北条時行、諏訪頼重と中先代の乱について。じつは、この記事、だいぶまえのものなんじゃが、先日、中公新書から『中先代の乱-北条時行、鎌倉幕府再興の夢 』が出版されたので、あらためてこの記事もおかしなところを直してあげなおさせてもらった。
しかしそれにしても……北条時行がジャンプの漫画の主人公になったり、中先代の乱で新書が刊行されるなんて、ほんとうに夢のようじゃ。
- 中先代の乱とは
- 諸国に広がる北条与党による反乱
- 諏訪神党と諏訪頼重
- 時行、信濃に挙兵
- 快進撃で父祖の故地・鎌倉を奪還
- 北条時行、鎌倉奪還の経緯
- 尊氏の東下により鎌倉が陥落
- 北条時行、足利尊氏合戦の経緯
- 中先代の乱の歴史的意義
中先代の乱とは
まずは「中先代の乱とは何ぞ?」という人も少なくないじゃろうから、まずはそちらから。「中先代の乱」とは、建武2年(1335)7月、最後の得宗・北条高時の遺児の亀寿丸あらため北条時行が、信濃の諏訪頼重に擁立され、鎌倉幕府再興のために挙兵した事件のことじゃ。
北条の世が「先代」、のちの足利の世が「当御代」と呼ばれたことから、その間に鎌倉を支配した時行にちなんで、「中先代」の乱と呼ばれたわけじゃな。たった20日の支配じゃったことから「廿日先代(はつかせんだい)」の乱ともいわれておる。
鎌倉を制するものが武家を束ねる。鎌倉とはそういう場所なのじゃ。
なお、鎌倉最期の日、わしの息子たちがどうなったかは、こちらご覧くだされ。
諸国に広がる北条与党による反乱
さてこの時期、後醍醐天皇による建武の新政は武家の間ですこぶる評判が悪く、各地で反乱が続いていた。『中先代の乱 』によれば、鎌倉幕府滅亡から足利尊氏の建武政権離反までの間に26件の反乱が全国で起きており、そのうちの過半数に北条与党が関与しているという。
たとえば九州では、執権赤橋守時の弟の九州探題・赤橋基時の養子となった金沢流の規矩高政と糸田貞義の兄弟が蜂起したし、関東では、北条氏被官の本間・渋谷一党が相模国で挙兵した。
畿内でも紀伊飯盛山で金沢貞顕の甥・佐々目僧正顕宝が乱をおこしているし、京都でも北条高安が足利尊氏・新田義貞の襲撃を計画し、未遂に終わっている。北条泰家に至っては、西園寺公宗とともに後醍醐天皇を暗殺しようと企てるなど、世は騒然としはじめていた。
諏訪神党と諏訪頼重
中先代の乱当時、北条時行は7歳だったと推定されている。当然、そんな幼子かこんな大それた事件を企てられるはずはなく、背後にはんもちろんフィクサーがいた。それが諏訪頼重である。
諏訪頼重は諏訪大社上社の大祝(おおはふり)であり、その子時継も大祝をつとめていた。諏訪大社は建御名方神(たけみなかたのかみ)を祀る東国の軍神であり、諏訪神党の盟主であった。神党に属する一族は「神」を本姓とする神氏を称し、諏訪氏を中心に強力な武士団を形成していた。
はじめ信濃国の諏訪、伊那、佐久、小県一帯は比企氏の所領だったが、比企能員の乱以後、北条氏が信濃守護をつとめるようになると、諏訪氏は得宗御内人として仕え、重用されてきた。
「太平記」によれば、鎌倉炎上のとき、東勝寺では一門の諏訪時光(円光入道)が自刃しているし、「諏訪盛高」が北条泰家の命により、時行(亀寿)を鎌倉から救い出している。ちなみに、この盛高はは頼重と同一人物と考えられている。
鎌倉幕府滅亡後、建武政権は信濃守護に小笠原貞宗を任じた。得宗被官であった諏訪氏とうまくいくはずもない。諏訪頼重・時継父子は決起のチャンスを虎視眈々と狙っていた。つまり、建武政権のご都合主義による圧迫に、北条遺臣と諏訪神党が乾坤一擲の勝負に出たのが中先代の乱というわけなんじゃよ。
時行、信濃に挙兵
建武2年7月14日、諏訪氏に奉じられた北条時行は信濃で挙兵した。もちろん目的は鎌倉幕府再興にある。この決起は、京の北条泰家・西園寺公宗、北陸の名越時兼(名越時有の長男)と呼応していたという説もあるが、これについての確証はない。しかし、建武政権を慌てさせるには十分であったようだ。
北条時行軍ではまず、信濃の豪族・保科弥三郎と四宮左衛門太郎が小笠原貞宗が青沼に攻め寄せた。このとき保科・四宮勢は敗れたが、時行方と守護側の合戦は、八幡河原、福井河原(千曲市)、篠ノ井河原、四宮河原(以上、長野市)、村上河原(埴科郡坂城町)と、各地で展開された。この間に時行を擁立した北条本軍は信濃の国司を攻め、血祭りに上げている。陽動作戦がうまくはまったようじゃ。
