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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

源頼朝が山木館を襲撃。山木兼隆、堤信遠を討つ〜源家平氏を征する最前の一箭

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は大いに盛り上がっておるようじゃな。早くも源頼朝公の挙兵、山木館襲撃へとすすんでいくわけじゃが、ドラマで完全に憎まれ役となっている山木兼隆と堤権守信遠について、まとめておくぞ。

山木兼隆 『頼朝旗起八牧館夜討図』

山木兼隆 『頼朝旗起八牧館夜討図』

山木(平)兼隆 不運だった伊豆目代

山木兼隆は、桓武平氏大掾氏の庶流・和泉守・平信兼の子で、平兼隆または大掾兼隆ともいう。検非違使少尉(判官)として平清盛の義弟・時忠の下で活躍し、比叡山延暦寺が強訴を起こした白山事件で天台座主・明雲が伊豆国に配流となったときには、その警備にあたっている。

治承3年(1179)、兼隆は父との不和により解官され、伊豆に配流になってしまう。しかし、この直後、源頼政以仁王との挙兵に失敗して鎮圧されると、翌治承4年6月、伊豆国国司に懇意にしていた平時忠の猶子・時兼が任じられ、兼隆はその目代になることができた。

曽我物語』や『平家物語』によると、北条時政公が大番役で京へ上っていた間に、頼朝公は政子さまと恋仲になったという。平家の怒りを恐れた時政公は、政子さまを兼隆に嫁がせようとしたが、一途な政子さまは逃げ出して頼朝公のもとへ走ってしまう。これに兼隆は激怒したが、頼朝公と政子さまは伊豆山権現に庇護され、手が出せなかったとしている。

後に政子さまは、「闇夜をさまよい、雨をしのいで貴方のところを参りました」と述べており、頼朝公も兼隆に対して「意趣がある」と語ったという。大河ドラマ草燃える」でもこの逸話が採用されていた。

じゃが、兼隆の伊豆配流は治承3年のことで、この時点で頼朝公と政子さまの間にはすでに長女・大姫が生まれておる。また、山木館が頼朝公に襲撃されるのは治承4年8月17日で、兼隆が目代になってたった2カ月後のことじゃ。そうしたことから、兼隆と政子さまとの婚姻は、話を劇的にするための創作とみてよいじゃろう。

「鎌倉殿の13人」の山木兼隆は、いかにも京からやってきたおバカなひげちょびんとして出てくる。北条時政公が伊豆の新鮮な野菜をたっぴりもって挨拶にきたことを聞いても、「わしはコオロギか?」という言葉を発するのみ。平家の威を借りて尊大にふるまうこんなやつは殺されて当然、という感じで描かれているが、史実の兼隆はどうだったかはわからない。たまたま目代をつとめていたために、頼朝公決起の生贄という、損な役回りで歴史に名を残してしまったのは、不運というほかはないな。

堤権守信遠 平兼隆の後見をつとめた「勝れる勇士」

頼朝公の決起にあたり、その血祭りにあげられたもう一人の男が堤権守信遠じゃ。ドラマでは、義時公にいじわるをして馬上から泥道で土下座を強要したり、時政公がもってきたお野菜を「田舎者め」とバカにしてふみつけ、茄子を顔にぐちゃっと押し付けたりする典型的な悪者ぶり。平氏の威を借る驕り昂ぶりが北条父子の怒りに火をつけ、憎しみを増幅させる演出がなされていた。

じゃが、この堤信遠、『吾妻鏡』では「勝れる勇士」と記されている。少なくとも、お野のことで、あんなふうにいけずをする男ではなかったじゃろう。

ただ、堤信遠は伊豆国田方郡を治め、山木兼隆の後見人ともいえる立場であった。いっぽう北条時政公も同じ田方郡が本拠であり、なにかと対立があったのかもしれない。しかも、時政公は頼朝公を庇護しておったからな。

そんなわけで、山木と堤は頼朝公が挙兵にあたり、最初の標的としては、じつに格好の相手だったとことはまちがいない。頼朝公の旗揚げは驕る平家を追討する世直し。その憎悪の対象の象徴が山木兼隆であり、堤権守というわけじゃな。

