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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

三浦党・津久井氏のこと〜義行から高重までプチ解説

三浦半島一帯を治めた三浦党・津久井氏。横須賀の東光寺には津久井次郎義行公の碑と一族の五輪塔がある。

東光寺(神奈川県横須賀市)

東光寺(神奈川県横須賀市)

三浦大介の弟・津久井義行

津久井氏は、三浦大介義明の弟・義行から始まる。弟に芦名三郎為清・岡崎四郎義実があり、大友四郎経家に嫁した妹(姉)もいた。和田義盛もそうじゃが、三浦氏の多くは所領の地名を苗字としている。義行も「津久井」の地名をとり、津久井氏と称した。

『吾妻鏡』の治承4年(1180)8月22日条には、源頼朝公の旗上げに合流しようとする三浦一族の中に「築井次郎義行」の名もある。

三浦次郎義澄・同十郎義連・大多和三郎義久・子息義成・和田太郎義盛・同次郎義茂・同三郎宗實・多々良三郎重春・同四郎明宗・築次郎義行以下、数輩の精兵を相率い、三浦を出て参向すと。

三浦党は川の増水に阻まれ、石橋山の合戦には間に合わず。頼朝公が敗れたと聞くと、由比ヶ浜・小坪で畠山重忠と一戦交えた後に三浦に戻り衣笠城に籠城する。そして三浦大介義明は自刃したが、三浦義澄、義村らは頼朝公を追って安房に逃れた。おそらく津久井義行も一緒に難を逃れたのじゃろう。

その後の義行の事績についてはよくわからない。三浦党として平家追討に参加したのかもしれぬが、これといった武功を挙げた様子はない。いや、すでに義行はかなりの高齢のはずじゃから、関東に止まっていたと見るほいが自然じゃろう。ちなみに、頼朝公が上洛する際に供奉した武士の中に津久井氏の名があるぞ。

 

承久の乱で津久井氏滅亡

津久井氏は義行、高行、義通と3代にわたり、津久井の地を領した。東光寺の向かいの峰屋敷と呼ぶ小山に代々居を構えた。この間、津久井氏は地の利を生かし安房三浦間の海運に活躍したとされるが、これといって歴史に名を残していない。

じゃが、承久の乱が起こると津久井氏4代・高重は、初めは宗家の三浦義村とともに鎌倉を進発したが、橋本宿まで来ると突然、朝廷に味方すべく一族郎党を連れて京都に向けて脱走したのじゃ。

すぐさま北条は高重に追手をさしむけ、津久井氏はあっさり討伐された。しかし、なぜ高重が朝廷に与したのじゃろうか。高重は「西面の武士」であり、後鳥羽上皇への思いは強かったのじゃろう。もちろん同族で朝廷方の三浦胤義から強い勧誘もあったじゃろう。そもそも三浦は北条の風下に立つことへの忸怩たる思いもあったのかもしれぬな。

北条時頼公、三浦泰村の時代である宝治元年(1247)、三浦は「宝治合戦」で北条に反抗して滅亡する。津久井氏には矢部、桑原、二宮、秋庭、平塚を名乗る庶流があったが、そのうち秋庭氏と平塚氏は宝治合戦で惣領家とともに戦い討死したと『吾妻鏡』には記されているぞ。

東光寺から三浦富士へ

津久井義行の墓

津久井義行の墓

東光寺には津久井義行の墓と伝わる五輪塔がある。東光寺は同寺のHPによると、諸国を行脚していた行基が草庵を結び、地蔵菩薩像を造ったのが始まりだという。ある夜、三浦富士の神様の化身である老翁が行基の夢に現れ、薬師如来像を刻むよう告げた。翌朝、行基は三浦富士に登り、夢に見た神様を祀る。そして夢のお告げの通りに薬師如来と日光・月光菩薩、12神将の像を彫刻し、寺を建立したということらしい。

三浦富士、山頂

三浦富士、山頂には浅間神社が祀られている

三浦富士からの眺め

三浦富士からの眺め

薬師如来がいる浄土は七宝で飾られているので「七宝山」という。また浄土は東の方角にあ理、「瑠璃光世界」といわれる。それにあやかって「東光寺」と名付けたらしい。その後、東光寺の堂宇は荒廃していたが、それを中興したのが津久井義行というわけじゃ。

せっかくなので、わしも東光寺の裏手から三浦富士に登ってみた。それほど高い山ではなくハイキングコースが整備されている。山頂からの眺めは見事で、相模湾から東京湾までが一望でき、富士山、伊豆大島、房総半島も見えたぞ。

それにしても、三浦半島はいつきてものどかでよきところじゃな。