時行挙兵を聞いた建武政権は当初、北条軍が木曽路から尾張へ向かうと考えていたふしがある。しかし、時行が目指したのは足利直義が成良親王を奉じる鎌倉将軍府であった。鎌倉あっての北条氏じゃ。これは、まあ、当然じゃろう。
快進撃で父祖の故地・鎌倉を奪還
時行軍は上野、武蔵へと進軍した。女影原では渋川義季・岩松経家を破り、武蔵府中では救援に駆けつけた小山秀朝を自害に追い込んでいる。さらに小手指ケ原では今川範満を破ると、井出の沢、鶴見で足利直義軍を撃破して、あっという間に鎌倉を奪回する。
相模次郎時行には、諏訪三河守・三浦介入道・同若狭五郎・葦名判官入道・那和左近大夫・清久山城守・塩谷民部大夫・工藤四郎左衛門已下宗との大名五十余人与してげれば、伊豆・駿河・武蔵・相摸・甲斐・信濃の勢共不相付云事なし。時行其勢を率して、五万余騎、俄に信濃国に打越て、時日を不替則鎌倉へ攻上りける。渋河刑部大夫・小山判官秀朝武蔵国に出合ひ、是を支んとしけるが、共に、戦利無して、両人所々にて自害しければ、其郎従三百余人、皆両所にて被討にけり。又新田四郎上野国利根川に支て、是を防がんとしけるも、敵目に余る程の大勢なれば、一戦に勢力を被砕、二百余人被討にけり。懸りし後は、時行弥大勢に成て、既に三方より鎌倉へ押寄ると告ければ、直義朝臣は事の急なる時節、用意の兵少かりければ、角ては中々敵に利を付つべしとて、将軍の宮を具足し奉て、七月十六日の暁に、鎌倉を落給けり(「太平記」)
新田義貞の鎌倉攻めと同じよいに鎌倉街道を南下し、父祖伝来の地を奪還した時行の感慨はいかばかりであったか。
もちろんこのとき、時行はまだ年端もいかない子どもである。諏訪頼重・時継父子に担がれていただけで、「あっぱれ大将軍よ」という感じではなかったかもしれぬ。とはいえ新田義貞の鎌倉攻めの折、足利千寿王(後の義詮)もわずか3歳で足利軍の大将だったわけじゃから、その存在そのものが重要だったことはまちがいない。
それに子どもであっても得宗の「血脈」への自覚はあったはず。鎌倉を奪還した時行が、劫火の中で父と一族が自刃した東勝寺跡に赴いて手を合わせる場面もあったのではないだろうか。
このとき足利直義は、幽閉していた護良親王を殺害し、成良親王を担いで三河へ逃れた。直義が護良親王を殺した理由は、元執権の北条と征夷大将軍の護良親王の結託による鎌倉幕府再建を恐れたとか、単に足手まといだったとかいわれるが、はっきりとしたことは直義でなければわからない。ただ、直義の独断であったことは間違いない。
いずれにせよ、北条時行は鎌倉を奪還、「正慶」の元号を復活し、鎌倉幕府再興をあらためて決意したのじゃ。
北条時行、鎌倉奪還の経緯
- 7・14 小笠原貞宗、時行方保科弥三郎らと青沼他で合戦
- ?・?? 諏訪頼重ら、信濃国司を攻める
- 7・18 北条時行軍、上野へ侵攻
- ?・?? 上野蕪川で新田四郎を破る
- ?・?? 武蔵久米川で渋川義季を撃破
- ?・?? 武蔵女影腹で合戦 宮方の岩松経家・渋川義季が討死
- ?・?? 武蔵小手指原で合戦 宮方の今川範満が討死
- ?・?? 武蔵国府で合戦 敗れた宮方の小山秀朝は自害
- 7・22 武蔵井出沢で合戦 足利直義を破る
- 7・23 足利直義が鎌倉を脱出
- 7・24 武蔵鶴見で合戦 宮方の佐竹義直が討死
- 7・24 北条時行、鎌倉に入る
尊氏の東下により鎌倉が陥落
「太平記」によれば、鎌倉に攻め込んだ北条軍は5万を超えていたらしい。まあ、太平記の数字はほとんど信用ならんが、北条軍が破竹の勢いで鎌倉に向かったことは確かである。
この事態に足利尊氏は、後醍醐天皇に北条時行追討を願い出て、総追捕使と征夷大将軍の職を要請した。しかし後醍醐天皇はそれを許さず、尊氏は勅状を得ないまま出陣してしまう。後醍醐天皇はしかたなく、このあと、尊氏に征東将軍の号を与えている。
相模次郎時行是を聞て、「源氏は若干の大勢と聞ゆれば、待軍して敵に気を呑れては不叶。先ずる時は人を制するに利有り」とて、我身は鎌倉に在ながら、名越式部大輔を大将として、東海・東山両道を押て攻上る。
足利尊氏出馬を聞いた時行は進軍を命じる。もちろん諏訪頼重が積極策を進言したのじゃろう。しかし、快進撃を続けてきた北条軍に、ここで不運が襲う。
