了行法師の出身である原氏もまた足利とは近しい関係であったようじゃ。

こうしてみていくと、泰氏は時頼公排除の陰謀に関与していたが、計画の失敗を予見して急ぎ出家した可能性も考えられる。あるいは時頼公がこれを早くに察知し、騒ぎが大きくなることを避けるために、泰氏を出家させたのかもしれない。

ちなみに足利氏、尾張足利氏(斯波氏)はその後も北条との蜜月関係を続け、北条もまた親戚のように優遇している。それだけに足利高氏の謀反にみな、仰天したわけじゃが、それはまた後の話である。

得宗専制への道

建長の政変への足利の関与の有無は歴史の闇の中である。じゃが、この後、時頼公は都から親王将軍を迎えると、家督を時宗公に譲り、着々と得宗専制への基盤を整えていったのじゃ。

そもそも、北条泰時公の時代から、鎌倉幕府の重要事項は「評定衆」を中心による合議制で決定することを旨としていた。じゃが、北条経時公が没するとき、「深秘御沙汰」とされる寄合が開かれ、時頼公の執権就任が内々に決まった。また文永3年(1226)、将軍・宗尊親王に北条氏への謀反の疑惑が浮上したときには、北条時宗公、北条政村、金沢実時、安達泰盛の寄合により、将軍の更迭を決定している。

かくして得宗を中心とした北条氏、御内人による「寄合衆」は定常化され、やがて幕府の最高意思決定期間となっていく。泰時公がつくった幕府の合議制は形骸化し、これに不満を持つ御家人もいたじゃろう。足利もまたそうだったんじゃろうか。だとすれば「面従腹背」とはこのことじゃな。

後世、「得宗専制」というと勝手気ままな独裁政治のようで、印象が良くないようじゃ。じゃが、幕府が得宗家の下にまとまったおかげで、わが国は「蒙古襲来」というその後の国難に対処することができたという点を見逃してはならない。もっとも、得宗専制政治もまた御内人が牛耳るようになり、わしの頃には執権も得宗もすっかり傀儡化してしまって、幕府は滅んでしまったけどな。

まあ、いつの時代も官僚機構というものはそういうものなんじゃろう。岸田総理と財務省をみているとそれがよくわかる。いつの時代も宰相のリーダーシップというのは大切なんじゃが、岸田総理はなんだかわしに似てきた感じがするのう……