伊豆の国市は江間にある北條寺には、2代執権北条義時公と伊賀の方夫妻のお墓がある。北條寺は義時公による創建じゃ。かなり昔に訪問記を書いたのじゃが、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まったし、義時公をとりまく女性、姫の前、伊賀の方、阿波局について少々加筆して再公開するぞ。
- 江間小四郎義時と大蛇の伝説
- 北条泰時を生んだ謎の女性・「御所の女房」こと阿波局
- 頼朝公の信頼を得た「亀の前事件」
- 最初の妻・姫の前は絶世の美女だった
- 後妻・伊賀の方には義時暗殺疑惑も…
- 義時後継をめぐる争い「伊賀氏の変」
江間小四郎義時と大蛇の伝説
伝承によると、北條寺は、義時公の子・安千代が大蛇に襲われ命を失ったとき、ここを墓所とし、七堂伽藍を建立したという。安千代は、近くの千葉寺へ勉学のために池の畔を歩いていると、とつぜん大蛇が現れ呑み込まれたという。義時公が、弓矢で応戦するも助けることが出来なかったという伝承じゃ。もちろん安千代という子は歴史にその名をとどめていないし、母親が誰だったのか、そもそも実在したのかなど、皆目わからない。
義時公の伊豆時代についてはほとんど記録がなく、詳細がよくわからない。「吾妻鏡」では「江間小四郎義時」などと記されている。鎌倉幕府が開かれたころ、義時公は江間の地を拝領しており、時政公からは独立した存在だったのかもしれない。
石橋山の戦いで兄の宗時公が討死したことから、頼朝公の側近として「家子専一」とよばれるようになり、その親衛隊の一人として信頼も厚かった。頼朝公にしてみれば、うるさい舅のおやじ・時政公よりも、義弟の義時公のほうが、つきあいやすかったかもしれぬな。
北条泰時を生んだ謎の女性・「御所の女房」こと阿波局
北条義時公には「阿波局」と呼ばれる側室がおり、寿永2年(1183)には長男(庶長子)の金剛が生まれている。後の3代執権・泰時公じゃ。
なお、義時公の妹で、阿野全成の妻となった女性も「阿波局」なので面倒くさいが、これはまったくの別人じゃよ。
「阿波局」については「御所の女房」と記されるのみで出自は不明。佐々木盛綱の嫡男・加地信実の娘に「阿波局」と呼ばれる女性がいるため、この人ではないかという説もある。じゃが、これは年齢的に無理がある。泰時公が生まれたとき、義時公は21歳。一族と共に源頼朝公の挙兵に従い、鎌倉入りしてから3年目の頃である。
大河ドラマでは、義時公は頼朝公に捨てられた初恋の女性、ガッキー演じる八重姫と結ばれて、金剛が生まれる設定になるようじゃ。なるほど、そうなれば頼朝公が金剛をかわいがったわけも、庶子にもかかわらず泰時公を政子さまがその後継として強行に推した理由もしっくりくる。これは、辛い目に合わせてしまった八重姫に対するせめてもの償いじゃろうか?
まあ、それよりも得宗の源流がガッキーになるというのは、わしにとってはうれしいことではあるがな。八重姫についてはこちらの記事を読んでもらうとして…
頼朝公の信頼を得た「亀の前事件」
頼朝公の信頼を確実にしたのは、例の亀の前事件じゃろう。頼朝公が伊豆時代からかこっている愛妾を鎌倉につれてきていることを、時政公の後妻・牧の方が政子さまにチクったのがそもそもの発端じゃ。
当時は一夫多妻がふつうじゃったが、そんな理屈は政子さまには通用しない。また、このとき政子さまは源頼家公を身ごもっており、情緒不安定だったのかもしれぬ。嫉妬にかられた政子さまは、牧の方の父・牧宗親に命じ、亀の前が住む伏見広綱の屋敷を襲撃させ、亀の前は命からがら逃げ出したという。
これを聞いた頼朝公は大激怒、牧宗親を呼び出し叱責する。宗親は平伏して詫びたが、頼朝公は腹の虫が収まらず、宗親の髻を切って辱めた。
すると今度は、時政公が収まらない。舅の宗親へのあまりに酷い仕打ちに、時政公は一族をつれて伊豆へ引き上げてしまい、単なる夫婦喧嘩は、鎌倉中を巻き込む大騒動に発展していったのじゃ。