其勢三万余騎、八月三日鎌倉を立たんとしける夜、俄に大風吹いて、家々を吹破ける間、天災を遁れんとて大仏殿の中へ逃入り、各身を縮て居たりけるに、大仏殿の棟梁、微塵に折れて倒れける間、其内にあつまり居たる軍兵共五百余人、一人も不残圧にうてて死にけり。戦場に趣く門出にかかる天災に逢ふ。
うーん、踏んだり蹴ったりである。諏訪社の軍神も尊氏出馬と聞いて、北条を見放したのであろうか。後醍醐天皇は「信濃国凶徒頼重法師以下の輩追討」のための祈祷を命じており、その成果と喧伝したという。
始め遠江の橋本より、佐夜の中山・江尻・高橋・箱根山・相模川・片瀬・腰越・十間坂、此等十七箇度の戦ひに、平家二万余騎の兵共、或は討れ或は疵を蒙りて、今僅に三百余騎に成ければ、諏訪三河守を始として宗との大名四十三人、大御堂の内に走入り、同く皆自害して名を滅亡の跡にぞ留めける。其死骸を見るに、皆面の皮を剥で何れをそれとも見分ざれば、相模次郎時行も、定て此内にぞ在らんと、聞人哀れを催しけり。
けっきょく直義と合流した尊氏は各地で激戦を繰り広げながら進軍。劣勢の北条軍はついに鎌倉を支えきれず、諏訪頼重らは勝長寿院で自害し、時行は「逃げ上手の若君」よろしく逃亡する。
自刃した諏訪頼重は顔の皮をはぎ取って、遺体からその名が分らぬようにしたという。何と酷いことであろう。しかし北条氏は東勝寺で番場宿でもそうであったが、じつに結束の固い一族である。
ちなみに、北陸で挙兵した名越時兼も加賀国大聖寺で鎮圧されてしまい、北条氏による幕府再興の夢は露と消える。じゃが、北条時行は忠義の者に守られて鎌倉を逃れ、再起のチャンスをうかがう。
しかし、足利尊氏はその後、持明院統を担いで室町幕府をつくってしまう。この時点で北条による鎌倉幕府再興の夢は詰んだ。以後、時行や北条与党は「足利憎し」の一転で結束し、南朝の臣として戦い続けるのじゃ。
北条時行、足利尊氏合戦の経緯
- 8・2 足利尊氏が京を出発
- 8・9 遠江橋本の合戦
- 8・12 遠江小夜の中山の合戦
- 8・14 駿河国府の合戦
- 8・14 駿河高橋で合戦
- 8・14 駿河清見関で合戦
- 8・17 相模箱根で合戦
- 8・18 相模川で合戦
- 8・19 相模辻堂・片瀬での合戦
- 8・19 鎌倉陥落 諏訪頼重ら自害。時行は逃亡
中先代の乱の歴史的意義
松井優征さんの「逃げ上手の若君 」のおかげで、にわかに脚光を浴びることとなった北条時行と中先代の乱じゃが、その歴史的意義を追記しておきたい。
あらためて戦の経緯をみてみると、この内乱がかなり大規模なものであったことがわかる。時行決起後、関東の名だたる武将が討死にしているし、鎮圧のために足利尊氏が後醍醐天皇の命令を無視してでも東下した事実をもってしても、事の深刻さはわかるじゃろう。
時行や元御内人が決起した目的が、北条氏による鎌倉幕府再興であったことは間違いない。北条が執権となり、持明院統の親王を将軍にいただき、武家の府としての政治をとることを望んだのである。しかし、この戦いで時行に味方した者がすべて北条与党というわけでもない。それゆえこの戦いでは、建武政権に不満をもつ武士たちが「北条時行」という神輿を求めたというほうが、より適切かもしれぬな。
そこへ「足利尊氏」という神輿が出てきた。諸国の武士は尊氏のもとにどんどん集まってくる。もちろん当初、尊氏自身にどれほどの野心があったかはわからない。じゃが、少なくとも中先代の乱をきっかけに尊氏は後醍醐天皇と袂を分かち、武家の棟梁として将軍となり、室町幕府が誕生するわけじゃ。
『中先代の乱 』で著者の鈴木久美さんはこう書いておられる。
時行や尊氏の支持基盤である武士たちは、親王将軍を仰いで執権北条氏が権力を握る体制ではなく、尊氏を源頼朝になぞらえることで、鎌倉幕府開創者源頼朝の時代への回帰を求めたのではないか。そのため時行と尊氏の直接対決となった中先代の乱は、頼朝の再来である尊氏の勝利に終わったともいえるだろう。
なるほど。そう考えると「中先代の乱」というのは、じつに絶妙なネーミングじゃと、深くうなずいたりするわけである。
そして、時行が尊氏と戦い続けた理由もあらためてわかってくる。実験として鎌倉幕府を支えてきた北条末裔の時行にとって、足利将軍というのはどうしても認めがたい、倒さねばならなかったのじゃよ。