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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

北条時行は、なぜ後醍醐天皇の南朝に帰参したのか〜ただ尊氏直義等が為に其恨を散ん事を存ず

「逃げ上手の若君」がアニメ化され、わが息子の北条時行への注目がますます高まっておるようなので、時行についてあらためて書いてみたいと思う。鎌倉幕府が滅亡した折、諏訪盛高に守られて信州へと逃れた亀寿丸こと北条時行。その5年後、中先代の乱決起し、一時は鎌倉の奪還に成功する。じゃが、あっさりと足利尊氏に鎮圧され、再び敗走する。

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時行、中先代の乱に敗れる

ご存知のとおり、中先代の乱の後、足利尊氏と後醍醐天皇の間には大きな溝が生まれている。すでにこの時期、建武政権は武士たちの支持を失い、反対に足利尊氏の声望は大いに高まっていた。

中先代の乱で北条軍を鎮圧した尊氏は、その後も鎌倉にとどまり、戦で功のあった武将に恩賞を与えていく。尊氏のこうした行動は、天皇親政をめざす後醍醐天皇にとっては看過できるものではなく、両者の溝は深まっていった。そういう意味で時行の決起は、建武政権瓦解の直接のきっかけになったというわけじゃ。

とはいえ、最近では後醍醐天皇の建武の新政はクソミソにいわれるほどの悪性ではなかったという説もある。とくに法制改革は後の室町幕府につながったし、よく恩賞が公家重視だったといわれるが、じつは武家への待遇も手厚かったというのじゃ。ただ裁定の公平性を重視しすぎたため、恩賞の給付に遅れが生じ、結果として武家の評判が悪くなっただけともいわれておる。

まあ、後醍醐天皇のことはあらためるとして、時行の南朝帰参するのことじゃ。なお、中先代の乱の詳細はこちらに書いたので詳細は省かせてもらうぞ。

相模次郎時行勅免事(『太平記』巻19)

足利尊氏は一時、九州へ追い落とされるが勢力を回復。光厳院を錦の御旗に押し立てて後醍醐天皇を吉野に追い、ここに南北朝の騒乱がはじまる。この間、北条時行は「天に跼り地に蹐して」各地に潜伏し、お家再興の機会を虎視眈々とうかがっていたが、やがて吉野の後醍醐天皇に恩免の綸旨を願い出たという。

「亡親高時法師、臣たる道を弁へずして、遂に滅亡を勅勘の下に得たりき。然といへ共、天誅の理に当る故を存ずるに依て、時行一塵も君を恨申処を存候はず。元弘に義貞は関東を滅し、尊氏は六波羅を攻落す。彼両人何も勅命に依て、征罰を事とし候し間、憤を公儀に忘れ候し処に、尊氏忽に朝敵となりしかば、威を綸命の下に仮て、世を叛逆の中に奪んと企ける心中、事已に露顕し候歟。抑尊氏が其人たる事偏に当家優如の厚恩に依候き。然に恩を荷て恩を忘れ、天を戴て天を乖けり。其大逆無道の甚き事、世の悪む所人の指さす所也。是を以当家の氏族等、悉敵を他に取らず。惟尊氏・直義等が為に、其恨を散ん事を存ず。天鑑明に下情を照されば、枉げて勅免を蒙て、朝敵誅罰の計略を廻すべき由、綸旨を成下れば、宜く官軍の義戦を扶け、皇統の大化を仰申べきにて候。夫不義の父を誅せられて、忠功の子を召仕はるゝ例あり。異国には趙盾、我朝には義朝、其外泛々たるたぐひ、勝計すべからず。用捨無偏、弛張有時、明王の撰士徳也。豈既往の罪を以て、当然の理を棄られ候はんや」(『太平記』巻19「相模次郎時行勅免事」)

要するに「父・高時が滅ぼされたのは自業自得ですからお恨み申すようなことはありませんが、裏切り者の足利尊氏と直義だけは許せません。どうぞ、私をお許しいただき、朝敵誅伐をお命じ下されば、官軍のため忠義を尽くします」ということじゃ。

このとき、時行はせいぜい15歳にも満たない年齢のはず。こんな立派な奏聞ができたかということはやや疑問は残るが、「新田はともかく、足利だけは許せん!」という思いは強かったのじゃろう。

「当家優如の厚恩に依候き。然に恩を荷て恩を忘れ」た足利の裏切りは北条にとって致命傷になったし、いわば「飼い犬」に手を噛まれたようなものじゃからな。もちろん、自分の命の恩人であり、愛情深く育ててくれた諏訪頼重の仇を討ちたいという気持ちもあったじゃろう。

いずれにせよ足利に一矢報い、朝敵とされた北条の家を再興したいという決意に、時行少年が燃えていたことはまちがいない。

南朝の臣として鎌倉を再奪還

かくして北条時行はその罪を許されて南朝に帰参する。青野ケ原では奥州勢を引き連れて西上する北畠顕家に合力して転戦。伊勢から東国へ向かう船が難破し、遠州に漂着すると、暦応3年(1340)には井伊谷から逃れてきた宗良親王を信州伊那に迎え入れ、大徳王寺城に立てこもる。

親王を奉じた北条軍の士気は大いに上がったことじゃろう。寡兵ながらも北朝方の信濃守護・小笠原貞宗や美濃守護・土岐頼遠らの大軍を相手に4カ月にわたる籠城戦を戦いぬいたと伝えられている。

足利の内紛により観応の擾乱が起きた直後の正平7年(1352)には、新田義興とその弟の義宗、脇屋義治、諏訪直頼ら信濃の諸将、旧足利直義派の上杉憲顕らと呼応して挙兵。南朝軍の一員として鎌倉を占拠し、足利尊氏を武蔵国石浜に追いやっている。中先代の乱で鎌倉を奪還したときは10歳にも満たぬ小童であった時行も、このときはすでに青年武者。北条得宗家の血脈を受け継ぐ者として、「世が世なれば…」という感慨もあったじゃろう。

もっともこの後、態勢を立て直した足利軍に南朝軍は蹴散らされ、越後信濃方面へ四散。時行もまた再起を期して行方をくらます。じゃが、鶴岡社務録には、正平8年(1353)5月20日、時行は足利基氏に捕らえられ、鎌倉龍ノ口で処刑されたとある。

足利を倒し、北条一族の無念を晴らすため、戦に明け暮れた短い生涯を思うと、目頭が熱くなってくるではないか。

なお、後世には小田原北条氏家臣・板部岡江雪斎、賤ヶ岳の七本槍・平野長泰、幕末の儒学者・横井小楠が北条時行の末裔を自称している。もちろん真偽のほどはわかりかねるが、まあ、時行に子どもがいてもおかしくはないじゃろう。

ちなみに小田原北条氏2代の氏綱の正室・養珠院は「横江北条相模守女」=時行の曾孫・北条行長の娘とする記録もあるらしい。そうなると単に伊勢から北条に改姓したというだけでなく、氏康、氏政、氏直にはじっさいに北条得宗家の血が受け継がれているともいえる。

歴史の浪漫というか、じつに興味深い話ではある。