なんとも珍妙な事件で、みながみな株を下げたんじゃが、このとき義時公は時政公に従わず鎌倉に残り、頼朝公はこれを大いに称賛したという。
その後も冷静でそつのない義時公は、源平の合戦や奥州征伐でもそれなりの武功を上げる。そして頼朝公が上洛する頃には、「家臣の最となす」といわれるまでに、その信頼を確固たるものにしたのじゃ。
最初の妻・姫の前は絶世の美女だった
義時公の最初の妻は比企朝宗の息女・姫の前。頼朝公の大倉御所に勤める官女だった。『吾妻鏡』によれば、それはそれは美しい女性だったらしい。
当時権威無双の女房なり。殊に御意に相叶う。容顔太だ美麗なり
義時公は姫の前にひたすらラブレターを書き続ける。このあたり、いかにも粘着、いや、ねばり強い義時公らしいところじゃが、それでも姫の前は義時公にはふりむいてくれなかった。そこで、見かねた頼朝公が、義時公に「絶対に離縁しません」という起請文を書かせたうえで、ふたりの縁をとりもったとか。
こうして姫の前は義時公に嫁ぎ、次男・朝時(名越流北条氏の祖)、三男・重時(極楽寺流北条氏の祖)を産んでいる。じゃが、こうまでして結ばれたふたりの仲は、頼朝公の死後、比企能員の変で引き裂かれてしまう。義時公は時政公の命令で、比企の館を攻めており、これにより起請文は反故となり、ふたりは離婚する。
ちなみにこの後、姫の前は京都で再婚し、余生を静かに暮らしたという。
後妻・伊賀の方には義時暗殺疑惑も…
その後、義時公は伊賀朝光の娘(伊賀の方)と再婚する。二人の間には、後に7代執権となる政村のほか、実泰、時尚、一条実雅室が生まれている。
境内の小四郎山への階段をのぼっていくと、義時公と後妻の伊賀の方の墓所がある。
義時公の墓といえば、鎌倉の法華堂があり、遺構が発掘されているが、こちらのお墓は3代執権泰時公によってつくられたものだ。
伊賀の方には、黒い噂がつきまとう。義時公は、元仁元年(1224)年6月18日、62歳で急死しており、『吾妻鏡』では死因は衝心脚気としている。しかし、とつぜんの死だったために、「義時公は暗殺された!」と、当時からさまざまな噂があった。
たとえば『保暦間記』には「近習の小侍に刺し殺された」とある。
「左京太夫義時(時に六十三歳)思いの外に近習に召仕ける小侍につき害されけり。さしも十善帝王だに居ながら打勝進せしかども、業因遁れ難き事、都て疑うべからず」
また、藤原定家の『明月記』には、とんでもない風聞が記されている。
承久の乱の後、京方の首謀者の一人として逃亡していた法印尊長が捕らえられた。尊長は、義時と伊賀の方の娘を室に迎えた一条実雅の兄。六波羅探題で尋問を受けたとき、苦痛に耐えかねて、こういったらしい。
「只早頚をきれ。若不然は、又、義時が妻が義時にくれけむ薬、われに是くはせて早ころせ。今から殺されるというのに嘘などつかぬ!」
なんと、尊長は、義時が妻の伊賀の方に毒殺されたことを告白したという。火のないところに煙はたたず……というが、もちろん真実はもは歴史の闇の中じゃ。
こちらの北條寺で、義時公といっしょに眠っているのが伊賀の方。むかって右側が義時公、左が伊賀の方のお墓じゃ。ふたり仲睦まじく、小四郎山の高台から江間の地を眺めているようにみえるけど……やはり、暗い、陰湿なイメージの北条執権の二代目、いろいろ噂があるようじゃな。
義時後継をめぐる争い「伊賀氏の変」
ここで気になるのは「伊賀氏の変」。義時公の死去により、伊賀の方とその兄・伊賀光宗が、伊賀の方の実子・政村の執権就任と、娘婿・一条実雅の将軍職就任を画策したとされる事件じゃ。
当時、まだ影響力を保持していた尼将軍の政子さまは、泰時公と時房殿を御所に呼び、ふたりをそれぞれ執権と連署に任命する。いっぽう光宗らは、政村の烏帽子親である三浦義村を引き込んで泰時公を討つ計画をたてる。しかし、政子殿は先手を打って義村邸に赴き、義村を味方にとりこんでしまう。
こうして伊賀の方は伊豆へ、光宗は信濃へ、実雅は越前へ、謀反人として流されてしまう。これは政子さまが伊賀氏の影響力が大きくなることを危惧し、事件をでっちあげたのでは? ともいわれている。