山木兼隆と堤信遠(NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」)

山木兼隆と堤信遠(NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」より)

源頼朝が挙兵を決断

治承4年(1180)6月19日、頼朝公の元に三善康信の使いが伊豆に到着した。その報せによると、平家は以仁王の令旨を受け取った源氏を全て滅ぼすように命じたという。そこで、頼朝公も座して死を待つよりは、と挙兵を決める。まずは伊豆目代山木兼隆を討ち、源氏の旗の下に兵を集めようという算段じゃな。

山木館は要害の地であり、攻めるのはなかなか難しい。そこで頼朝公は、事前に密偵を送り込み、館の図面をつくらせ、準備を進めていた。一方、平氏も頼朝公を討つ動きをみせ、8月2日には、大庭景親をはじめとする東国武士が京都から戻ってきた。

もはや待った無し。頼朝公は占いにより、8月17日早朝を決起の刻限に定めた。そして頼朝公の下に、工藤茂光土肥実平岡崎義実、宇佐美佑茂、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉他が参集してくる。この時の様子は、「吾妻鏡」治承4年8月6日の条にはこう紹介されている。

当時経廻士の内、殊に御恩を重んじ身命を軽んずるの勇士等を以て、各々一人次第閑所に召し抜き、合戦の間の事を議せしめ給う。未だ口外せざると雖も、偏に汝を恃むに依って仰せ合わさるの由、人毎に慇懃の御詞を竭さるの間、皆一身抜群の御芳志を喜び、面々勇敢を励まさんと欲す。これ人に於いて独歩の思いを禁しめらると雖も、家門草創の期に至り、諸人の一揆を求めしめ給う御計らいなり。然れども真実の密事に於いては、北條殿の外、これを知る人無しと。

大河ドラマでは、「坂東の田舎武士に頭を下げるのは嫌じゃ!」と言い張る大泉頼朝が、小栗義時の諫言を聞き入れて豹変し、参集してきた武者一人ひとりに「ここだけの話、お前を一番頼りにしているんじゃ」とやるシーンがあったが、その元ネタはこれじゃよ。頼朝公は、決起の前にみなをやる気にさせるためにこうしたことをしたが、もちろん、一番頼りにしていたのは北条であり、本当のことは時政公以外には話さなかったようじゃよ。

しかし、兵は集まらず…

かくして決起は8月17日早朝と決まったが、北条の尽力にも関わらず、前日になっても兵はなかなか集まらなかった。頼朝公は戦勝のためにお祈りをしていたが、流石に疑心暗鬼になってきたようじゃ。

いよいよ人数無きの間、明暁兼隆を誅せらるべき事、聊か御猶予有り。十八日は、御幼稚の当初より、正観音像を安置し奉り、放生の事を専らせられ、多年を歴るなり。今更これを犯 し難し。十九日は、露顕その疑い有るべからず。而るに渋谷庄司重国当時恩の為平家に仕う。佐々木と渋谷とまた同意の者なり。一旦の志に感じ、左右無く密事を彼の輩に仰せ含めらるるの條、今日不参に依って、頻りに後悔し、御心中を労わしめ給うと。

頼朝公は「18日は幼い頃から観音像を祀って祈りに専念することにしてきたし、19日になれば、世間に知れてしまう。それなのに渋谷重国は未だに味方につかないし、佐々木四兄弟もまだ参着しない。たやすく秘密の用意を彼等に語ってしまった」と、心を悩ましておられた。

しかし三島社の神事がある17日の午後、ようやく佐々木四兄弟が到着した。彼らはここのところの大雨で川が氾濫しており、参陣が遅れたらしい。

三島社の神事なり。籐九郎盛長奉幣の御使いとして社参す。程なく帰参す(神事以前なり)。未の刻、佐々木の太郎定綱・同次郎経高・同三郎盛綱・同四郎高綱、兄弟四人参着す。定綱・経高は疲馬に駕す、盛綱・高綱は歩行なり。武衛その躰を召覧し、御感涙頻りに顔面に浮かべ給う。汝等の遅参に依って、今暁の合戦を遂げず、遺恨万端の由仰せらる。洪水の間意ならず遅留するの旨、定綱等これを謝し申すと。

