鎌倉市は深沢地域。ちょうど湘南モノレールの湘南深沢駅近くに洲崎古戦場跡碑がある。このあたりから町屋、山﨑あたりは鎌倉末、赤橋守時が自刃した洲崎合戦があったところじゃ。赤橋守時といえば、大河ドラマ「太平記」で勝野洋さんが好演していたのを記憶している者も多いじゃろう。
赤橋守時の出自
赤橋流北条氏の始祖は第6代執権をつとめた北条長時。屋敷が鶴岡八幡宮の「赤橋」(現在の太鼓橋)の近くにあったので「赤橋」姓を名乗った。北条の中では得宗家につく2番目の家格の名流じゃ。
赤橋守時は永仁3年(1295年)、北条久時の子として生まれた。徳治2年(1307)、13歳で従五位下・左近将監に叙任され、元服時には将軍・守邦親王を烏帽子親とし、「守」の字を賜った。将軍から偏諱をもらえるのは得宗家以外では赤橋流の当主だけなんじゃよ。
嘉暦元年(1326)、嘉暦の騒動で執権のなり手がいない中、当時、引付衆一番頭人にあった守時は第16代執権に就任した。守時はわしや内管領の長崎高資らと協力して政務を行なっていたのじゃ。
守時の妹の登子は足利高氏に嫁いでいた。源氏の血を引く足利は鎌倉幕府でも最上位クラスの御家人であり、歴代当主は北条と婚姻関係を結んでいた。わしら北条も足利を格別に遇し、もはや足利は北条の一族といってもよいほど、蜜月関係であったのじゃ。
ところが、高氏は北条を裏切った!正慶2年/元弘3年(1333)5月、西国に向かっていた高氏は突然叛旗を翻し、宮方として京の六波羅探題に攻め込んだ。時を同じくして登子と嫡子・千寿王が鎌倉から逃げ出しており、義兄の守時は幕府内で厳しい立場に立たされた。長崎円喜や高資は疑心暗鬼となり、守時が高氏と東西呼応して決起するのではないかと疑心暗鬼になり、守時は謹慎を申し付けられのじゃ。じゃが、これは濡れ衣であった。
高時と守時
吉川英治さんの「私本太平記」に高時と義時の別れのシーンがある。高時は新田義貞の軍が鎌倉に迫る中、守時を呼び出す。
「赤橋。かけたらどうだ。まずそれへ」
「謹慎の身です。ありがたくは存じますが、いただきかねます」
「遠慮はいらん。わしがゆるすのだ。また、無断出仕の胸もほぼ分っておる。赤橋、出陣のゆるしを求めに参ったのであろ」
「ご明察の通りです。新田の大軍は、はやこれへ近づき、西の海道からも、大塔ノ宮の指令による海道の宮方武士が、新田に呼応して、攻めくだってまいるよし。なにとぞ、守時に一手の防ぎをお命じ給わりますように」
「望みか」
「さもなくては、この守時、死にきれませぬ。守時とて北条一族の内、その妹聟に、宗家へ弓を引く反逆の子を出したことです。世間の疑いの目、誹の声、それはまだ忍ぶとしても、この御存亡の日を、ただよそ目には見ていられません。宗家へのおわび、かつは武士として、身の面目の上からも」
「もっともだ。人はみな依然、赤橋を疑っている。兵馬を持たせて前線へ出すなど、とんでもないことだというだろう。……だが、高時はそう思わん。疑うくらいなら八ツ裂きにしてしまう。御辺に謹慎を命じおいたのは、坊主にでもなる心かと察したからだ。……が、そうではなく、やはり武士なれば武士で死にたいというならば、それもよからむ。一方の大将を御辺に託そう。戦ってくれ。高時も降伏などはせぬつもりだ」守時は、落涙した。なんども、高時の床几を拝して、 「かたじけのう存じまする」 と、身を沈める。その手をとって、高時は抱くように、彼を床几へかけさせた。
「赤橋。いまからは、御辺も一方の大将としてたのむのだ。もう謹慎の身ではない」
「不覚な態。面目もございませぬ。幾十日ぶりかで、守時の上にも、青空があったようなと、つい心をとりみだしまして」
「いや。御辺がこれへ来たことは、高時にもうれしいのだ。人間同士が信じられぬままでは何とも浅ましい。わけて高時は人一倍の淋しがり。わしの陣に、赤橋のごとき者が一人ふえたと思えば、心も少し賑やかになる」
守時の至誠と高時の優しさ。なかなかの名シーンに涙が出てくるぞ。
赤橋守時、壮絶な最期
5月18日、守時は北条一門から裏切り者呼ばわりされた汚名を晴らすため、新田義貞軍を迎え撃つ先鋒隊として、巨福呂坂への出陣した。
古典『太平記』(赤橋相模守自害事付本間自害事)にはその戦いぶりが記されている。
懸ける処、赤橋相模守、今朝は州崎へ被向たりけるが、此陣の軍剛して、一日一夜の其間に、六十五度まで切合たり。
されば数万騎有つる郎従も、討れ落失る程に、僅に残る其勢三百余騎にぞ成にける。
侍大将にて同陣に候ける南条左衛門高直に向て宣ひけるは
「漢・楚八箇年の闘に、高祖度ごとに討負給たまひしか共、一度烏江の軍に利を得て却て項羽を被亡き。斉・晋七十度の闘に、重耳更に勝事無りしか共、遂に斉境の闘に打勝て、文公国を保てり。されば万死を出て一生を得、百回負て一戦に利あるは、合戦の習也。今此戦に敵聊勝に乗るに以たりといへ共、さればとて当家の運今日に窮りぬとは不覚」
雖然盛時に於ては、一門の安否を見果る迄もなく、此陣頭にて腹を切んと思ふ也。其故は、盛時足利殿に女性方の縁に成ぬる間、相模殿を奉始、一家の人々、さこそ心をも置給らめ。
鎌倉の防衛軍で、巨福呂坂の要害を防衛した守時は、新田勢の堀口貞満と死闘を演じ、一昼夜の間に65回も斬り込みをかけたという。しかし衆寡敵せず、洲崎の地で子の益時とともに自刃した。享年39。一説には、足利高氏は守時を助命しよう使者をつかわしたが、守時はこれを断固拒否し、腹を切ったとも伝えられている。
守時には申し訳ないことをしてしまった……
最後の執権・守時は、まっすぐで誇り高き男だったのじゃ。その気になれば高氏のツテを頼って、うまく立ち回ることもできたじゃろうに、守時はそれをしなかった。せめて、わしひとりでも守時を信じ、味方になってやるべきじゃった……許せ、守時。
今になって思えば、もし守時と高氏が協力して幕政再建に取り組んでおれば、鎌倉幕府は安泰であったかも知れぬ。まあ、それを今更言っても仕方ないのじゃが、守時が壮絶な死を遂げた数日後の5月22日、鎌倉幕府は滅亡した。
その後、後醍醐天皇は守時の妻(後家尼)に、伊豆国三浦荘内の田地一万疋を知行させるという綸旨を出している。敵将の寡婦に対する異例の厚遇ではあるが、これは足利高氏が働きかけたのであろう。守時は登子と千寿王の鎌倉脱出に便宜を計ったとも言われており、それに報いたのじゃろう。
赤橋守時は鎌倉の浄光明寺に眠っている。なお、洲崎古戦場碑の近くには「泣塔」がある。その名の由来は、塔の周囲で泣き声のような音がすることから名づけられたとか。洲崎の戦で亡くなったぶ武者たちの御霊と、何か関係があるのかも知れぬな。