今回は北政所(おね、高台院)について少々。ドラマや小説などでは、北政所と淀殿との間には確執があり、そこに石田三成ら文治派と加藤清正、福島正則ら武断派の対立がからんで豊臣家臣団が分裂。そこを徳川家康につけこまれて関ヶ原の合戦に至ったというような話が通説的に描かれている。
ただ、石田三成の末裔という白川亨氏は、北政所は加藤清正や福島正則ではなくむしろ石田三成と西軍を支持していたという説を提起されておられるぞ。
北政所と石田三成
このあたり、にわかには信じられんが、北政所がむしろ三成を支持していたとされる根拠としては下記が挙げられている。
- 秀吉の死後に石田三成の娘・辰姫が北政所の養女になっている
- 北政所が大坂城西の丸を出た後、北政所と加藤清正や福島正則ら武断派が近しい関係にあったことを示す直接的な史料はない
- 大谷吉継の母、小西行長の母など、北政所の側近には西軍関係者が多く、東軍関係者はいない
- 北政所は関ヶ原の戦いの前に宇喜多秀家が豊国神社で行った戦勝祈願に参加している
- 京極高次が東軍について大津城に籠城したとき、孝蔵主が開城の使者として交渉にあたっている
- 関ヶ原で西軍が敗れたことを聞いた北政所は、大慌てで裸足のまま御所の勧修寺家に逃げこんだり、太閤ゆかりの品を豊国社に隠したりしたという記録がある(『梵舜日記』)
小説などでは、北政所は、秀吉と共につくりあげた泰平の世を守るために、徳川家康を天下人にすることを望んだというような描かれ方がなされている。
北政所と東軍の関係をうかがわせる史料としては、浅野幸長と黒田長政が小早川秀秋に宛てた連署状がある。その内容は「われわれは北政所様の意向にそって行動している(だから、お前も徳川に加勢せよ)」というものじゃ。じゃが、これも武断派が勝手に北政所をいいように利用しただけという見方もできるし、そもそもこれ以外に、北政所が家康に加担したことをうかがわせる同時代史料は存在しない。
とはいえ、小早川秀秋は西軍を土壇場で裏切り(通説、じゃがこれも諸説あり最近は怪しい)、関ヶ原の勝敗を決める働きをしている。北政所がほんとうに石田三成を支持していたのであれば、秀秋に西軍に味方するように仕向けることもできたのではないか。ともかく、三成がもっと北政所を利用してもよさそうなもんじゃが、そうした気配は感じられない。
はたして北政所が徳川家康と石田三成のどちらを支持していたのか。この問題、残念ながら真相は藪の中といわざるをえんな。
北政所と徳川家康
いっぽう徳川家康と北政所の関係はどうだったのか。北政所は大坂城西の丸を退去して家康に譲ると、寺に入り「高台院」を称した。このことから北政所は、家康に豊臣の天下の行末を託し、家康もまた高台院を丁重に遇したとされている。じゃが、ほんとうに二人はそんなに蜜月だったんじゃろうか。
そのことを考える上で、こんな事件を紹介しよう。慶長13年(1608)、兄の木下家定が没すると、その遺領をめぐって木下利房と木下勝俊(長嘯子)の兄弟間で争いが起きた。家康は兄弟による分割相続を考えていたが、北政所は密かに浅野長政、徳川秀忠を通じて、勝俊が単独相続するよう画策した。これに家康は激怒し、家定の遺領はすべて没収されてしまった。この一事をもっても、家康と北政所の関係はさほどでもなかったように思えるのじゃが、いかがじゃろうか。
そもそも関ヶ原で木下家定は中立を称して動かなかったが、勝俊は初め徳川方として伏見城の守備についていたくせに城を抜け出して敵前逃亡している。いっぽう利房にいたっては西軍の将として戦っている。こうしてみると木下はどうみても西軍、三成方にみえる。もちろんそこに高台院の影響がどれだけあったのかはわからぬが、実家の一族じゃから全くの無関係ともいえまい。
また『譜牒余録』では、大坂夏の陣のとき、北政所は豊臣秀頼との交渉に出向こうとしたと記している。このとき幕府は「高台院をして大坂にいたらしむべからず」と、木下利房を監視につけ、これを阻止している。家康が北政所のことを警戒していたようにもみえるし、やはり二人に強い信頼関係があったということもなさそうじゃ。
ただ、北政所は徳川秀忠との関係はきわめて良好であったらしい。秀忠は12歳の時に秀吉に人質として送られているが、北政所が「誠にご実子の如く慈しみ給う」たため、秀忠は恩義を感じており、上洛するたびに高台院を訪ねていたという。
北政所と淀殿
最後に北政所と淀殿について。正室と側室のバトルというのはドラマや小説としては面白いが、じつは対立していたとする証拠、史料も無いようじゃ。よって、二人の関係についてもまったくわからない。
じゃが、北政所はは他の側室たちと一緒に祭りや遊びに行ったりもしたし、秀吉の浮気には割と寛容だったようじゃ。淀殿が懐妊したことを知ったときにも安産祈願を行なっている。また、秀頼が病になると、治療を行った曲直瀬道三に容態を心配して問合わせをしており、病気快復を望んでいた心根も感じ取れる。
もちろんそれはポーズであり、ほんとうは「死ねばいいのに」と思っていたといえなくもないが、「おんな太閤記」で佐久間良子さんが演じた「おかか」「ねね」がそんな意地悪な女性とはわしには思えんのじゃ。
二人の行動から推測すれば、北政所は亡き秀吉を弔う仏事に専念し、淀殿は秀頼の後見人になるという役割を明確にしていたということかもしれぬ。少なくとも二人が不仲だったと断定することはできぬじゃろう。
なお、淀殿についてはこんなしょうもない記事も書いたので暇だったら読んで欲しい。
北政所没、最晩年は不幸だった?
と、まあ、つらつら書いてきたが、結局のところ北政所と石田三成、徳川家康、淀殿との関係はよくわからん。ただ、秀吉とともに天下をとった北政所だけに、それなりの影響力があっあたことは確かじゃろう。
それだけに、もし北政所が石田三成を支持していたとして、関ヶ原の合戦の時に、承久の変での尼将軍・北条政子さまと同じように振る舞っていたとしたら…
皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故太閤殿下の恩既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し……
出陣する西軍諸将を前に大演説をぶちまけていたら、歴史は大きく変わったように思うのじゃが、いかがかのう?
寛永元年9月6日、北政所は高台院屋敷にて死去。なお、大坂夏の陣の後、家康の命により豊国社が破却されるなど、北政所の最晩年はあまり幸せではなかったようじゃな。