頼朝公は4人の姿を見て感激の涙を流し、「汝等の遅参に依って、今暁の合戦ができず、残念であった」と語ったと記録されている。

戌の刻、籐九郎盛長が童僕、釜殿に於いて兼隆が雑色男を生虜る。但し仰せに依ってなり。この男日来殿内の下女に嫁すの間、夜々参入す。而るに今夜勇士等殿中に群集するの儀、先々の形勢に相似ず。定めて推量を加えんかの由、御思慮有るに依って此の如しと。然る間明日を期すべきに非ず。各々早く山木に向かい雌雄を決すべし。今度の合戦を以て生涯の吉凶を量るべきの由仰せらる。また合戦の際、先ず放火すべし。故にその 煙を覧らんと欲すと。士卒すでに競い起こる。

午後8時頃、安達盛長の童僕が兼隆の雑色(雑用係じゃな)を捕らえる。この雑色は普段から北条屋敷の下女のところに毎夜通っていた。こいつが館に戻らないと山木館で異変に気付かれるかもしれない。そこで頼朝公は、今すぐ山木館を襲撃することを決断し、戦が始まったら館に火を付けるよう命じたのじゃ。

北條殿申されて云く、今日は三島の神事なり。群参の輩下向の間、定めて衢に満たんか。仍って牛鍬大路を廻らば、往返の者の為咎めらるべきの間、蛭島通を行くべきか。てえれば、武衛報じ仰せられて曰く、思う所然りなり。但し事の草創として、閑路を用い難し。将又蛭島通に於いては、騎馬の儀叶うべからず。ただ大道たるべしてえり。また住吉小大夫昌長(腹巻を着す)を軍士に副えらる。これ御祈祷を致すに依ってなり。盛綱・景廉は、宿直に候すべきの由承り、御座の砌に留む。

かくして、頼朝軍は山木館への進軍を開始したのじゃ。

山木館

山木館

寿永4年8月17日、山木館襲撃

北条時政公は、三島神社の祭礼への参列者を避けて、裏道(蛭島通り)を進むことを提案した。じゃが、頼朝公は「草創の戦なのだから裏道ではなく、大通り(牛鍬大路)を騎馬で堂々と行くべきだ」と主張した。さらに勝利を祈祷させるため、陰陽師の住吉昌長に同行を命じ、佐々木盛綱と加藤景廉には頼朝公の傍で待機させることとした。

然る後茨木を北に行き肥田原に到る。北條殿駕を扣え定綱に対して云く、兼隆が後見堤権の守信遠、山木の北方に有り。勝れる勇士なり。兼隆と同時に誅戮せずんば、事の煩い有るべきか。各々兄弟は信遠を襲うべし。案内者を付けしむべしと。定綱等領状を申すと。子の刻、牛鍬を東に行き、定綱兄弟信遠が宅の前田の辺に留まりをはんぬ。定綱・高綱は、案内者(北條殿雑色、字源籐太)を相具し、信遠が宅の後に廻る。経高は前庭に進み、先ず矢を発つ。これ源家平氏を征する最前の一箭なり。時に明月午に及び、殆ど白昼に異ならず。信遠が郎従等、経高の競い到るを見てこれを射る。信遠また太刀を取り、坤方に向かいこれに立ち逢う。経高弓を棄て太刀を取り、艮に向かい相戦うの間、両方の武勇掲焉なり。経高矢に中たる。その刻定綱・高綱後面より来たり加わり、信遠を討ち取りをはんぬ。

道中、時政公は、堤権守信遠も同時に討つべきと主張した。そこで、佐々木定綱と高綱は時政殿と別れて堤信遠の屋敷に向かう。0時頃、佐々木定綱は屋敷の後ろから、経高は前から庭へ進んで鏑矢を打ち放った。これが「源家平氏を征する最前の一箭」である。堤権守は太刀を取って戦い、経高も弓を捨て、太刀を取って戦う。戦いは激戦となったが、そこへ定綱と高綱が加わり、ついに堤権守を討ち取った。

北條殿以下、兼隆が館の前天満坂の辺に進み矢石を発つ。而るに兼隆が郎従多く以て三島社の神事を拝さんが為参詣す。その後黄瀬川の宿に至り留まり逍遙す。然れども残留する所の壮士等、死を争い挑戦す。この間定綱兄弟信遠を討つの後、これに馳せ加う。

時政公は、山木館前の天満坂あたりで矢石を放つ。じゃが、兼隆の部下達は三島神社の祭礼に参拝して留守であった。たまたま館に残っていた山木の武士達は、死を恐れず懸命に戦ったが、堤権守を討った佐々木兄弟が合流すると、形勢は大きく頼朝軍に傾いた。

爰に武衛軍兵を発するの後、縁に出御し、合戦の事を想わしめ給う。また放火の煙を見せしめんが為、御厩舎人江太新平次を以て、樹の上に昇らしむと雖も、良久しく烟を見ること能わざるの間、宿直の為留め置かるる所の加藤次景廉・佐々木の三郎盛綱・ 堀の籐次親家等を召し、仰せられて云く、速やかに山木に赴き、合戦を遂ぐべしと。手づから長刀を取り景廉に賜う。兼隆の首を討ち持参すべきの旨、仰せ含めらると。

頼朝公は兵を出発させた後、縁側に出て戦の様子をうかがっていた。山木館から火の手が上がっていないか、下男を木に昇らせて確認させたが、煙は見えなかったようじゃ。そこで待機していた佐々木盛綱らに加勢を命じ、加藤景廉には手づから長刀を授け、兼隆の首をあげてくるよう命じた。

仍って各々蛭島通の堤に奔り向かう。三輩皆騎馬に及ばず。盛綱・景廉厳命に任せ、彼の館に入り、兼隆が首を獲る。郎従等同じく誅戮を免れず。火を室屋に放ち、悉く以て焼亡す。暁天に帰参し、士卒等庭上に群居す。武衛縁に於いて兼隆主従の頸を覧玉うと。 

皆は蛭島通りの堤防を馬にも乗らず駆け抜けた。そして、盛綱も景廉も命令どおり、兼隆の屋敷に入り、ついに兼隆の首級をあげた。山木館は全焼し、やがて夜が明けると、兵たちが戻ってくる。頼朝公は縁側で兼隆の首を検分し、頼朝公は平家追悼のための初戦を飾ったのである。

関東の事施行の始めなり

こうして襲撃の様子をみていくと、山木方は大半の兵が三島社のお祭りで遊び惚けていたわけじゃし、緊張感など皆無、ほとんど無防備であった様子がわかる。これは平家という後ろ盾がある驕りともとれるし、頼朝公や北条など、とるに足らない存在であったということなのかもしれない。

いずれにせよ、頼朝公や政子様が言うような「遺恨」めいたものはなかったのではないか。たまたま伊豆の目代であったがゆえに歴史に名を残し、後世、ともすれば敵役として嫌な男に演出されてしまいがちな不運な男という感じじゃな。

8月19日、勝利した頼朝公は、山木兼隆の親戚である史大夫知親が、普段から非法に権力を振るい農民を困らしているので、それを止めるように命令を出した。

兼隆が親戚史大夫知親、当国蒲屋の御廚に在り。日者非法を張行し、土民を悩乱せしむの間、その儀を停止すべきの趣、武衛下知を加えしめ給う。邦道奉行たり。これ関東の事施行の始めなり。 

頼朝公は、蒲御厨の民には、知親の支配を止める事、関東では、どの国も全て庄園も国衙の区別無く頼朝公が命令を出す事を宣言した。これが「関東の事施行の始め」というわけじゃよ。 

そして、頼朝公と北条一族は、政子さまらを伊豆山権現に避難させ、いよいよ平家追討の大戦に挑んでいくことになる。そのことはまた、あらためて。